【日産全車種一覧】日産の歴代車種を徹底解説!(1935年~1960年代)
更新日:2024.09.09
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現在の日産のルーツは、1911年に設立された快進社にまで遡ることができます。快進社は実用自動車との合併や鮎川儀介の設立した戸畑鋳物の傘下になるなど紆余曲折を経て、1934年に日産自動車となりました。
当時すでにさまざまな乗用車を製造していた日産にどのような車種があったのかを、当時の乗用車ラインナップと共に紹介します
当時すでにさまざまな乗用車を製造していた日産にどのような車種があったのかを、当時の乗用車ラインナップと共に紹介します
- Chapter
- 1935~1960年代の日産
- ダットサン 14型(1935年)
- ダットサン 15型(1936年)
- ダットサン 16型(1937年)
- ニッサン 乗用車 70型(1937年)
- ダットサン 17型(1938年)
- たま E4S47(1947年)
- ダットサン 乗用車 DA型(1947年)
- ダットサン 乗用車 DB型(1948年)
- ダットサン 乗用車 DS型(1950年)
- ニッサン パトロール(1951年)
- ダットサン スポーツ DC3型(1952年)
- プリンス セダン(1952年)
- ダットサン 乗用車 110型(1955年)
- プリンス スカイライン(1957年)
- ダットサン 1000セダン(1957年)
- プリンス グロリア(1959年)
- ダットサン スポーツ S211型(1959年)
- ダットサン ブルーバード(1959年)
- 日産 セドリック 30型(1960年)
1935~1960年代の日産
1934年に発足した日産は、当時の日本の15大財閥の1つとされる日産コンツェルンの一員となりました。
日産コンツェルンは政府の要請を受けて当時の施政下にあった満州に移転。日産自動車も、1940年に満州に存在していた国産自動車メーカー「同和自動車」向けにクルマを輸出していました。
太平洋戦争中は民需乗用車の生産が禁止され、日産も乗用車とトラックの生産を全面的に中止してしまいます。しかし、太平洋戦争が終結した1945年の11月には戦後1号車を送り出し、再びクルマづくりを再開させることに成功しました。
日産コンツェルンは政府の要請を受けて当時の施政下にあった満州に移転。日産自動車も、1940年に満州に存在していた国産自動車メーカー「同和自動車」向けにクルマを輸出していました。
太平洋戦争中は民需乗用車の生産が禁止され、日産も乗用車とトラックの生産を全面的に中止してしまいます。しかし、太平洋戦争が終結した1945年の11月には戦後1号車を送り出し、再びクルマづくりを再開させることに成功しました。
ダットサン 14型(1935年)
ダットサン 14型は、日産に改称後初となる乗用車として登場しました。
1934年に建設された横浜工場で製造され、年間1万台規模を生産する本格的な量産乗用車で、車体は幌製のルーフを備えるオープンカー(コンバーチブル)となっています。
エクステリア(外装)デザインは著名な工業デザイナーだった富谷龍一氏が手がけたとされています。フロントグリル上にはダットサンのアイコンとも言えるウサギのエンブレムが飾られています。
1934年に建設された横浜工場で製造され、年間1万台規模を生産する本格的な量産乗用車で、車体は幌製のルーフを備えるオープンカー(コンバーチブル)となっています。
エクステリア(外装)デザインは著名な工業デザイナーだった富谷龍一氏が手がけたとされています。フロントグリル上にはダットサンのアイコンとも言えるウサギのエンブレムが飾られています。
ダットサン 15型(1936年)
ダットサン 15型は、4人乗りの2ドアに幌製のルーフを備えたクルマです。
こうしたエクステリアは当時「フェートン」と呼ばれ、現在のセダンと同じように乗用車として使われました。エンジンはダットサン 14型と同じ排気量0.7Lですが、圧縮比を高めることでパワーアップを実現しています。
こうしたエクステリアは当時「フェートン」と呼ばれ、現在のセダンと同じように乗用車として使われました。エンジンはダットサン 14型と同じ排気量0.7Lですが、圧縮比を高めることでパワーアップを実現しています。
ダットサン 16型(1937年)
ダットサン 16型は、セダン・フェートン・クーペ・ロードスターなどの複数のバリエーションを持つクルマとして登場しました。
エンジンは15型と同じですが、エクステリア(外装)やインテリア(内装)の質感が高められ、ドアハンドルが埋め込み式になるなど当時のトレンドを取り入れたデザインとなっています。また、クーペは金属製のルーフを備えつつ、ステアリングコラムの角度を調整することで広い室内空間を確保していました。
エンジンは15型と同じですが、エクステリア(外装)やインテリア(内装)の質感が高められ、ドアハンドルが埋め込み式になるなど当時のトレンドを取り入れたデザインとなっています。また、クーペは金属製のルーフを備えつつ、ステアリングコラムの角度を調整することで広い室内空間を確保していました。
ニッサン 乗用車 70型(1937年)
ニッサン 乗用車 70型は、当時存在したアメリカの自動車メーカー「グラハム・ペイジ」のノウハウを利用してつくられたクルマです。
1930年代、グラハム・ペイジは経営不振に陥っていたため、日産は設計図や工作機械を買い取ってノウハウを吸収し国産化を模索しました。そのためニッサン乗用車 70型はアメリカ車ゆずりの大型車になり、最大7人まで乗車可能だったとも言われています。
1930年代、グラハム・ペイジは経営不振に陥っていたため、日産は設計図や工作機械を買い取ってノウハウを吸収し国産化を模索しました。そのためニッサン乗用車 70型はアメリカ車ゆずりの大型車になり、最大7人まで乗車可能だったとも言われています。
ダットサン 17型(1938年)
ダットサン 17型は、太平洋戦争前に登場した最後の乗用車です。
1937年から始まった日中戦争や、アメリカとの対立などの影響からインテリアに使用する綿などが不足し、インテリアに充分な装飾ができなかったとも言われています。一方で、エンジンは16型まで使われていた実績のある0.7L 直列4気筒エンジンが採用され、当時を代表する国産乗用車の1つとして活躍しました。
1937年から始まった日中戦争や、アメリカとの対立などの影響からインテリアに使用する綿などが不足し、インテリアに充分な装飾ができなかったとも言われています。一方で、エンジンは16型まで使われていた実績のある0.7L 直列4気筒エンジンが採用され、当時を代表する国産乗用車の1つとして活躍しました。
たま E4S47(1947年)
たま E4S47は、太平洋戦争後に登場した電気自動車です。
戦後間もない日本では石油燃料が枯渇していました。しかし、発電用施設は破壊を免れたため電気によって動くクルマが模索され、たま E4S47は戦後初の電気自動車として誕生しました。
製造は「東京電気自動車」によって行われ、同社はのちにプリンス自動車となり、最終的に日産と合併を果たすこととなります。
戦後間もない日本では石油燃料が枯渇していました。しかし、発電用施設は破壊を免れたため電気によって動くクルマが模索され、たま E4S47は戦後初の電気自動車として誕生しました。
製造は「東京電気自動車」によって行われ、同社はのちにプリンス自動車となり、最終的に日産と合併を果たすこととなります。
ダットサン 乗用車 DA型(1947年)
ダットサン 乗用車 DB型は、戦前の自動車製造技術を活かして開発された戦後初のニッサン乗用車です。
太平洋戦争後、日本ではGHQによって自動車製造が禁止されていましたが、1947年に生産が許可され、ダットサンは戦前の乗用車をベースにDA型を誕生させました。エンジンなど基本的なスペックは戦前の17型などと変わりませんが、車体は生産がしやすいよう工夫が加えられていたとされています。
太平洋戦争後、日本ではGHQによって自動車製造が禁止されていましたが、1947年に生産が許可され、ダットサンは戦前の乗用車をベースにDA型を誕生させました。エンジンなど基本的なスペックは戦前の17型などと変わりませんが、車体は生産がしやすいよう工夫が加えられていたとされています。
ダットサン 乗用車 DB型(1948年)
ダットサン 乗用車 DB型は、ダットサン 乗用車 DA型をベースに開発されたクルマです。
乗用車DA型をベースとしつつ、1947年に小型乗用車の排気量上限が0.75Lから1.5Lまで拡大されたことを受けてエンジン排気量を0.86Lに拡大し、エクステリアデザインもよりモダンなスタイルへと刷新されました。DB型は販売中に改良が行われ、DB-5やDB-6などのモデルが存在します。
乗用車DA型をベースとしつつ、1947年に小型乗用車の排気量上限が0.75Lから1.5Lまで拡大されたことを受けてエンジン排気量を0.86Lに拡大し、エクステリアデザインもよりモダンなスタイルへと刷新されました。DB型は販売中に改良が行われ、DB-5やDB-6などのモデルが存在します。
ダットサン 乗用車 DS型(1950年)
ダットサン 乗用車 DS型は、ダットサン 乗用車 DA型やDB型に対して実用性を高めたクルマとして登場しました。
エクステリアは四角い平面構成となり、デザインは戦前から日産で活躍している工業デザイナーの富谷龍一氏が手がけたとされています。ルーフから伸びるワイパーブレードや、フロントグリルから飛び出たフロントバンパーなど、戦後間もないクルマの特徴が色濃く反映されたクルマと言えるでしょう。
エクステリアは四角い平面構成となり、デザインは戦前から日産で活躍している工業デザイナーの富谷龍一氏が手がけたとされています。ルーフから伸びるワイパーブレードや、フロントグリルから飛び出たフロントバンパーなど、戦後間もないクルマの特徴が色濃く反映されたクルマと言えるでしょう。
ニッサン パトロール(1951年)
ニッサン パトロールは、自衛隊の前身である警察予備隊用として開発されたクルマです。
警察予備隊には三菱 ジープが採用されたため、日産は実用性を備えた4WD(4輪駆動)車として民需に活路を見出し、ニッサン パトロールとして発売されました。同じく警察予備隊のクルマとして開発されていた三菱 ジープやトヨタ 初代ランドクルーザーと似たエクステリアを備え、ルーフも幌製となっています。
警察予備隊には三菱 ジープが採用されたため、日産は実用性を備えた4WD(4輪駆動)車として民需に活路を見出し、ニッサン パトロールとして発売されました。同じく警察予備隊のクルマとして開発されていた三菱 ジープやトヨタ 初代ランドクルーザーと似たエクステリアを備え、ルーフも幌製となっています。
ダットサン スポーツ DC3型(1952年)
ダットサン スポーツ DC3型は、ダットサン 乗用車 DB型のエンジンなどをベースに開発されたスポーツカーです。
日産として初のスポーツカーであり、本来はショーモデルとしてつくられたモデルでしたが、反響や好評を受けて生産が決定。最終的に約20台が販売されたと言われ、のちのダットサン フェアレディなどに続く日産スポーツカーの原点と言える存在です。
日産として初のスポーツカーであり、本来はショーモデルとしてつくられたモデルでしたが、反響や好評を受けて生産が決定。最終的に約20台が販売されたと言われ、のちのダットサン フェアレディなどに続く日産スポーツカーの原点と言える存在です。
プリンス セダン(1952年)
プリンス セダンは、のちに日産に合併するプリンス自動車によって製造された同社初のガソリン乗用車です。
戦後初の電気自動車であるたまE4S47をつくった東京電気自動車は1952年にプリンス自動車工業へと改称。プリンス セダンはプリンス初のクルマでもありました。
同社は、たまE4S47発売後も電気自動車を製造していましたが、1950年に勃発した朝鮮戦争の影響でバッテリーの材料価格が高騰し、ガソリン乗用車の開発せざるを得なかったとされています。
戦後初の電気自動車であるたまE4S47をつくった東京電気自動車は1952年にプリンス自動車工業へと改称。プリンス セダンはプリンス初のクルマでもありました。
同社は、たまE4S47発売後も電気自動車を製造していましたが、1950年に勃発した朝鮮戦争の影響でバッテリーの材料価格が高騰し、ガソリン乗用車の開発せざるを得なかったとされています。
ダットサン 乗用車 110型(1955年)
ダットサン 乗用車 110型は、日産が戦後設計したはじめての乗用車でした。
戦後発売されたダットサン 乗用車 DA型やDB型などのクルマは戦前に開発したダットサン 17型の設計をベースにしたものでした。110型はまったく新しい車体とエンジンを備え、当時販売されていた商用車「ダットサン トラック」と共通の構造を持っていました。
戦後発売されたダットサン 乗用車 DA型やDB型などのクルマは戦前に開発したダットサン 17型の設計をベースにしたものでした。110型はまったく新しい車体とエンジンを備え、当時販売されていた商用車「ダットサン トラック」と共通の構造を持っていました。
プリンス スカイライン(1957年)
プリンス スカイラインは、プリンス自動車によって開発されたクルマで、現在もその名前が引き継がれているロングセラーモデルです。
1952年に発売されたプリンス セダンの後継車種として登場し、1962年には「スカイライン スポーツ」などのグレードが追加され、アルペンラリーなどモータースポーツでも活躍しました。また、初代は「ド・ディオンアクスル」という先進的なサスペンションを採用するなど、最新技術が注ぎ込まれたクルマでもあります。
1952年に発売されたプリンス セダンの後継車種として登場し、1962年には「スカイライン スポーツ」などのグレードが追加され、アルペンラリーなどモータースポーツでも活躍しました。また、初代は「ド・ディオンアクスル」という先進的なサスペンションを採用するなど、最新技術が注ぎ込まれたクルマでもあります。
ダットサン 1000セダン(1957年)
ダットサン 1000セダンは、ダットサン 乗用車 110型の後継車種として登場しました。
エンジンは日産初となるOHV機構を採用し、排気量を0.98Lまで拡大。最高出力34PSを誇りました。1000セダンにはさまざまなバリエーションが設定され、基本となるセダンの他にも「デラックス」と呼ばれるモデルも存在しました。
エンジンは日産初となるOHV機構を採用し、排気量を0.98Lまで拡大。最高出力34PSを誇りました。1000セダンにはさまざまなバリエーションが設定され、基本となるセダンの他にも「デラックス」と呼ばれるモデルも存在しました。
プリンス グロリア(1959年)
プリンス グロリアは、1957年に発売されたプリンス スカイラインの派生車種として登場しました。
スカイラインをベースとしつつ、エクステリアやインテリアデザインを変更し質感を高めています。優れた乗り心地やスカイライン譲りのスペックから乗用車としても人気があり、当時親王だった平成天皇のもとに納入されたクルマでした。
スカイラインをベースとしつつ、エクステリアやインテリアデザインを変更し質感を高めています。優れた乗り心地やスカイライン譲りのスペックから乗用車としても人気があり、当時親王だった平成天皇のもとに納入されたクルマでした。
ダットサン スポーツ S211型(1959年)
ダットサン スポーツ S211型は、1952年に発売されたダットサン スポーツ DC3型の後継車種として登場したクルマです。
車体はDC3型同様のオープンボディー(コンバーチブル)となり、日産 フェアレディZのルーツともされています。一方で生産台数は少量に留まり、一説では試験的に開発されたとも言われています。DC3型も本来はショーモデルとして開発された経緯があり、先代と似た経緯を辿ったクルマと言えるでしょう。
車体はDC3型同様のオープンボディー(コンバーチブル)となり、日産 フェアレディZのルーツともされています。一方で生産台数は少量に留まり、一説では試験的に開発されたとも言われています。DC3型も本来はショーモデルとして開発された経緯があり、先代と似た経緯を辿ったクルマと言えるでしょう。
ダットサン ブルーバード(1959年)
ダットサン ブルーバードは、日産を代表する乗用車として開発され、2001年に販売終了された10代目まで約53年間にわたって販売されていました。
初代は排気量1Lと1.2Lの2種類の直列4気筒エンジンを設定し、車体は4ドアセダンを基本としてエステートワゴンというワゴンモデルもラインナップされていました。車体はラダーフレームとセミモノコックボディーを組み合わせた、従来のボディーよりも軽量かつ高剛性なもので、完成度の高さから国内外で高評価を得ました。
初代は排気量1Lと1.2Lの2種類の直列4気筒エンジンを設定し、車体は4ドアセダンを基本としてエステートワゴンというワゴンモデルもラインナップされていました。車体はラダーフレームとセミモノコックボディーを組み合わせた、従来のボディーよりも軽量かつ高剛性なもので、完成度の高さから国内外で高評価を得ました。
日産 セドリック 30型(1960年)
日産 セドリックは、日産と技術提携関係にあった英国の自動車メーカー「オースチン」の技術を活かして開発されたクルマです。
日産は1952年にオースチンと技術提携し、オースチン A50ケンブリッジなどのセダンを国内で組み立てるライセンス生産を行い、セダンのラインナップを補完していました。1960年にオースチンとの提携が解消されたことで、それまで培ってきた技術力を活かし自社でセダンを開発。誕生したセドリックは、日産を代表する新たなセダンとなりました。
日産は1952年にオースチンと技術提携し、オースチン A50ケンブリッジなどのセダンを国内で組み立てるライセンス生産を行い、セダンのラインナップを補完していました。1960年にオースチンとの提携が解消されたことで、それまで培ってきた技術力を活かし自社でセダンを開発。誕生したセドリックは、日産を代表する新たなセダンとなりました。
現在の日産は、戦前のダットサンから続く日産やプリンス自動車など、さまざまな自動車メーカーが合併を重ねて形作られた自動車メーカーです。
1950年代は日産とプリンスは別々の会社でしたが、他社と協力したクルマづくりや積極的なモータースポーツ活動など、共通点も少なくありませんでした。
1950年代は日産とプリンスは別々の会社でしたが、他社と協力したクルマづくりや積極的なモータースポーツ活動など、共通点も少なくありませんでした。