クラウンVSセドグロ。バブル前夜から繰り広げられた熾烈な戦い!

日産 セドリック Y30

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日本という国が豊かになってきた昭和50年代後半から平成にかけて数年間。富の象徴とも言えるハイオーナーカーの人気が高まり、その開発、販売合戦も熾烈を極めました。特にクラウンとセドリック・グロリアは国内二大メーカーを代表する高級乗用車として常にライバル同士でした。新技術をぶつけ合い、デザインを磨き・・・それはしかし今から見れば切磋琢磨、お互いを高め合っているようにも見えたりします。
Chapter
V6ターボで押すセドリックの走り
石畳で鍛えた四輪独立式サスペンション
開発者たちの反乱が生んだ大ヒット作
マズい!シーマが出るまでに囲い込め!
値段が決まったのは発売前月
ならばV8で勝負!
理解されなかった趣味性
トヨタだって爆走する

V6ターボで押すセドリックの走り

1983年6月登場のY30型セドリック・グロリアは重厚な印象で四角張ったデザイン。ひとつ前の430型がややスポーティな印象を持っていたことに対し、より高い年齢層に向けた仕立てになっていたように思います。

Y30のトピックはこの代から採用されたVG型V6エンジンとそのターボ仕様。特に3リッターのVG30ET(SOHCターボ)はグロスで230PSという当時の国内最高スペックを保持。後年のグランツーリスモやシーマでハイパワーな高級車という印象が定着する前から、セドグロはハイパワーで押していたわけですね。

しかし、あまりに重厚感を押し出しすぎて430型で評判の良かった軽快感が後退しやや人気を下げました。

石畳で鍛えた四輪独立式サスペンション

1983年9月登場、7代目クラウンのキャッチフレーズは今でも有名、「いつかはクラウン」。このクルマを目指して昭和のお父さんたちは頑張ってきました。

ただ格調が高いというだけでなく、技術的なブラッシュアップも怠らないというのがクラウンというクルマで、4輪独立式サスペンションやツインカムエンジン、スーパーチャージャーの搭載に今で言うABS、当時はESCとトヨタは呼んでいましたが、そんな先進装備も盛り込まれたのです。

コマーシャルではヨーロッパの石畳の道でロケーションをおこない、なめらかに走るサスペンションの熟成を強調した映像になっていました。ライバル、というより、国内ではまだ4輪独立式サスペンションが主流ではなかったのですね。

開発者たちの反乱が生んだ大ヒット作

シェアを落とし続けていた日産には危機感が募っていました。それは経営陣よりむしろ開発部門の方が強かったようです。

経営陣の承認を待たずにデザインを独断で変更してしまったり、のちのシーマを「もぐり」で作り始めてしまったりと、技術者たちは半ば反乱を起こすように本当に求められるクルマ像を追求し始めました。

この代の開発中には「セドリック委員会」という部会があったといいます。これは部署の垣根を越えて横断的に情報を交換し合い、開発をよりスムーズにするための交通整理を行なうことが目的でした。

そうした数々の反乱やブレークスルーが1987年6月に登場するY31セドリック・グロリアのキャラクターをリベラルで新鮮なものにし、それに呼応したユーザーはこぞってこのクルマを買いたがりました。

マズい!シーマが出るまでに囲い込め!

1987年6月のY31セドグロの発表時に当時の社長、久米豊氏は「来年の1月に新しい3ナンバー専用車を発売する」とアナウンス。それよりなにより、Y31セドグロはグランツーリスモを中心に大ヒットを記録していましたから、さすがのトヨタも横綱相撲というわけには行かなかったようです。

しかしそこは販売のトヨタが底力を見せつけます。1987年9月に130系を発売すると、主に3ナンバー車を中心になんと4ヶ月で3万台以上という、記録的な売り上げを実現してしまいます。

この代のクラウンはセドグロ同様の認識で3ナンバー車には専用のワイドボディを、という考えではありましたが、あくまでも5ナンバー車のデザインの延長でしかなく、後に現れるシーマほど強烈な印象は持っていなかったのです。全体の印象もやや保守的でした。

しかも日産は社を挙げて改革に取り組み、出てくるクルマが皆新鮮なコンセプトやデザイン、性能を持っていましたから、今度はトヨタが危機感を抱くようになって行くのです。

値段が決まったのは発売前月

1988年1月に登場するシーマをいくらで売るのか、という議論はなかなか決着がつかなかったそうです。500万円以上にして価格そのものをステータスにするべきという意見と、ライバルからかけ離れると取り残されるのではないかという慎重論とが平行線をたどりました。

そこで開発陣は妙案を思いつくのです。

1987年11月の東京モーターショーに参考出展されたシーマ。もちろん来場者の注目を集め展示車の前には黒山のひとだかりができました。翌年1月に発売するとはいえ、値段はまだ決まっていない。そこで値段を聞かれたらコンパニオンには「500万円前後になると思います」と答えさせ、それを聞いた来場者の反応を見てから決めることに…。

すると多くの来場者は「500万円なら安いね」と答えたそうです。こうしてシーマの売値は決められました。実際にシーマを買った人に理由を聞くと「高かったから」という単純素朴な購入理由がかなりの率を占めていたといいます。

しかしそんな売り方も、クルマ本体によほど自信がなければできなかったことでしょう。

ならばV8で勝負!

1989年8月にクラウンはマイナーチェンジし、V8エンジン搭載車を加えてきました。

これは同年秋に登場するセルシオに搭載するものを先行してクラウンに載せることで、量産性の低いセルシオに注文が殺到しないための対策であり、それとやはりシーマ対策でした。これが今に続く「マジェスタ」の原型と言えるでしょう。

きわめて洗練されたV8エンジンがもたらす走りは上品で、しかも力強く、高級車にふさわしい仕上がりになっていましたが、しかしそれをもってしてもセドグロ・シーマ連合の人気、というよりイメージを突き崩すことは困難でした。

クラウンはあくまでクラウンのワクのなかで作られているわけで、日産のようにピンチに立ち、そこから起死回生の大冒険を行えるような状況ではなく、またクラウンの保守的なユーザーもそれを望んでいなかった。トヨタは難しい局面を迎えます。

理解されなかった趣味性

1991年8月デビューのY32シーマ。この頃既に世の中は3ナンバー車ブームでしたから、基本となるセドグロを3ナンバーに格上げし、ターボ車はグランツーリスモをメインに構成。
シーマは新たにインフィニティQ45用V8エンジンの縮小版、4.1リッターを搭載し、正統的4ドアセダンのパッケージを持つ英国調高級サルーンに生まれ変わりました。

ダークグリーンの車体にタン色(明るいブラウン系)の本革トリム、また本木目といった「趣味の良さ」はちょっとしたもので、ある意味「攻めた作り」。それは他にない魅力ではあったものの、シーマといえばあのエネルギッシュなスタイルと走り、という定評ができていましたから、この宗旨替えに多くのユーザーが戸惑いを隠せませんでした。

クルマそのものは、ジャズやクラシックでも掛けたくなるようなオーセンティックな雰囲気に、やや軽快感のあるV8エンジンの組み合わせでじつに洗練された良い仕上がりだったものの、Y31シーマの存在感の影に隠れるような立場に甘んじてしまうのです。

トヨタだって爆走する

トヨタの本腰を入れた「シーマ対策」はマジェスタというよりむしろ、このアリストのほうでしょう。

1991年10月発売。クラウン・マジェスタと共通のメカニズムを持ちながらエンジンはのちにスープラにも搭載される2JZ-GTE、3リッターターボの280PS。エクステリアは有名イタリア人デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロによるもので、一気に日本車離れしたクルマとなりました。

シーマもそうでしたが、この頃になると高級車に求められるもうひとつの要素として、「偉そう」なことよりも「趣味がいい」と思われることが重要であると考えられるようになります。アリストの内外装はまさしくイタリア調で、シーマとは好対照。どちらも趣味が良い高級車でした。

アリストは確かに馬力があり、エネルギッシュなデザインという意味で、シーマのお株を奪ってしまった感があるものの、といってY31シーマのように絶大な支持を得るわけでもなく、トヨタはこのあとも「走る高級車」という課題にしぶとく向き合っていくことになるのです。

いかがでしょうか。

3世代8台のクラウンとセドリック・グロリア、その上級車であるシーマ、アリストを通じて、日産とトヨタの熾烈な戦い模様を振り返ってみました。またこの時期は資金的にも恵まれていて、この後ポストバブルの時代を迎えると合理化やコストダウンといった別のテーマに取り組まねばならず、やがてセドリックはフーガに名を変え、クラウンもかつてほどの勢いは見られなくなってしまいます。

時代に勢いがあり、人々もエネルギッシュだった頃。クルマもそれに呼応するようにイキイキと作られ、またイキイキと走っていたような記憶が蘇ります。そんな時代を象徴する高級乗用車の歩みを見ていると、「おい、何やってんだ、元気出せよ」なんて言われてしまうような気がしてくるのです。
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