Rolling 40's VOL.103 語り尽くせぬ想い
更新日:2024.09.09
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東京モーターサイクルショーのトークイベントに参加するのは3年目になる。ヘルメットインカム・ビーコムで有名な「サインハウス」の特設会場において、バイク業界における著名人の方々と色々な話をするようなイベントだ。今年はモトGPの解説者でもあるプロライダーの宮城 光さんと、美人バイクジャーナリストの多聞恵美さんとの3人で話をする。
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.173 2017年4月号]
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.173 2017年4月号]
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VOL.103 語り尽くせぬ想い
バイクの話をするのは仕事でも遊びでも大好きだ。バイク仲間からは普段のおしゃべりもバイク、酒の肴もバイク、たまには下ネタでもしましょうと笑われるくらいである。
また今現在、私は本誌以外にも「ライダースクラブ」と「ビッグタンク」の2誌に連載コラムを持っているのだが、よくバイクの話が尽きないですねと言われことがある。しかし尽きるどころか書き切れないというのが正直なところだ。
そんな燃料タンクの量なので、モーターサイクルショーにおいても、トークライブの話題に事欠くこともない。この状況に自分でも心配になることがたまにある。50歳が目の前に迫っているというのに、寝ても覚めても頭の中の半分くらいはバイクのことばかりだからだ。
16歳のときの自分のバイクの好きさ加減というのを何となく肌感覚で覚えているのだが、その当時の方が学業やら恋愛やらで、頭の中で走っているバイクの数が少ないような気がする。もしあの当時の自分が、今のようなオッチャンに出会ったのなら「オジサン、病気ですね」とあきれ顔で言うだろう。
今年の東京モーターサイクルショーで話す予定の内容は、バイクという存在の「客観」から「主観」へのシフトがテーマだ。80年代バイクブームを色濃く通り過ぎた私たち世代というのは、どうしてもバイクという存在に対して、ある種の劇画的なものをからめてしまう。
当時はそういう時代であり、そういう雰囲気の中でバイクに乗るということが当たり前であったが、私自身、いよいよそういう「前近代的」なものと決別をしてもよい頃だと思うようになってきたのだ。
分かり易く言うと、バイクでカッコつけたり、何かしらの不良性をひけらかすような精神性はいい加減にしようということである。そういう意味では、昨今、一大ブームになっている、オフロードとオンロードを合体させたような、大型のアドベンチャーマシンと呼ばれるジャンルの台頭というのは良いタイミングであると思う。
私もホンダのCRF1000Lというアドベンチャーマシンに乗っているのだが、ハッキリ言ってこのマシンのルックスに多くの方が感じるイメージは、広大な大地を走破するマシンといったもので、昭和の劇画的なロマンや不良性は全く備わっていない。
反対に私などは、子供じみた劇画的な思い入れなど通用しない、純粋な道具としてのバイクの姿を感じる。
実際に私の使い方がかなりオフロード寄りということもあるのだが、私は自分のアドベンチャーマシンをあまり磨き上げたりはしない。大きな車体故に、駆動系の清掃や整備は必要以上に神経を使うが、車体の傷や汚れなどは放ったままである。アドベンチャーマシンで分け入る山中では、見せびらかしたくとも、その相手がイノシシと鹿ばかりなのだ。
また過度のカスタムに対しても興味がなくなった。大事なことはハードなコースから大きな車体をサバイブさせることであり、車体の色艶を気にする神経自体が失われていく。
今年のモーターサイクルショーでも、アドベンチャーマシンが百花繚乱であろう。各メーカー共に、今一番力を入れているジャンルと言っても良いくらいである。アドベンチャーマシンを通して、自分自身に起きたバイクとの関係の変化というモノと同じようなことが世間一般でも起きているということかもしれない。
このマーケットの変化は、私に代表されるような、大型のスポーツバイクをカスタムしてツーリングやらスポーツ走行を楽しんでいたアラフィフあたりが、スピードや見栄やカスタム熱から覚め始めた流れだと私は思っている。
漫画を真似して命を削るようなことにも疲れたし、それを自慢するのもバカバカしくなり、あれほど好きだった無駄にうるさいマフラーが耳障りになる。それをジジイになったと馬鹿にする輩もいるだろうが、私などは、好き勝手にしているから、関わらないでくれといった感じだ。
いよいよ「50代」のバイク乗りとしての自分をビジョンする時期になったのだろう。闘争本能も薄れ、視力や動体視力は当然、運動神経も悪くなるし、傷の治りも悪くなるであろう。
今までのように「自己確認」としてのバイクでは成立しないことが増えてくるはずだ。だがそれでも乗り続ける理由が、まだまだ溢れるほどにあると感じている。
少しだけ予感している次なる言葉は、「自己確認」から「自己完結」だと思っている。
また今現在、私は本誌以外にも「ライダースクラブ」と「ビッグタンク」の2誌に連載コラムを持っているのだが、よくバイクの話が尽きないですねと言われことがある。しかし尽きるどころか書き切れないというのが正直なところだ。
そんな燃料タンクの量なので、モーターサイクルショーにおいても、トークライブの話題に事欠くこともない。この状況に自分でも心配になることがたまにある。50歳が目の前に迫っているというのに、寝ても覚めても頭の中の半分くらいはバイクのことばかりだからだ。
16歳のときの自分のバイクの好きさ加減というのを何となく肌感覚で覚えているのだが、その当時の方が学業やら恋愛やらで、頭の中で走っているバイクの数が少ないような気がする。もしあの当時の自分が、今のようなオッチャンに出会ったのなら「オジサン、病気ですね」とあきれ顔で言うだろう。
今年の東京モーターサイクルショーで話す予定の内容は、バイクという存在の「客観」から「主観」へのシフトがテーマだ。80年代バイクブームを色濃く通り過ぎた私たち世代というのは、どうしてもバイクという存在に対して、ある種の劇画的なものをからめてしまう。
当時はそういう時代であり、そういう雰囲気の中でバイクに乗るということが当たり前であったが、私自身、いよいよそういう「前近代的」なものと決別をしてもよい頃だと思うようになってきたのだ。
分かり易く言うと、バイクでカッコつけたり、何かしらの不良性をひけらかすような精神性はいい加減にしようということである。そういう意味では、昨今、一大ブームになっている、オフロードとオンロードを合体させたような、大型のアドベンチャーマシンと呼ばれるジャンルの台頭というのは良いタイミングであると思う。
私もホンダのCRF1000Lというアドベンチャーマシンに乗っているのだが、ハッキリ言ってこのマシンのルックスに多くの方が感じるイメージは、広大な大地を走破するマシンといったもので、昭和の劇画的なロマンや不良性は全く備わっていない。
反対に私などは、子供じみた劇画的な思い入れなど通用しない、純粋な道具としてのバイクの姿を感じる。
実際に私の使い方がかなりオフロード寄りということもあるのだが、私は自分のアドベンチャーマシンをあまり磨き上げたりはしない。大きな車体故に、駆動系の清掃や整備は必要以上に神経を使うが、車体の傷や汚れなどは放ったままである。アドベンチャーマシンで分け入る山中では、見せびらかしたくとも、その相手がイノシシと鹿ばかりなのだ。
また過度のカスタムに対しても興味がなくなった。大事なことはハードなコースから大きな車体をサバイブさせることであり、車体の色艶を気にする神経自体が失われていく。
今年のモーターサイクルショーでも、アドベンチャーマシンが百花繚乱であろう。各メーカー共に、今一番力を入れているジャンルと言っても良いくらいである。アドベンチャーマシンを通して、自分自身に起きたバイクとの関係の変化というモノと同じようなことが世間一般でも起きているということかもしれない。
このマーケットの変化は、私に代表されるような、大型のスポーツバイクをカスタムしてツーリングやらスポーツ走行を楽しんでいたアラフィフあたりが、スピードや見栄やカスタム熱から覚め始めた流れだと私は思っている。
漫画を真似して命を削るようなことにも疲れたし、それを自慢するのもバカバカしくなり、あれほど好きだった無駄にうるさいマフラーが耳障りになる。それをジジイになったと馬鹿にする輩もいるだろうが、私などは、好き勝手にしているから、関わらないでくれといった感じだ。
いよいよ「50代」のバイク乗りとしての自分をビジョンする時期になったのだろう。闘争本能も薄れ、視力や動体視力は当然、運動神経も悪くなるし、傷の治りも悪くなるであろう。
今までのように「自己確認」としてのバイクでは成立しないことが増えてくるはずだ。だがそれでも乗り続ける理由が、まだまだ溢れるほどにあると感じている。
少しだけ予感している次なる言葉は、「自己確認」から「自己完結」だと思っている。
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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968