Rolling 40's VOL.106 ミニバンという巨人
更新日:2024.09.09
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ある自動車系サイトにて、某有名自動車評論家が、国産メーカーのプロジェクトリーダーと対談し、もう大抵の日本人はミニバンしか買わないのだから、同価格帯のセダンを作る意味がわからないと、意図的に「暴論」を仕掛けていた。
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.176 2017年7月号]
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.176 2017年7月号]
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VOL.106 ミニバンという巨人
ある種のタブーに踏み込んでいるこの記事を、とても感慨深く読ませてもらった。人気のある有名ジャーナリストという保険ゆえに許されているのは分かっているが、それにしても、自動車ジャーナリズムという狭い村社会において、なかなか気概のある取材姿勢だと思う。
私自身もミニバンやSUVのユーザーであるが故に、日本という特殊な道路環境の中で、そのジャンルの車種がどれだけの利便性を発揮するかは、十分に知っている。
都内の通勤から、その他のアウトドアレジャーというスタイルを網羅する使い方において、わざわざセダンタイプのクルマを買う意図というのは、価格的なアピール以外には見当たらない。良くも悪くも日本はそれくらいに「ミニバン・ジャンキー」になっている。
また日本人のミニバンに対するガラパゴス的人気は、いくら欧米的なストーリーを並べ立てても揺るぐことはないだろう。
ミニバンというクルマは恐ろしいもので、スタイリングにこだわらなければ、結局それで全て物足りてしまう「幕の内弁当」のようなものだ。また「幕の内弁当」というのは、何かのおかずが格別に大きく豪勢であるのではなく、色々なものが少しずつという日本的な多様性を象徴してもいる。それが嫌いな人もいるが、大多数の日本人はそういう世界観が嫌いではないのも事実だろう。
90年代前半に生まれた和製ミニバンは、もともとはアメリカが発祥で、大きなサイズで大家族や仲間がたくさん乗れ、長距離を快適に移動できるのが大前提であった。そういったアメリカの優雅なレジャー感覚を映画などで観て、80年代の私たちはそのアメリカ的な大きさに憧れたものである。
あの大きなサイズのクルマに、西部開拓時代の幌馬車のような大陸的なダイナミックさを感じたのかもしれない。この日本的コンプレックスが奇妙に変換されてしまった結果が、和製ミニバンというガラパゴス的ジャンルの原点だと思う。
欧米人はあのスタイリングに対して商用または家庭的退屈さを感じてしまうというのに、日本人はそれを知らずに、誤訳するかのようにミニバンが大好きになってしまったのだろう。
しかしそのままアメリカサイズのミニバンを輸入したのでは、日本の道路事情に合う訳もなく、アメリカンミニバンを日本サイズで再解釈したのが、90年代に生まれた日本スタイルのミニバンであった。
'90年にトヨタエスティマ、全幅を5ナンバー枠に狭めたルシーダを追加。'94年にはホンダオデッセイ、'96年に同社はFF箱型ミニバン・ステップワゴンを大ヒットさせる。そして日産は'97年に高級ミニバンの祖、エルグランドを高級車の市場に切り込ませていく。この後、'02年に真打ちトヨタアルファードが出て、今に続くという流れである。
実際にこの時代を全て見て感じてきた私の考えは、初期は大陸的なものへの憧れから始まったのだが、結局、日本人はスタイリングやドライブフィールなどというものよりも、利便性や豪華さというものを選んだという答えである。とくにハイブリッド化などにより、ミニバンの懸案事項であった低燃費が改善されると、その勢いは増すばかりである。
職業にしている方は、自動車文化の多様性なども考えてか、ミニバンなどの日本ガラパゴス的な車種展開を否定的に論じることも多い。だがミニバンで事足りてしまうという「普通」の日本的感覚を私は否定できなくなっている。
アメリカ的なクルマの使い方、ヨーロッパ的なそれ、日本人は耳年増ゆえに色々なことに振り回されてきたが、軽自動車とミニバンだけになって何が悪いのだと「暴論」してみたい。
ドライブフィールという言葉も嫌いじゃないが、私などは、都内の渋滞走行が8割なのが現実である。そんな時間に没しているとドライブフィールなどどうでも良いと思ってしまうことも多々ある。かっこ良い悪いという話もあるが、車種で恋愛成就が左右されたのは1989年あたり、もう30年も前の話だ。
逆に、特殊なスポーツカーは別として、高級セダンに乗るという意味はなんなのだろうかと考えることもある。都内の通勤に限って言えば、絶対にミニバンかSUVの方が楽である。アウトバーンやニュル的な発想も夢があるが、今の若者たちとクルマについて話すと、そういうハイエンドな性能自慢自体が「オワコン」であるという流れもある。
私自身もミニバンやSUVのユーザーであるが故に、日本という特殊な道路環境の中で、そのジャンルの車種がどれだけの利便性を発揮するかは、十分に知っている。
都内の通勤から、その他のアウトドアレジャーというスタイルを網羅する使い方において、わざわざセダンタイプのクルマを買う意図というのは、価格的なアピール以外には見当たらない。良くも悪くも日本はそれくらいに「ミニバン・ジャンキー」になっている。
また日本人のミニバンに対するガラパゴス的人気は、いくら欧米的なストーリーを並べ立てても揺るぐことはないだろう。
ミニバンというクルマは恐ろしいもので、スタイリングにこだわらなければ、結局それで全て物足りてしまう「幕の内弁当」のようなものだ。また「幕の内弁当」というのは、何かのおかずが格別に大きく豪勢であるのではなく、色々なものが少しずつという日本的な多様性を象徴してもいる。それが嫌いな人もいるが、大多数の日本人はそういう世界観が嫌いではないのも事実だろう。
90年代前半に生まれた和製ミニバンは、もともとはアメリカが発祥で、大きなサイズで大家族や仲間がたくさん乗れ、長距離を快適に移動できるのが大前提であった。そういったアメリカの優雅なレジャー感覚を映画などで観て、80年代の私たちはそのアメリカ的な大きさに憧れたものである。
あの大きなサイズのクルマに、西部開拓時代の幌馬車のような大陸的なダイナミックさを感じたのかもしれない。この日本的コンプレックスが奇妙に変換されてしまった結果が、和製ミニバンというガラパゴス的ジャンルの原点だと思う。
欧米人はあのスタイリングに対して商用または家庭的退屈さを感じてしまうというのに、日本人はそれを知らずに、誤訳するかのようにミニバンが大好きになってしまったのだろう。
しかしそのままアメリカサイズのミニバンを輸入したのでは、日本の道路事情に合う訳もなく、アメリカンミニバンを日本サイズで再解釈したのが、90年代に生まれた日本スタイルのミニバンであった。
'90年にトヨタエスティマ、全幅を5ナンバー枠に狭めたルシーダを追加。'94年にはホンダオデッセイ、'96年に同社はFF箱型ミニバン・ステップワゴンを大ヒットさせる。そして日産は'97年に高級ミニバンの祖、エルグランドを高級車の市場に切り込ませていく。この後、'02年に真打ちトヨタアルファードが出て、今に続くという流れである。
実際にこの時代を全て見て感じてきた私の考えは、初期は大陸的なものへの憧れから始まったのだが、結局、日本人はスタイリングやドライブフィールなどというものよりも、利便性や豪華さというものを選んだという答えである。とくにハイブリッド化などにより、ミニバンの懸案事項であった低燃費が改善されると、その勢いは増すばかりである。
職業にしている方は、自動車文化の多様性なども考えてか、ミニバンなどの日本ガラパゴス的な車種展開を否定的に論じることも多い。だがミニバンで事足りてしまうという「普通」の日本的感覚を私は否定できなくなっている。
アメリカ的なクルマの使い方、ヨーロッパ的なそれ、日本人は耳年増ゆえに色々なことに振り回されてきたが、軽自動車とミニバンだけになって何が悪いのだと「暴論」してみたい。
ドライブフィールという言葉も嫌いじゃないが、私などは、都内の渋滞走行が8割なのが現実である。そんな時間に没しているとドライブフィールなどどうでも良いと思ってしまうことも多々ある。かっこ良い悪いという話もあるが、車種で恋愛成就が左右されたのは1989年あたり、もう30年も前の話だ。
逆に、特殊なスポーツカーは別として、高級セダンに乗るという意味はなんなのだろうかと考えることもある。都内の通勤に限って言えば、絶対にミニバンかSUVの方が楽である。アウトバーンやニュル的な発想も夢があるが、今の若者たちとクルマについて話すと、そういうハイエンドな性能自慢自体が「オワコン」であるという流れもある。
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●大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
●大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968