The 44th TOKYO MOTOR SHOW 2015

アヘッド 東京オートサロン2015

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一般家庭にとって自家用車がまだ夢だった1954年に、日比谷公園で「第1回全日本自動車ショウ」が開催されてから、その歴史は60年を超えた。'70年代のオイルショックや'80年代の高度経済成長期、そして2000年代のリーマンショックや東日本大震災などを乗り越え、人々にクルマだけでなく日本の文化、エンターテインメント、"ものづくり"の想いまでもを伝えてきたのがモーターショーではないだろうか。

text:まるも亜希子、岡崎宏司 [aheadアーカイブス vol.155 2015年10月号]
Chapter
The 44th TOKYO MOTOR SHOW 2015
「東京モーターショーは日本のクルマ文化と共にあった」

The 44th TOKYO MOTOR SHOW 2015

text:まるも亜希子


そして近年は、中国を筆頭とする新興国が自動車市場を盛り上げる中、日本の立ち位置、存在価値も変わりつつある。世界でも有数の自動車メーカー保有国である日本は、これからどんな輝きを放ってくれるのだろうか。

そんな期待を集めて、10月28日(一般公開は30日)から第44回東京モーターショーが開幕する。開催への想いや見どころなどについて、日本自動車工業会 交通統括部 モーターショー室長の石田豊一さんに話を伺った。

今回の東京モーターショー全体のテーマは、「きっと、あなたのココロが走り出す。」「TECHNOLOGY×FANTASY」をコンセプトとして、世界一のテクノロジー・ショーケースを目指し、来場者に心躍るような体験を届けたいというのがテーマに込められた想いだ。

もちろんその詳しい内容は開幕するまでのお楽しみとなるが、来場者をよりスムーズに体験の場へと導くために、来場者目線でのアイデアやサービスが新たに採用されている。
photo:長谷川徹

「今回、ぜひ使っていただきたいのが、初めて導入する東京モーターショー総合アプリです。会場の地図がわかるのはもちろん、会場内にビーコンを設置して、お客様が行きたいブースまでのナビ機能も採用しました。ナビ機能があるのはおそらく世界初だと思います」

また、会場となる東京ビッグサイトは西館と東館をつなぐ通路が長く、行ったり来たりが大変なのが難点だったが、今回はそこに無料のシャトルバスを用意した。数分ごとに出発するというから、これは便利になりそうだ。各ブースへの誘導看板の表記を従来のロゴ表記からエンブレム表記に変え、わかりやすくするなどきめ細かなサービス向上の努力も伝わってくる。

そのほか、以前からちょっと休憩したり食事をする際のスペースが足りないという声が多かったことを踏まえ、休憩ゾーンを増やすとともに、高齢者向けのプライオリティシートを設定したり、特設レストラン「東京モーターショー・ダイニング」を展開。

屋外展示場では、グルメブロガーたちとコラボした超有名飲食店が出店する「グルメキングダム2015」を展開し、食べ歩きも楽しめるようになっている。これは、なかなかクルマだけでは来てくれない若い世代や女性にも、来場のきっかけとなりそうだ。

「それからやはり、60年を振り返る意味でも期待していただきたいのが、10月24日に銀座みゆき通りからスタートする東京モーターショー60周年記念パレードです。'50年代から各年代を代表する乗用車・商用車・二輪車の約70台が連なって、各メーカーのトップなどがドライバーとなってパレードを行います。輸入車メーカーも参加しますから、見応えのあるものになると思います」

こうした関連イベントは、会場だけでなくお台場地区を中心に随所で開催され、東京モーターショーを盛り上げていくという。

テクノロジーというと、どうも無機質でドライな印象を受けがちだが、主催者が配慮したのは日本特有の細やかな「おもてなし」の心、そして人と人とが触れ合うことで生まれる感動や楽しさだと感じた。こうしたメッセージが伝われば、きっと、クルマで世界はひとつになれる。そんな可能性や未来を見つけに、ぜひとも東京モーターショー2015へ足を運んで欲しい。

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text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。

「東京モーターショーは日本のクルマ文化と共にあった」

text:岡崎宏司


第1回東京モーターショー(10回目までの正式名称は全日本自動車ショウ)は、1954年4月20日〜29日に開催された。会場は日比谷公園内広場。屋外で行われたということだ。

私は初日に行った。長い列に並んで開門を待った。調べてみたら、4月20日は火曜日。だから、学校はサボったことになる。10才年上の兄に連れて行ってもらったのだが、兄も仕事を休んだはずである。私も、兄も、日本初のモーターショーには、それほど強く惹きつけられていたことになる。とにかく、少しでも早く、誰よりも早く見たかったのだろう。

記録によると、出品車台数は267台。内、乗用車は17台とある。トラックやバスや特装車がほとんどだったのだが、カラフルな会場で、とにもかくにも多くのクルマに囲まれているだけで、私はワクワクしていたはずだ。

日比谷公園に足を運んだ多くの人たちは、「遠い存在だった」クルマが、少しは身近な存在になったように感じたのではないか。私は、いちばん美しかったヒルマン・ミンクスを「いつか手に入れたい!」と思った。すぐには買えなくても「いつかは!」との思いを抱いた人は少なくなかっただろう。強い思いは夢に近づくなによりの動機になる。

第1回東京モータショーが、日本のクルマ文化発展の大きな起点になったのは事実だ。以来、東京モーターショーは回を重ね、日本自動車産業の発展、モータリゼーションの発展を強く後押ししてきた。
▶︎写真は、日比谷公園で開催された第一回東京モーターショーの様子。まだ電気冷蔵庫、洗濯機、掃除機が“3種の神器”という世の中で、庶民にとってクルマは「夢のまた夢」の存在。それだけにショーは大盛況で、10日間で54万7,000人の来場者が詰めかけた。ただし自動車で来場した人はほとんどなく、設置された駐車場には、自転車がズラリと並んだという。

日比谷公園から、後楽園競輪場(第5回のみ)を経て、東京国際見本市会場(晴海)に場を移した1959年から、モーターショーとしての形も整ってきた。

そして、1964年の東京オリンピックを期に道路環境の整備が加速し始め、同年の第2回日本GPは、日本車対外国車対決の構図の下、クルマファンに強烈な刺激をもたらした。私の遊び仲間からも、浮谷東次郎、川合稔を始め、日本を代表するドライバーが続々生まれた。トヨタのエースになった川合 稔は、当時の超売れっ子モデル、小川ローザと結婚。大きなニュースになった。

そんな状況をも背景に、1960年代後半からの東京モーターショーも「劇的」といえるほどの変化、発展を遂げ、世界からも注目される地位へと上っていった。

カローラ、サニー、コロナ、ブルーバード、ホンダN360、スバル360、ホンダS600 /S800、スカイラインGT、トヨタ2000GT…。軽乗用車から大衆車、中大型車から高級スポーツカーまで、幅広いカテゴリーに魅力的なクルマが誕生した。もはや自動車後進国ではなく、自動車先進国の入口に近づいていた。

東京モーターショーも、夢を見にゆくだけの場ではなく、目の前に並ぶ現実的選択肢の品定めをする場所にもなっていったのだ。

年々華やかさをも増していった東京モーターショーだが、強く記憶に残っているのが1967年のトヨタ・ブース。ゴールドのボディカラーを纏ったトヨタ2000GTの脇に立ったのは、当時、世界に君臨したスーパーモデルのツイッギー。

爆発的なミニスカート・ブームを世界に広めたモデルが、日本車に寄り添う…急速に進化し続ける日本のクルマの地位を象徴する出来事だった。トヨタ2000GTが、映画「007」で、ジェームス・ボンドと共演したことも同様の意味がある。

1970年からは輸入車も加わった。欧米人気ブランド車の多くを直接目の前にすることで、夢のステップに現実味が加わった。そして'80年代に入ると、メルセデスやBMWに乗るという夢が、現実的視野に入り始めたのだ。

クルマはその国の時代と文化を映す鏡と言われるが、東京モーターショーを振り返ってみると、改めて「その通りだな!」と思う。

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text:岡崎宏司/Koji Okazaki
1940年東京生まれ。日本大学芸術学部卒業後に自動車雑誌の編集者を経て、自動車評論家として独立。以来、40年以上にわたりモータージャーナリズムの第一線で活躍し続けている。専門は「クルマの動質」についての研究評価であり、「クルマと人と社会のあり方」、「ブランド」に関する論評も多い。本誌で連載を持つ岡崎五朗氏の実父でもある。
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