小柄なボディながら助手席も取っ払うと1700Lという広大なスペースが現れるも、初代Aクラスはチープだった?!
更新日:2024.09.09
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僕はメルセデスベンツというクルマ…と言うかブランドに対してある種の偏見を持っている。と言うか、昔は持っていた。何故かと言うと、多くのメルセデスドライバーは滅多やたらとマナーが悪い(当時は)。それに如何にもエラそうな振る舞いをするし、降りてきたドライバーが どう見たってその筋の人っぽかったりした(当時は)。そんなわけだったから、クルマの良さは認めつつも、王道を行くようなメルセデスに乗るのは気が引けていたのである。初めて買ったのは190E2.5ターボディーゼル。これならその筋の人は絶対に買わないだろうし、当時はまだ今のようなディーゼル乗用車に対する好意的な目もなかったから、言わばニッチのクルマだった。そして2台目のメルセデスとして我が家にやってきたのが、初代のAクラスであった。
文/写真・中村孝仁
文/写真・中村孝仁
オールドファンは買わないかもしれないけれど、メルセデスの哲学が詰まっていた
実は、このクルマはメルセデスから海外試乗会のご招待を頂いて、ヨーロッパで試乗をしてきた。その時にメルセデスの哲学に接したというか、このクルマの出来上がる背景を聞いてかなり感銘を受けていた。元来Aクラスは燃料電池車として生を受けるべく開発された背景がある。だからフロアは2重構造になっていて、そこに電池を敷き詰める予定でいたものだ。
それゆえ、フロアがかなり高く全長3,575mm、全幅1,719mm、全高1,598mm (当時のヨーロッパ仕様車)のディメンションが示すように、全高が高い。にもかかわらず室内空間はごく普通のCセグメントハッチバックそのものより若干狭いほどであった。エンジンは日本仕様の場合1.6L102ps/5250rpm、15.3kgm/4000rpmで、どこをどう切り取っても普通のエンジン。しかし、オールアルミ製。しかもクランクケースからロッカーアーム、エンジンマウントにいたるまですべてアルミである。
この結果、エンジン重量は92kgしかない。5速ティップシフトATも軽量かつコンパクトで、重量は68kgしかなかった。そして安全を昔から考えていたメルセデスは、このエンジンが万一衝突した際、後方に動いてキャビンを圧迫しないように斜め下方向にずり落ちるような設計を施していた。だからコンパクトながら安全性はきちんと担保されていたというわけである。
とにかく格好がおよそ当時のメルセデスの概念からは外れた突飛な形をしていた。正直言えば好きではなかったが、そのシャシー構造やらエンジン構造、コンセプト等々、メルセデスならではの哲学に溢れていたのである。それに従来からいるメルセデスファンは絶対に買わないだろう、という想像の基このクルマの購入が決まったというわけである。
日本で最速の納車?初めてのFFコンパクトカーは日常の足に大活躍
我が家のAクラスは東京での登録がほとんど1番か2番という早いもので、当時はまだメルセデスベンツ日本(MBJ)にもヤナセにも広報車の用意がなく、撮影をしたいという雑誌の依頼で僕のクルマを撮影車として貸したほどだった。何という名前だったかは忘れてしまったがグリーンだった。独特の板が折りたたまれて開くようなラメラルーフと呼ばれたスライディングルーフは付けなかった。ヨーロッパで試乗していたからその内容に関しては承知をしていたつもりだったが、いざ自分のものとなると、何ともいえぬチープさが正直言って失敗したかな?と思わせたものである。
メルセデスと言えば泣く子も黙る高級車。それがAクラスと来たら、そんなところは微塵もない。手に触れるプラスチック類は完璧なまでにハードプラスチック。柔らかさのかけらもないし、ウッドのデコレーションなんて夢のまた夢であった。ただし、ボディは小柄ながら使い勝手は良かった。シートは後席は折りたたみが出来るうえ、跳ね上げた状態でも使えたし、取り外しも出来た。これは助手席にまで及び、助手席も取っ払うと1700Lという広大なスペースが誕生した。シート自体は結構な重さがあったが、それでも一人がけのものなら一人で取り外して持ち運ぶことが可能。
そんなわけで、3人家族だった我が家では、一つだけ外してそこに斜めにスキーを積み込んで、志賀までスキーに行ったこともある。乗り心地はけっこゴツゴツと突き上げ感がひどかった。これはヨーロッパで乗った時とは雲泥の差であったわけだが、それには理由があって、実はほぼ同時に開発が進んでいたスマートが、エルクテストと呼ばれるいわゆる緊急回避テストでものの見事にひっくり返った。その影響もあって、市販されたAクラスにはESPが標準装備され、足回りも強化された。ゴツゴツ感が増したのはそのせいだったのである。しかもコンパクトカーの開発はこれが初めてだったし、FWDのコンパクトカーもこれが初めてだった。そんなわけで、出来という点ではイマイチ…否イマニくらいである。それでも使いやすかったし結構活躍してくれた。
メルセデスベンツ初のコンパクトカーだからか?不具合も多かった
やはり初めて尽くしということからだったのだろうか、機械製品としては無類の良さを誇ったメルセデスのはずが、Aクラスに関していえばまるでダメだった。勿論それはごく初期の話。特にうちのクルマは冒頭述べた通り、デリバリーの早いクルマだったから余計かもしれないが、最初はトランスミッションである。ごく普通に走っていて信号待ち。次にスタートする時にあまりに加速が鈍い。
不思議に思っていろいろ見ると、本来DレンジだからDと表示されるところがFとなっている。慌ててクルマを止めディーラーに電話。すると却ってきた答えは、Fが意味するのはFehler、ドイツ語でエラーという意味だそうで、要はエンジンを一旦切って再始動すると治るというので、その通りやったら治った。
しかし、これは要修理ということで、まずはトランスミッションの載せ換え。ついで起きたのは、ある時突然パワステが死に、危うく四つ角でぶつかりそうに。こちらもパワステのポンプか何かを交換して対処。大きな故障はそれだけあったと記憶するが、これだけ起きれば十分。その後Aクラスは2代目となりほぼ同じボディのままウッドパネルを貼って立派になったり、排気量も上がってパワーアップされたりもした。名前こそ継承しているが今のAクラスとは何もかもが違う別物だった。
中村 孝仁 | TAKAHITO NAKAMURA
モータージャーナリスト歴42年。かつては毎年世界各国のモーターショー取材に奔走し、時には自身の名を冠した「中村コージンのシフトアップ」なんていうテレビ番組もこなしていた。現在はモータージャーナリストとしての活動の傍ら、企業の営業マンに運転のマナーや技術を教える「ショーファーデプト」という会社を立ち上げ、インストラクターとしても活躍中。愛車はマツダ・デミオの他に、今やそのメーカーも存在しないフランスの名車、ファセルベガ・ファセリアという稀少車がガレージに眠っている。現在はデミオに代わる次期足クルマを模索中。さらにもう1台狙っているクラシックカーがあるから、クルマとは縁が切れない。