ボルボ240の発売当時を知るモータージャーナリスト中村氏の3世代にわたりボルボを乗り続けた原動力…オーナーレビュー
更新日:2024.09.09
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今、巷では密かにクラシックカーがブームである。それも日常で使えるやつ。その機運は例えばメルセデスはヤングクラシックと称して、20~30年落ちのモデルのリフレッシュプログラムを始めているし、ボルボも同様なサービスをクラシックガレージと銘打って始めている。さらにヨコハマタイヤなどは、古いパターンのGTスペシャルを復刻する計画を持っている。といった具合で、古いけどまだ使える往年のクルマがリフレッシュされて路上を走っているのだ。
文/写真・中村孝仁
文/写真・中村孝仁
あの四角い、鈍重そうなクルマがレースシーンを席巻した衝撃
僕がボルボ240というモデルに衝撃を受けたのは1984年のこと。当時はETC(ヨーロピアン・ツーリングカー・チャンピオンシップ)と呼ばれたツーリングカーのレースに突如ボルボが参戦し、あの重そうな240をレースカーに採用した。
そしてその年の最終戦のベルギー・ゾルダーのレースで見事に優勝を遂げたのである。このレースをテレビで見た時、何故か不思議とカッコいい!と思った。当時は闇雲に好きなクルマを購入していた頃だから、行動は早かった。すぐに近くのボルボ・ディーラーに赴き、中古のボルボ240を物色したのである。勿論素のボルボをそのまま乗ろうなどとは毛頭思わず、あのレースで優勝したマシンのレプリカを作ってやろうと決断したわけである。
その話をディーラーですると、向こうにその思いが通じたのか、かなり格安で中古車を出してくれることになった。これがボルボに乗り出した第一歩である。
写真:これが1984年のゾルダーで優勝した現物のマシン。ただし、レースとドライバー名は異なる。
やっぱりスッピンで乗るには年端が行かなかった
いざやってきたボルボを、しばらくは素の状態で乗っていた。でも何となくイメージが合わない。当時ボルボと言えば(240のことである)、年老いた医者が、診療カバンを持って往診に使うクルマ…。そんなイメージを勝手に抱いていたので、どう考えてもまだ30代の若者向きではなかったのである。
というわけで早速改造開始。まず外観をど派手な白、黄、ブルーの3色に塗り分けた。そして、当時執筆していた雑誌社の協力もあって、カッティングシートでレースカーと同じステッカーを、同じ場所に貼ってもらった。これだけで雰囲気は俄然若々しく、同時にどう考えても派手で、とてもじゃないがワカメ暖簾をくぐれるクルマにはなれなくなった。
問題は足回りとホイール、それにリアのスポイラーである。最初の計画では「車高を15mmほど下げて、それらしいホイールを履く。スポイラーはスカイラインGTR用をどこかから仕入れてそいつを付ける」であった。すると、何かの拍子にスウェーデンでボルボ用にカヤバが出している、ビルテーマというブランドのダンパーが大阪で手に入るという情報をキャッチ。早速そいつを手に入れるべく動き、ついでにノーマルのコイルスプリングを一巻き切って車高を上げた。実際この二つの作業をやってみたが、実は車高はほとんど下がらなかったという落ちもある。ホイールはやはり懇意にしていた台東区にあるIタイヤさんが、PCDの異なるホイールをワンオフで作ってくれた。もっともこのホイール、アルミのくせして抜群に重く、軽量化には全く役立たなかったが、白い外観は大いに気に行っていた。
意外と大きくないし、小回りも効く。さらには本国からサプライズも
この頃になるとだいぶ格好もついて、取材を受けることもしばしば。そしてこの情報がついに本国にも届くことになり、海外試乗会の折、ボルボ・イン・スポーツ(ボルボのレース部門)訪問が実現したのである。行ってみると、驚いたことに僕のクルマの存在を知っていて、何でも好きなものをやるというではないか。そこで、しめしめと「ならレース用エンジンください」とやってみた。すると、「そりゃ無理だ。ここにストックはないよ。ここにストックしているものなら何でもプレゼントするよ」と言うので、今度は「じゃあ、リアスポイラー!」というと、さっさと倉庫の奥の方から件のスポイラーを持ってきてくれた。
紛れもない、ホンモノのレース用スポイラーである。あまりの嬉しさに機内持ち込みをして日本に持って帰ってきた。そしていざ装着。これまた僕のレースでメカニックなどをお願いしたショップさんで装着をお願いしたところ。何とドリルの刃が数本欠けてしまう大仕事。メカニック氏曰く、「流石スウェーデン鋼、硬いよ!」と言っていた。ただ、ホントは日本スチールなんだけどね。
240に乗ってわかったことは、鈍重そうなのは外観だけで実は軽いということ。それに確かにハンドリングは決して面白い部類には入らないが、抜群に切れて都会で使うには極めて楽であることなど。僕のクルマの車重はたった1300kgしかなかった。勿論当時のクラウンよりも軽い。ある時ゴンドラ駐車場に止めようとしてパーキングに入ると、おじさんが、これは重いからダメだという。
そこで、中にクラウン止まってない?それより軽いんだよ…と言っても信用してもらえず、結局特等席の入り口に平置きしてくれた。それとハンドルが切れるの一件。最小回転半径は5mで、これは現行のコンパクトハッチバック、例えばトヨタ・アクアあたりと同等だと言えば如何に小回りが利くかわかるだろう。
ボルボに目覚めて3世代にわたりボルボを使い続けた原動力
この240セダンを手放した最大の理由は、子供が生まれて使い勝手に問題が生じたから。当時我が家にはもう1台、ポルシェ911なる素晴らしいクルマがあったのだが、そちらも乳飲み子を抱えて乗れるクルマじゃない。そこで、240をセダンからワゴンに切り替えることにして、おさらばしたというわけである。
ネガな要素は個人的には実はほとんどなく、一度深夜に交差点で信号無視のタクシーにぶつけられて、リアアクスルを大きく壊したことがあったが、その時も丈夫な骨格のおかげで命拾いしたし、ある時は谷田部の高速試験場に持ち込んで最高速テストをしたら、180km/h以上出ることが判明して大いに満足した。ただ、燃料が少なくなるとポンプが空吸いすることがあって、ポンプを痛めるから燃料は常に多めに入れておいてくださいという、忠告を頂いたことが唯一感じたネガ要素。このクルマに乗っていれば安心、というとてつもないメリットが当時のボルボにはあった。
中村 孝仁 | TAKAHITO NAKAMURA
モータージャーナリスト歴42年。かつては毎年世界各国のモーターショー取材に奔走し、時には自身の名を冠した「中村コージンのシフトアップ」なんていうテレビ番組もこなしていた。現在はモータージャーナリストとしての活動の傍ら、企業の営業マンに運転のマナーや技術を教える「ショーファーデプト」という会社を立ち上げ、インストラクターとしても活躍中。愛車はマツダ・デミオの他に、今やそのメーカーも存在しないフランスの名車、ファセルベガ・ファセリアという稀少車がガレージに眠っている。現在はデミオに代わる次期足クルマを模索中。さらにもう1台狙っているクラシックカーがあるから、クルマとは縁が切れない。