「東洋コルク工業」から始まった!マツダの歴史と企業名の由来を紹介

R360クーペ(1960年発売)マツダ

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欧州車のような美しいデザインと、「人馬一体」と言われる走りの良さが魅力のマツダ。

そんなマツダというブランド名には、どんな由来があるのでしょうか?

吉田 恒道|よしだ つねみち

1980年代、大学卒業後ファッション・モード専門誌「WWD Japan」編集部勤務を皮切りに編集者としてのキャリアを積む。その後、90年〜2000年代、中堅出版社ダイヤモンド社の自動車専門誌・副編集長に就く。以降、男性ライフスタイル誌「Straight’」(扶桑社)など複数の男性誌編集長を歴任し独立、フリーランスのエディターに、現職。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

吉田 恒道
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実はバイクも販売していたマツダ、その歴史とは

実はバイクも販売していたマツダ、その歴史とは

マツダの源流は、1920年に設立された東洋コルク工業という企業にさかのぼります。設立当時は、その社名のとおりコルクの生産を中心としていましたが、1923年の関東大震災や1925年の大規模火災で大きな影響を受けた結果、コルクのみではなく機械事業へと参入することになります。

1927年には社名を東洋工業とし、おもに海軍の下請け工場として生計を立てていました。一方、軍からの注文は時期によってその量に大きな差があり、安定した経営のためには独自製品の開発が必要不可欠でした。

そこで、当時社長だった松田重次郎氏は、自動車製造を行うことにしました。ただ、いきなり自動車の開発を行うのではなく、1930年にはまずオートバイを30台市販し、次に当時人気の高かったオート3輪を1931年に発売することで、実績を積みました。
▲DA型三輪トラック(1931年発売)マツダの第1号車

このオート3輪の開発には、松田重次郎氏の長男である松田恒次氏が大きく関わっていたことから、市販車は「マツダ号」と名付けられました。「マツダ」の名が初めて登場したのはこの時です。

オート3輪のマツダ号は大成功をおさめ、海外へも輸出されるほどでした。そこで、いよいよ自動車の製造に乗り出そうと考えた東洋工業ですが、戦禍が激しくなったことから一時中断を余儀なくされます。
▲松田 恒次(社長在任期間 1951年-1970年)

しかし、戦後の1951年、社長に就任した松田恒次氏は自動車の開発を再開し、1958年には小型トラックを発売します。そして、1960年に東洋工業初の四輪乗用車であるR360クーペを発売、1962年に発売されたキャロルとともに大ヒット車となります。
▲R360クーペ(1960年発売)

このころは企業名が「東洋工業」、ブランド名が「マツダ」という位置付けでしたが、1982年に企業名・ブランド名ともに「マツダ」に統一され現在に至ります。

「マツダ」の由来は、当時の社長であり事実上の創業者であった松田重次郎氏をモチーフとしているとともに、自動車業界の光明となることを願って、ゾロアスター教における叡智・理性・調和の神である「アフラ・マズダー(Ahura Mazda※最後のaはマクロン付き)」にちなんでいるそうです。

そのため、「マツダ」のアルファベット表記は「Matsuda」ではなく「Mazda」となっています。
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