ついに国内生産終了!パジェロが拓いたSUVへの道とは
更新日:2024.09.09
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日本のRV市場を支えてきた三菱自動車のパジェロが、今年8月で約37年間の国内での歴史に幕を閉じることが発表されました。かつて「夢の景品」ともなっていたパジェロの歴史と、その役割を振り返ります。
文・山崎友貴
*2019年の情報です
文・山崎友貴
*2019年の情報です
高度経済成長期の終焉と共に現れたパジェロ
40代以上の人であれば、かつて隆盛を誇ったパジェロの名前を知らない人はいないと思います。パジェロはRV(レクリエーショナル・ヴィークル)というカテゴリーを築いた功労車であり、現在のSUVの礎になった車でした。
戦後直後の日本の自動車は、アメリカや他の戦勝国からの供給、もしくは模倣がほとんどでした。中でも四輪駆動車は最たるもので、アメリカのジープCJ3Aを新三菱重工業がライセンス生産した三菱ジープJ1、それをさらに参考にしたトヨタジープBJ型や日産パトロールといったモデルが造られました。
戦後直後の日本は道路インフラが遅れており、特に地方では雨が降ると道がオフロードのようになり、警察や消防、官公庁などの公用車、もしくは民間の作業車で、こうしたモデルが活躍。大きく括り「ジープ」と呼ばれた小型の四輪駆動車は、実用車という捉えられ方をされていたのです。
しかし、70年代初頭に日本の高度経済成長期が終わり、日本人の暮らしが安定してくると、急速にモータリゼーションが進みます。1家に1台という本格的な自動車時代が始まり、実用だけでなくレジャーで車を使うというのが当たり前になっていきます。そんな中で、四輪駆動車の立ち位置も変化していきます。様々な現場に行くための実用車ではなく、積極的にレジャーに活用できる車。そんなRVのコンセプトを打ち出したのは、三菱自動車でした。
三菱がそうした動きに出た背景には、輸出の事情もありました。三菱ジープはアメリカのウイリス社との契約で生産されていましたが、それは国内販売に限られてのことでした。本家より優れたジープを造っても、海外に売ることはできない。それが三菱の悩みだったのです。
1973年、三菱は東京モーターショーに「ジープパジェロ」というコンセプトカーを出します。それはナローボディのジープをベースにしたもので、ロールバーやサーチライト、大型フォグランプ、ワンオフのフロントウインドウを備え、ボディを深紅にすることで、若者のレジャーユース用という新しい四輪駆動車の価値観を提案したものでした。さらに1979年には、パジェロの原型となるデザインの「パジェロⅡ」を、1981年には市販車を、それぞれ東京モーターショーで発表しました。
1982年に発売された初代パジェロは、コンセプトカーであるパジェロⅡの意匠を受け継いだ箱形のクローズドボディ(オープンバージョンも設定)でした。乗員が剥き出しになっていたジープから進化し、安全性や快適性が追求されていました。そのため、後部座席の居住性を考慮した「ワゴン(5ナンバー)」というバリエーションが選べるようになり、さらにより多くの人が乗れるロングボディも設定。さらには当時の四輪駆動車としては画期的な、フロント独立懸架式サスペンションを装備していました。旧時代の四輪駆動車を評価するユーザーからは「短足の猫」などと揶揄されましたが、現代に通じるハンドリングと快適性を持った四輪駆動車だったのです。
パジェロ発売の前年に登場した、いすゞのビッグホーンと共に、パジェロは日本中を沸かせる「クロカン四駆ブーム」を巻き起こしていきます。ちなみにパジェロはライセンスの関係でジープのシャシーではなく、フォルテという自社製ピックアップトラックのものを使っていました。このシャシーの共有で、デリカスターワゴンも生まれており、この2台の兄弟車が日本のRV&アウトドア市場を牽引していくことになります。
戦後直後の日本の自動車は、アメリカや他の戦勝国からの供給、もしくは模倣がほとんどでした。中でも四輪駆動車は最たるもので、アメリカのジープCJ3Aを新三菱重工業がライセンス生産した三菱ジープJ1、それをさらに参考にしたトヨタジープBJ型や日産パトロールといったモデルが造られました。
戦後直後の日本は道路インフラが遅れており、特に地方では雨が降ると道がオフロードのようになり、警察や消防、官公庁などの公用車、もしくは民間の作業車で、こうしたモデルが活躍。大きく括り「ジープ」と呼ばれた小型の四輪駆動車は、実用車という捉えられ方をされていたのです。
しかし、70年代初頭に日本の高度経済成長期が終わり、日本人の暮らしが安定してくると、急速にモータリゼーションが進みます。1家に1台という本格的な自動車時代が始まり、実用だけでなくレジャーで車を使うというのが当たり前になっていきます。そんな中で、四輪駆動車の立ち位置も変化していきます。様々な現場に行くための実用車ではなく、積極的にレジャーに活用できる車。そんなRVのコンセプトを打ち出したのは、三菱自動車でした。
三菱がそうした動きに出た背景には、輸出の事情もありました。三菱ジープはアメリカのウイリス社との契約で生産されていましたが、それは国内販売に限られてのことでした。本家より優れたジープを造っても、海外に売ることはできない。それが三菱の悩みだったのです。
1973年、三菱は東京モーターショーに「ジープパジェロ」というコンセプトカーを出します。それはナローボディのジープをベースにしたもので、ロールバーやサーチライト、大型フォグランプ、ワンオフのフロントウインドウを備え、ボディを深紅にすることで、若者のレジャーユース用という新しい四輪駆動車の価値観を提案したものでした。さらに1979年には、パジェロの原型となるデザインの「パジェロⅡ」を、1981年には市販車を、それぞれ東京モーターショーで発表しました。
1982年に発売された初代パジェロは、コンセプトカーであるパジェロⅡの意匠を受け継いだ箱形のクローズドボディ(オープンバージョンも設定)でした。乗員が剥き出しになっていたジープから進化し、安全性や快適性が追求されていました。そのため、後部座席の居住性を考慮した「ワゴン(5ナンバー)」というバリエーションが選べるようになり、さらにより多くの人が乗れるロングボディも設定。さらには当時の四輪駆動車としては画期的な、フロント独立懸架式サスペンションを装備していました。旧時代の四輪駆動車を評価するユーザーからは「短足の猫」などと揶揄されましたが、現代に通じるハンドリングと快適性を持った四輪駆動車だったのです。
パジェロ発売の前年に登場した、いすゞのビッグホーンと共に、パジェロは日本中を沸かせる「クロカン四駆ブーム」を巻き起こしていきます。ちなみにパジェロはライセンスの関係でジープのシャシーではなく、フォルテという自社製ピックアップトラックのものを使っていました。このシャシーの共有で、デリカスターワゴンも生まれており、この2台の兄弟車が日本のRV&アウトドア市場を牽引していくことになります。
パリダカという文化がパジェロ人気を後押し
パジェロを世に広めたファクターのひとつが、パリ・ダカールラリー(現ダカール・ラリー)です。ジープの国内ライセンス生産という呪縛から解かれた三菱は、パジェロを海外で積極的に売ることを考えます。優れた性能を分かりやすくパブリシティしたい。そんな目的で出場したのが、この世界で最も過酷なラリーレイドでした。
デビューの翌年1983年1月に行われた、第5回大会に初出場したパジェロは、いきなり市販車無改造クラスで優勝。名前と優れた性能を、欧州に一気に知らしめました。1985年には、わずか出場3回目にして総合優勝を手にし、ランドローバーやランドクルーザーと並ぶ、四輪駆動車としてのポジションを確固たるものにしました。
その後、篠塚建次郎や増岡浩といった日本人選手と共にパジェロは砂漠を駆け抜け、世界の人に夢の車というイメージを定着させていきます。海外でも人気が高まったパジェロは、「モンテロ」や「ショーグン」というネーミングで海外に多数輸出され、韓国では現代自動車が「ギャロップ」の名でノックダウン生産を行っていました。
販売が絶好調な中、1991年には2代目にスイッチします。このモデルは「スーパーセレクト4WD」というフルタイム4WDモードを持った、革新的な四輪駆動車でした。
当時の四輪駆動車はサブトランスファーで2WD↔4WDの切り替えを行うのがスタンダードで、しかも4WDにした場合に発生する「タイトコーナーブレーキング」という物理的な現象のため、乾燥した摩擦係数の高い舗装路では4WDにすることは御法度でした(ジムニーは今でもNG)。それをビスカス式のセンターデフを奢ることで解決したパジェロは、優れた走行性能とイージードライブを一気に両立させたのです。
この2代目は、パリダカに出場していたプロトタイプのパジェロに似ていたこともあり、大変な人気となりました。90年代初頭の日本では、パジェロやランドクルーザーに乗っていることがステイタスであり、クイズ番組の豪華賞品になったこともあります。
パジェロはトラック然としていた四輪駆動車の古いイメージを完全に払拭し、多用途で使える万能車に昇華させました。またレザーシートを奢った高級モデルを設定して、新しい価値観の創造にも貢献したのです。後にはパジェロのシャシーを使ったスポーツモデル「チャレンジャー」も誕生させ、現在のSUVが持つ性能や価値観の礎を、パジェロと共に築いていきました。
しかし、四駆ブームが終わり、世の中の興味がワゴンやスポーツコンパクト、ミニバンに向かうと、パジェロに当たっていたスポットライトは他車へと移ります。さらに三菱自動車の度重なるリコール隠しが影響して、パジェロの信頼も失墜。3代目、4代目とモデルチェンジを行いましたが、かつてのような栄光を取り戻すことはありませんでした。
兄弟車として生まれたデリカシリーズがD:5で成功を収めたのに対して、最近のパジェロは年間数百台という寂しい販売実績に留まっており、メーカーはついに8月での生産終了を決定。約37年に渡ったパジェロの歴史が、幕を閉じることとなったのです。
デビューの翌年1983年1月に行われた、第5回大会に初出場したパジェロは、いきなり市販車無改造クラスで優勝。名前と優れた性能を、欧州に一気に知らしめました。1985年には、わずか出場3回目にして総合優勝を手にし、ランドローバーやランドクルーザーと並ぶ、四輪駆動車としてのポジションを確固たるものにしました。
その後、篠塚建次郎や増岡浩といった日本人選手と共にパジェロは砂漠を駆け抜け、世界の人に夢の車というイメージを定着させていきます。海外でも人気が高まったパジェロは、「モンテロ」や「ショーグン」というネーミングで海外に多数輸出され、韓国では現代自動車が「ギャロップ」の名でノックダウン生産を行っていました。
販売が絶好調な中、1991年には2代目にスイッチします。このモデルは「スーパーセレクト4WD」というフルタイム4WDモードを持った、革新的な四輪駆動車でした。
当時の四輪駆動車はサブトランスファーで2WD↔4WDの切り替えを行うのがスタンダードで、しかも4WDにした場合に発生する「タイトコーナーブレーキング」という物理的な現象のため、乾燥した摩擦係数の高い舗装路では4WDにすることは御法度でした(ジムニーは今でもNG)。それをビスカス式のセンターデフを奢ることで解決したパジェロは、優れた走行性能とイージードライブを一気に両立させたのです。
この2代目は、パリダカに出場していたプロトタイプのパジェロに似ていたこともあり、大変な人気となりました。90年代初頭の日本では、パジェロやランドクルーザーに乗っていることがステイタスであり、クイズ番組の豪華賞品になったこともあります。
パジェロはトラック然としていた四輪駆動車の古いイメージを完全に払拭し、多用途で使える万能車に昇華させました。またレザーシートを奢った高級モデルを設定して、新しい価値観の創造にも貢献したのです。後にはパジェロのシャシーを使ったスポーツモデル「チャレンジャー」も誕生させ、現在のSUVが持つ性能や価値観の礎を、パジェロと共に築いていきました。
しかし、四駆ブームが終わり、世の中の興味がワゴンやスポーツコンパクト、ミニバンに向かうと、パジェロに当たっていたスポットライトは他車へと移ります。さらに三菱自動車の度重なるリコール隠しが影響して、パジェロの信頼も失墜。3代目、4代目とモデルチェンジを行いましたが、かつてのような栄光を取り戻すことはありませんでした。
兄弟車として生まれたデリカシリーズがD:5で成功を収めたのに対して、最近のパジェロは年間数百台という寂しい販売実績に留まっており、メーカーはついに8月での生産終了を決定。約37年に渡ったパジェロの歴史が、幕を閉じることとなったのです。
四駆ブームを経験した世代には寂しい限りですが、そのコンセプトが多くのメーカーを刺激し、結果的にはSUVを誕生させたのは確かです。またかつてのエアトレックや、現行のアウトランダーにDNA は受け継がれました。その功績は大きく、多くの人に四輪駆動車の楽しさを伝え、たくさんの夢を残してきたパジェロは、永く語り継がれる名車であることは間違いありません。
山崎友貴|Tomotaka Yamazaki
四輪駆動車専門誌、RV誌編集部を経て、フリーエディターに。RVやキャンピングカー、アウトドア誌などで執筆中。趣味は登山、クライミング、山城探訪。小さいクルマが大好物。