伝説のジャパニーズ・スーパーカーと言えば?

トヨタ 2000GT

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伝説の日本製スーパーカーと言われて、皆さんはなにを思い浮かるでしょうか?さまざまあると思いますが、私はトヨタ 2000GTを一番に挙げます。存在感、デザイン、突き抜けた価格、性能、開発ヒストリー、人気、希少性、そのどれをとってもまさに日本を代表するスーパーカーと言えるのではないでしょうか。どれほどスーパーなのか伝説を紐解いてみましょう。

文・山里真元|日本スーパーカー協会 事務局 ライティングGT代表ライター

山里 真元|やまざと まさゆき

日本スーパーカー協会 事務局 ライティングGT代表ライター。国内最大手IT社員→ITコンサルティング会社創業を経て、2010年より趣味の車好きが高じて主にスーパーカーやクラシックカーなどのニッチな車の売買相談を開始。インポーター各社とのパイプも太く、国内外新型クラシック問わず幅広く相談を受けている。趣味のツーリングでは、地域密着型のスーパーカークラブを運営し、日本スーパーカー協会事務局長としても活動中。

山里 真元
Chapter
開発ヒストリー
トヨタ 2000GTの希少性
世界のトップレベルのスポーツ性能

開発ヒストリー

トヨタ 2000GTが生み出されたのは1960年代で、当時の日本はまさに戦後復興から抜け出し高度経済成長の真っただなか。1964年の東京オリンピックを契機に、車が生活必需品として急速に浸透していきました。いわゆるモータリゼーションです。

そんななか、自社の技術アピールや人々の憧れとして、メーカー間でのスポーツカー開発競争が繰り広げられますが、日産やホンダに対する遅れをとっていたトヨタは、それを挽回するための秘策として、本格的スポーツカー開発に着手します。

その数年前、ヤマハ発動機がスポーツカー開発に名乗りをあげ、日産との共同研究をしていました、しかし、スポーツカー開発に必要となる莫大な研究開発費などの問題により頓挫してしまいます。

1964年、まったく新しい本格的スポーツカーの生産に向けてパートナーを探していたトヨタと、2輪のノウハウを生かして高性能な4輪開発に打って出たかったヤマハ双方のニーズがマッチする形で両社の業務提携が始まります。

翌年の初めごろ、秋のモーターショーに本格的なスポーツカーを出品することが決定。当時の国内最高の技術と革新的なメーカー共同での開発体制により2000GTが生み出され、東京モーターショーで華々しいデビューを飾りました。

これは、本格的開発着手から1年足らずでの試作車デビューと、異例ずくめのプロジェクトでした。

トヨタ 2000GTの希少性

トヨタ 2000GTは、FRレイアウトのスポーツカーとして、完璧なプロポーションを持っています。流麗なロングノーズショートデッキスタイル、特徴的で力強いフロントノーズの形状、圧倒的に低いボンネットフード、どれをとっても見事と言うほかありません。

なお、その後のスポーツカーの象徴となるリトラクタブルヘッドライトを日本で初めて使用したのもこの2000GTです。ホイールには、当時まだ自動車部材としては例がなかったマグネシウムが使われています。

販売価格は238万円。当時、大卒の初任給が3万円以下であったことを考えると、どれほど高価だったか理解できると思います。ただし、あくまでもイメージリーダーとしての象徴的存在であり、これでも利益を出せる価格ではなかったようです。

イメージリーダとしての役割をはたすと、すぐに生産が終了されたため、総生産台数は337台にとどまりました。

生産台数の少なさからくる希少性や情熱的な開発ヒストリー、映画007シリーズでのボンドカーとしての活躍も相まって、国内外で根強い人気を誇ります。条件が揃った個体は、1億円以上の高値で売買された例もあるほどです。

世界のトップレベルのスポーツ性能

2000GTの心臓部は、当時クラウン用に開発が進められていたM型と呼ばれる2.0L 直6エンジンをベースにヤマハがDOHC化したものが用いられました。

150ps/6,600rpmという、当時の日本車としては最高クラスの出力を得て、最高速度は220km/hをマーク。この性能は当時のスポーツカーとしては、世界のトップレベルに相当します。

他にもエンジンが前輪車軸より後ろに載った完璧なフロントミッドシップレイアウトからくる重量配分の良さなど、現代の自動車開発では考えられないほどの理想が貫かれています。

これぞまさに伝説として語り継がれるべき、スーパーカーにふさわしい車といえるでしょう。

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