数々の世界新記録を樹立!2000GT スピードトライアルを解説

トヨタ 2000GT スピードトライアル レプリカ

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日本のヒストリックカーの最高峰に位置するのがトヨタ 2000GT。数年前に海外のオークションにおいて、約1億円というプライスがついたことは記憶に新しいところですし、依然として高嶺の花であり続けています。この2000GTには、さまざまなエピソードがありますが、そのひとつが谷田部にて行われた「スピードトライアル」なのです。
Chapter
高性能をアピールするための世界記録挑戦とレース参戦
過酷なスピードトライアル…
スピードトライアル仕様は、どこに?

高性能をアピールするための世界記録挑戦とレース参戦

※写真は2000GT スピードトライアル(レプリカ)

トヨタ 2000GTが発売されたのは、1967年のことでした。トヨタのフラッグシップモデルとして、ヤマハ発動機と共同開発した特別なモデルなのは周知の通りです。

その発売の前年、1966年10月1日から10月4日にかけて、国際記録樹立のためのスピードトライアルに挑戦しています。販促に繋がる(実際宣伝広告に使用)こと、また世界にトヨタのフラッグシップマシンを知らしめること、さまざまな思惑があっての挑戦だったといえます。

2000GTは、スピードトライアルの数ヶ月前には、レース参戦もはたしています。「第3回日本グランプリ」に出場した2000GTは、総合3位フィニッシュでレースを終えました。

ちなみに1位、2位を占めたのは、プリンス(日産)の怪物マシンR380でした。レギュレーションにてプロトタイプレーシングカーの出場が認められていたので、流石に分の悪いレースでした。

しかし市販前のレース出場は、広報の意味合いも勿論ありますが、なにより高性能GTマシンとして成立させるための”弱点の洗い出しと性能向上”という意図があったようです。

過酷なスピードトライアル…

1966年10月1日から10月4日にわたり、茨城県筑波郡谷田部町(現つくば市)の自動車高速試験場で、スピードトライアルが行われました。

細谷四方洋氏、田村三夫氏、福沢幸雄氏、鮒子田寛氏、津々見友彦氏といった当時のトヨタのワークスドライバーたちが挑んだのは、FIAの国際スポーツ法典Eクラス(排気量1,500-2,000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1,000マイル、2,000マイル、5,000マイル、10,000マイル(排気量無制限)、2,000km、5,000km、10,000km、15,000km(排気量無制限)の合計13カテゴリー。

長距離・長時間にわたる挑戦にくわえて、2日目からは台風の影響による豪雨と突風という悪天候に見舞われたことで、電装系のトラブル等、アクシデントが続き、また長時間ヘビーウェットの路面でのアタックを強いられる、非常に過酷なものだったそうです。

それでも、このスピードトライアルに挑戦したチームは、3つの世界新記録と13の国際新記録を樹立。世界にその名を知らしめたのでした。

スピードトライアル仕様は、どこに?

現在、トヨタ自動車博物館で保存されている2000GTのなかに、このスピードトライアル仕様があります。といっても、オリジナルはアメリカに送られ、キャロル・シェルビーレーシングによってレースに参戦し喪失されていますので、博物館にあるのはレプリカです。

しかしこのレプリカは、当時スピードトライアルでステアリングを握った細谷四方洋さん監修によって再現されたものですから、極めてオリジナルに近いものなっていると想像できます。

残念ながら世界記録は、2000GTが記録を達成した翌年、ポルシェが911Rで、96時間を平均時速209.23km/hで走破するなど、記録を塗り替えることになります。911Rは、GTクラスのレースに参加する目的で、911をベースとし、ドア、フード、バンパー等FRPに交換、またウインドガラス類もアクリル製のものに変更、大幅に軽量化したモデルとなっていました。

1年で破られてしまった2000GTですが、その記録はしっかりと刻まれたわけです。こうしたエピソードも、2000GTの存在の重みといえますよね。なにより驚異的なのは、この記録を達成したのがおよそ半世紀前という事実。このスピリットはヤマハとともに製作された、後のレクサスLFAに引き継がれています。


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