松本 葉の自動車を書く人々 第1回 小林彰太郎

第1回 小林彰太郎

アヘッド 松本 葉の自動車を書く人々

■Shotaro Kobayashi 
1929年東京生まれ。大学卒業後、1956年に『モーターマガジン』(日刊自動車新聞社)に寄稿を始め、「それでも車は動く」などの連載が人気を博す。1962年、二玄社から『CARグラフィック』を創刊。1966年に編集長に就任し、同誌は日本を代表する自動車雑誌に発展。日本の自動車ジャーナリズムの礎を築いた。2013年逝去。享年83歳。


〈自動車を書く人々〉の根っこには、小林彰太郎氏がいる。日本の自動車を巡る書き物の出発点には、背筋をぴんと伸ばした彼が立っている。

それはでも、小林さんが『CARグラフィック』(現在の英文字表記に変わったのは'71年。以下CGと記す)という自動車雑誌を創刊して、その雑誌が現在にいたるまで絶えることなく続き彼の志が受け継がれている、からではない。

老若男女を問わず、現在、自動車を書く人々に、「あなたは誰の原稿を読んで育ちましたか?」、もしくは「あなたは誰に憧れてこの世界に入りましたか?」と尋ねたら、全員が彼の名前を挙げた、から。

みんなが、小林彰太郎の原稿が好きでした、こう言った。

私も小林ファンのひとりだが、彼の原稿を読むようになったのは自動車雑誌に勤務してから。80年代に私が入った自動車雑誌がCGの姉妹誌だったことで、直属ではないにしろ小林さんと私は上司と部下の関係で知り合ったのだが、彼の容姿と容姿そのものの性格、このふたつが彼の記す原稿とピッタリ重なっている、それで魅かれるようになった。

 小林さんは背が高く痩せていて、顔の堀りが深く、姿勢がものすごくいい。ちょこまか歩いたりしない。長い手を前後に振りながら背筋を伸ばしてすっすっと歩く。そんな彼が『矢のように直進する』【メルセデス・ベンツ190/190E CG1983年3月号】と書く。『脱兎のごとく駆け上がる』『胸のすくような加速力』、こんな表現もある。

声にこもった深みがあって、落ち着いて話し、無闇にヘラヘラ笑ったりしない。だらしない格好をすることが決してなかったヒトが『トヨタは今度のニュークラウンで、(中略)正しい方向へ大きく一歩を踏み出した』【トヨペット・クラウン・デラックス CG1962年12月号】と記している。

見事なブリティッシュ・イングリッシュを話す愛妻家は綺麗な日本語を大切にした。彼の記すロード・インプレッションには『まごうかたなき』『ゆくりなくも』『思えばさにあらず』、こんな素敵な言葉が数多く現れる。時代の違いではないと思う。彼の原稿には人間性と知識と教養、なにより書くことへの愛情があふれている。

実際、編集長として最後のそれとなった1989年CG5月号の巻頭コラムに『ものを書くということは私の天性であり、いちばん好きなこと』【From Inside一部抜粋】と自ら記している。

アヘッド 小林彰太郎氏

"年齢のせいか、近頃は新しい車に乗ってもめったに
心を動かされないが、このアルピーナC1-2.3には
いささかよろめいた。" (1981年)

"シビックのような車が街を埋めれば、
この国の道路はよりビューティフルに、
よりセイフになるだろう。" (1972年)


小林彰太郎氏は1929年、東京に生まれた。東京大学を卒業した2年後、'56年に『モーターマガジン』(創刊は'55年)にフリーランスとして寄稿を開始する。

戦後はじめて乗用車として設計されたクラウンが登場した時代に、小林さんはアメリカ大使館でアルバイトをしながら、古い英国車を手に入れては自ら直してステアリングを握り、堪能な語学力をもってイギリスの自動車雑誌を愛読した。彼の原稿に〝外国の匂い〟を感じ取った人が多いのもこのためだろう。

「とにかく20代半ばですでに小林彰太郎という人間には、クルマを咀嚼している感じがあった」、こう語るのは高島鎮雄氏。

「『モータマガジン』の彼のビンテージ・カーの原稿を読んで、誰もが知識と文章力に圧倒されたものです」

高島さんもまた、同時期に『モーターマガジン』の社員として原稿を書いた生粋のエンスージアスト、今年、自動車殿堂入りを果たすほどの自動車人だが、'62年に小林さんと共に別の出版社に移り、自動車雑誌を創刊する。それがCG。自らも執筆を続けるいっぽう、高島さんはずっと小林さんと共に理想の雑誌づくりに励んだ。小林彰太郎をもっともよく知るひとりと言える。

『モーターマガジン』を辞めた経緯について、ネットなどでは同誌に寄稿しながら、別の出版社(この出版社からCGを創刊することになるのだが)から自動車の単行本を出したため、とされているようだが、それもあったけれど、と高島さんはこう語る。

「三菱500という国民車構想に近いクルマがあって、小林さんがこのクルマについて『スタイルが陳腐だ』と書いたんですね。これが三菱の逆鱗に触れて広告出稿が3ヵ月、止まったんです。それで編集長からもう少し筆を丸めろと言われた。もちろん本人にそんな気はなくて。これも辞めるきっかけだったと思う」

私はこの話を今回、初めて聞いたのだが、あれっと思った。私が知る小林さんの原稿には見当たらない言い切り方だと感じたからで、陳腐という言葉そのものより、そういう短い切り方は思い出せなかった。彼の一文は長めで、スルスルスルっと続く印象がある。

「そうじゃありません?」と尋ねると、高島さんは「そうだったかなあ」と笑ったが、笑ったあとにこう言った。

「私が思うに、小林さんは陳腐の一件で、逆に自分の書き方のスタイルを確立したのかも知れない。つまりね、自動車をたとえば〝陳腐〟のような一言で切り捨ててはいけない、ということを学んだんだと思います」

アヘッド 小林彰太郎氏

▶︎1962年に発行された『CARグラフィック』創刊号の表紙。同誌は日本において自動車批評という新しいスタイルを切り拓いた。


小林さんの原稿の特徴は、奇をてらった書き始めやフレーズを用いないこと。読者の知識や興味を〝測る〟ような書き方も刺激の強い言葉も見られない。一方で時折、(本人の意思にかかわらず)ユーモアを感じさせる言い方が出て来る。『肝っ玉のサイズ』『デレっとした部分』『頭がオカしい』『十三文半幅広の大足』などなど。意外性が効果をあげる。

ちなみに私がもっとも好きなフレーズは、『カチリと閉まるドア』と『コトリと閉まるドア』  前者はメルセデス・ベンツ220SE、後者はポルシェ356B1600スーパー90にあてたものだが、カチリもコトリも自身の重みが作り出す音と彼は記す。

こういう音の違いを、読んだ側がイメージできる文字に記せることに驚く。特に〝コトリ〟が私は好き。いつだったか、このクルマのドアを閉めようと軽く押したら、本当に〝コトリッ〟と音がして感激してしまった。

 とても自然で全体が〝たんたん〟とスムーズに進んで行くのだが、それでいて、目を凝らすと練った感じに気づく。

たとえば平仮名遣いが目立つ。『すなお』『えらんで』『すわれ』『わるくする』『あし』『おもしろく』『こわれた』などなど。句読点、漢字なしのこんなフレーズもある。

『よいものはどんどんまねるべきである』【CG1972年9月号 ホンダ・シビックHi-Deluxe】

自動車の性質上、カタカナと数値が多くなるために敢えて平仮名を使ったのだろうか。癖であったのだろうか。いずれにしても漢字ではなく平仮名を入れ込むことで誌面があくせくしておらず〝詰まった感じ〟がないことは確かだ。

加えて彼の文章は自分を示す主語を記さないものが多いが、時折、入る主語には『私』『筆者』『エディター』『ぼく』の4種類ある。複数のときは『われわれ』。使い分けは偶然とは思えない。

『このエンジンならむしろトヨグライド付の方を私ははるかに好む』
『エディターは81年春にジャガー社を訪問し、イーガン会長にインタビューしたことがある』
『(略)、いろいろな理由で筆者はまだハンドルを握る機会に恵まれなかった』
『ある日の編集会議。もう朝から数時間も会議は続いており、誰の顔にもやや疲れが見えてきたころを見はからって、ぼくは尋ねた』

微妙な使い分けだが、選んでいる印象を受ける。「これも小林スタイル、いや、いわゆる〝小林節〟ではないですか」と言ってみると、高島さんが答えた。

「いやあ、それはどうかな。もっと自然に書いていた印象がありますけどね。自然に書くからこそ、複数の自分が出てきたんだと思う」   こう言った高島さんに、ということは読む側も自然に読んだ方がいいということですかと問うと、彼が答えた。

「その通り。小林さんの原稿は些細なところにこだわらずに全体を見た方がいいです。なぜかというと小林さんの原稿は全体を通して読むと、このクルマを彼がどう考えているのかが、わかるようになっているからです。そういう手法をとるようになったのは前述の陳腐の一件、これも大きく関わっていると私は思います。クルマというのはあらゆる面から眺めなければならない。それが評価する者の使命だと考えていたのでしょう。だから彼は全部を読んで〝わかる〟謎解きの原稿を書いた。これが小林節だと思いますね」

小林節の究極は読者を一緒に自分が運転するクルマに乗せてしまうことだと彼は付けたしたのだが、確かに私はこれを実感する。小林さんのたんたんとしたスムーズな原稿を読んでいると、彼の横に座っている気がするのである。知らぬ間に私は彼の横に座る。そしてステアリングを握る彼はこんなふうに語りかける。『早速テストに出掛けよう』

ハンドリングについて彼はどう考えているのだろうか、そう思う絶妙なタイミングで『ハンドリングについて、最後まで何も書かなかったのには訳がある』

ある原稿では乗り心地についてはこんな記述が見られる。『乗り心地について、いままでわざと触れないで来た』  まさに読み手を〝乗せて〟いる。

アヘッド 小林彰太郎氏

「小林彰太郎 名作選」
(発行:株式会社カーグラフィック、価格:¥2,300+税)
1962〜1989年にかけて、氏がCAR GRAPHIC誌で綴った珠玉の試乗記を収録。


小林彰太郎の体と頭のなかにはクルマはどうあるべきかというものが棲み着いていた。棲み着かせたのは経験と試乗主義という考え方と、そして自動車のあらゆることを絶えず勉強した、その努力。何より、自動車の発達を願っていたヒトだと高島さんは断言する。

「自分のそういう気持ちを読み手と分かち合いたかった。常に読んでくれるヒトを意識していたんです。だから、横にお乗り下さいと。結局、クルマが好きで好きでたまらなかった、すべてはここから始まりここに終結する。だから、自動車の面白さや楽しさを文字で伝えたかったんです」

小林さんに最後に私が会ったのは90年代の終わりだっただろうか。日本に一時帰国した折に彼の自宅に招かれた。夫妻と一緒にお寿司を食べた気がするが記憶は曖昧。はっきり覚えているのは食後、ソファに移ってから。

小林さんが「キミに聞かせたいものがある」と言って一枚のレコードを手に取った。「何かは聞いてからのお楽しみにしましょう」と、彼独特の、茶目っ気たっぷりの笑い顔を見せると針をのせ、それからソファにすっと音もなく腰掛けた。

ブロッブロッブロッブロッブロッ
ブオオオオオオオーン
ブロッブロッブロッブロッブロッ
ブオオオオオオオーン

それは彼が愛するブガッティのエンジン音(だけ)が録音されたレコードだった。私は小林さんの横に座り、彼を見習い腰をのばして、膝をくっつけ、正しい姿勢でこの夜、延々、エンジン音(だけ)を聞いた。

ブロッブロッブロッブロッブロッ
ブオオオオオオオーン

小林彰太郎、クルマをこよなく愛したジャーナリスト、彼の自動車への愛が多くの書き手を生み出した。

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。

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