松本 葉の自動車を書く人々 プロローグ

アヘッド 松本 葉の自動車を書く人々

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私たちはいやおうなく、人の“言葉"を通してクルマを知る。自動車ジャーナリズムというものが生まれてからずっと、そうやって私たちはクルマのことを知ってきた。私は思わずにはいられない。この文章を書いた人はどんな人だろう。どんな人がどんな思いでこの文章を書いたのだろう、と。

text:松本葉 [aheadアーカイブス vol.170 2017年1月号]
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プロローグ

プロローグ

私はクルマを好きなヒトが好きで、クルマを買うヒトが好きで、クルマに乗るヒトが好き。クルマを作るヒトも大好きだ。自動車に使われる部品の数は3万個などと聞くと、3万人に会わねばならぬと気が弾む。

クルマを運転するヒトが好きで、運転が好きなヒトが好きで、ドライビング上手がさらに好き。たとえ愚息と同じ年齢の若者でもドリフト自慢の横に乗せてもらうと、それだけでデレデレである。

 結局、クルマが好きなんですね、と言われるとしかし、答えに詰まる。答えに詰まるのは自動車を機械として単体で見ることが出来ないからでクルマの横にはいつも人間が寄り添う。クルマとヒトを切り離すことが出来ないのである。

クルマの傍らに立つのは前述の通り、乗るヒトであり、駆るヒトであり、作るヒトだが、自動車を撮るヒトや描くヒトがいる。なによりクルマのそばにはいつも、自動車を言葉で記すヒトが寄り添う。

私自身も書くヒトのひとりで、細さを長さで補う紐のごとく、30年余り、クルマを書いてきた。そうしてきたのは自動車を書く人々の記したものを読んで、それに魅了されて来たからに他ならない。

日本のモータージャーナリストの先駆者、小林彰太郎氏や徳大寺有恒氏の本にクルマの楽しさを教えられる。「自動車は機械だ」と福野礼一郎氏が言い切れば、機械であるクルマは無機質なそれではなく、私の中で〝福野さんが語る機械〟に姿を変える。

須賀敦子氏や佐野洋子氏のエッセイにはクルマの匂いが漂う。敬愛する二人の本の中に漂うクルマの香りに出遭っては、大きな喜びを味わう。

『読むことは快楽をもらうこと。書くことは快楽を与えること』

こう記したのはフランスの哲学者であり批評家のロラン・バルト。彼の主張は私にはそのほとんどが難解だが、このフレーズだけは頭の隅にこびり付いている。

〝快楽〟と聞くと官能的な欲望の満足のような、肉体に絡みつく深い感情を想うが、バルトという、写真から映画から様々なジャンルを飛ぶがごとく語った彼が言うのなら、ごくシンプルに快楽を楽しさや面白さと解釈していいと思っている。

 私は自動車を書く人々が記した原稿を読んで、それに刺激されて今度は自分でクルマを描いた。自動車の記事を読んで快楽を頂戴したから、今度は私がクルマの記事を書いて、雫より小さな快楽でも、それを誰かに差し上げたい。こんな思いでずっと書いて来た。

歳を重ねた今は、リレー走よろしく、受け取ったバトンを落とさぬように走って、次の走者に渡したい、こんな気持ちもある。



 

〈自動車を書く人々〉を描きたいと思うようになったのはいつのことだったか。それはずいぶん昔だが、今の時期に連載を始めてみようと思ったのは自動車が難しい時代に突入したことと無縁ではない。

私は日本のモータリゼーション時代の幕開けに生まれ、上昇期に育った。カローラと同じ歳だ、ウソ、年上。日本の家庭にクルマが定着した時期に免許を取り、ガンガン、自動車を運転してきた。欧州の田舎町に住むこともあって、クルマなしでは1日も暮らせない。

気づいてみれば自動車を取り巻く環境はもちろん、自動車自身が大きな変化を遂げている。何より持ち手、乗り手の意識が大きく変わった。

先日、日本に里帰りした折、『家族は成長する。クルマはどうする?』、こんなCMコピーを耳にして考えさせられた。スイート・ホームを彷彿するミニバンが多く走る日本ではクルマに〈家族〉が戻ってきている印象を受けるが、そこに日本車の行き詰まりが見える。

欧州では逆にクルマは〈家族〉から離れつつあり、これもまた自動車作りの壁となっている。双方の地で共通するのは若者の自動車離れだろうか。

自動車雑誌も大きく様変わりした。私はバブル時代スタート直前の、自動車雑誌に就職し、ガイシャに浮かれた時期を編集部で過ごした。この頃から自動車雑誌を読み始め、それは海外に渡ってからも変わらない。

つい最近、20代の女性に「まだ、自動車雑誌ってあるんですか」と聞かれて苦笑したばかりだが、実際、私が愛する自動車雑誌も複雑な時代を迎えている。

ウエブの登場は紙媒体を一変させた。自動車の分野も例外ではない。それどころか、クルマの場合、ニューカマーの情報掲載はスピーディで、おまけに無料。誰が発売日を待ってお金を払い重い自動車雑誌を買う。いや、今の自動車雑誌は広告出稿が減って軽くなった。

それでも私は軽くなった自動車雑誌を買わずにはいられない。なぜなら私はヒトが伝える自動車が読みたいから。クルマを文字で読むことが好きなのである。





自動車は数値が多くを語るが、数値だけでクルマを語ることは出来ない。そこには人間による解析と判断がいる。諸元や重量だけでクルマを評価することは出来ず、それは次々に投入される新技術も値段も同じこと。

冷蔵庫や掃除機のモーター音を大きい方がいいと言うヒトはいない。それをサウンドとする消費者はいない。代わって自動車のエンジン音や排気音を静かであればいいというヒトはいない。クルマが奏でる音の好みはさまざまだ。こんなところにも自動車の特殊性がある。

趣味の域で捉えるなら、カメラや時計に似ているとも言えるが、クルマをカバンの中に入れて持ち歩くことは出来ない。自動車は街の風景のなかにいる。そういう意味では社会的存在だ。

国の経済を牽引するプロダクツである一方、洋服同様、自己表現の一部とするヒトも多いが、クルマをシーズンごとに着替えるわけには、フツウ、いかない。何よりクルマは安全性を高めるという使命を持つ。人間の命と密着している機械。そう、冷蔵庫もカメラも洋服も走らないが、自動車は動く。乗り手を此処ではない何処かに誘う。

クルマは、速さや技術や機能や歴史やデザインやヒトの好みや、この世に今、生まれた意味をコトバとして放つ。クルマが放つコトバは音であり色であり、ときに匂いでもある。感触や手触りであるかも知れない。エバっていることがあり、嘆いていることがあり、戸惑っていることがある。

クルマが放つこれらのコトバの委託者が〈自動車を書く人々〉だと私は思う。コトバは書き手のフィルターを通過することによって言葉となり、読み手に伝わる。楽しい書き物、面白い読み物に出遭ったとき、自動車は情報としてではなく、情報を越えた〈存在〉として私たちの身体に吸収されて行く。

この連載で私はクルマのコトバを言葉に変える〈自動車を書く人々〉のフィルターを覗いてみたいと思う。どんなヒトがどんな風に自動車を書いてきたのか、いや、書いているのだろう。誰に向かって、何を伝えるのだろう。どこにこだわるのか。これは私の、ごくごく個人的な興味だけれど、あなたを誘わずにはいられない。

私と一緒に〈自動車を書く人々〉のフィルターを覗いてみませんか?

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。
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