F1ジャーナリスト世良耕太の知られざるF1 Vol.32 可夢偉、鈴鹿で初の表彰台

ahead 可夢偉

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今年の日本GPほど、「観客席で見たかった」と思ったことはなかった。小林可夢偉が3位表彰台に立つ活躍で、集まった10万3000人の観客は大盛り上がりだった。母国ドライバーが目の前を通過するたびに観客が激しいアクションで反応するのは、鈴鹿サーキットに限った話ではない。スペインGPでのアロンソの歓迎ぶりは激しいし、フェラーリドライバーを熱くたたえるイタリアGPのファンの姿は伝統でさえある。

text:世良耕太  [aheadアーカイブス vol.120 2012年11月号]
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Vol.32 可夢偉、鈴鹿で初の表彰台

Vol.32 可夢偉、鈴鹿で初の表彰台

▶︎日本GPで日本人ドライバーが表彰台に上がるのは、1990年に3位に入った鈴木亜久里(ラルース・ランボルギーニ)以来22年ぶり。鈴鹿以外では、佐藤琢磨(B・A・Rホンダ)が2004年のUS GPで3位表彰台に上がっている。参戦4年目(初年度は終盤2戦のみ出場)の小林可夢偉は、「鈴鹿で初めての表彰台に上がるのは運命的」と語った。写真・Sauber Motorsport AG


10月7日に鈴鹿サーキットを包んだ一体感は、応援すべき母国ドライバーがいることのありがたさを改めて実感させてくれた。可夢偉が目の前で見せた走りが、10万3000人を鼓舞した。

沸き立った血が何に役立つのかは人それぞれだろうが、前向きな気持ちや意欲につながったことは想像に難くない。それこそがモータースポーツの力であり、世界の強豪を相手に戦うF1ドライバーの力というものである。
 
振り返ればちょうど2年前、初挑戦の日本GPで活躍した可夢偉を本稿で取り上げた。2010年の可夢偉は14番グリッドからスタートし、7位でフィニッシュした。ストレートエンドで料理するのが追い抜きの定石だったが、マシンの戦闘力に劣るため通用しなかった。

そこで可夢偉は、従来は「抜けない」と評価の定まっていたヘアピンを勝負どころと捉え、そこで5台を料理してみせたのだ。コース上での追い越し自体が珍しい現象になっていたF1で、可夢偉は矢継ぎ早に鮮やかなショーを演じてみせた。日本におけるF1の火を消してはならない。そんな悲壮とも思える決意が、可夢偉を奮い立たせたのだ。
 
それから2年後、鈴鹿サーキットには可夢偉がオーバーテイクショーを披露した年より7000人多いファンが詰めかけた。彼がドライブするザウバーは、常時トップを走れるほどの実力は持ち合わせていなかったが、マシンとコースの相性が合えば、上位に割って入るだけの力を備えていた。

鈴鹿とマシンの相性は良く、可夢偉は予選で4番手を記録。3番手だったマクラーレンのJ・バトンがペナルティで5グリッド降格したため、3番手からスタートすることになった。
 
レースでは、そのバトンと白熱した戦いを繰り広げた。53周で争われたレース終盤、4周分タイヤがフレッシュなバトンが、3番手を走る可夢偉を追い上げ始めた。

41周目には3秒あった差が周回を重ねるごとにじわりじわりと縮まり、44周目には1.8秒になった。観客席に陣取るファンには、2台の差が縮まっていく様子が手に取るようにわかったことだろう。息が詰まるほどの戦いとはこのことだ。フィニッシュした瞬間の差は、わずか0.56秒だった。
 
表彰台に登場する可夢偉を待つ間、観客席から自然発生的に可夢偉コールが沸き上がった。「来年も絶対鈴鹿に来る」「来年は絶対鈴鹿に行く」。そう誓ったファンを生んだ、可夢偉ショー第2幕だった。

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text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/
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