80年代のマツダの全車種を紹介!マツダ徹底解説!(1980年~1989年)
更新日:2024.09.09
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マツダは太平洋戦争前からトラックなどのクルマを製造し、戦争終結後もR360クーペなどの乗用車開発を行いクルマづくりを続けてきました。1980年代はどのような車種をラインナップしていたのかを、乗用車を中心とした当時の車種とともに紹介します。
文・PBKK
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1980~1989年のマツダ
太平洋戦争以前からマツダはトラックなどの実用的なクルマを製造し、その技術力から戦争中は日本帝国海軍や陸軍の軍用車を製造していました。戦争の被害を受けたものの、終戦から間もない1945年12月にはトラックの生産を再開、戦後需要の多かった3輪トラック(オート三輪)を開発するなど、日本の経済復興にも大きく貢献します。
その後、高度経済成長によってマイカー需要が高まりはじめたことから、マツダもトラックなどの商用車から乗用車開発に力を入れ始めます。そして1960年にマツダ初となる乗用車、マツダ R360クーペを発売。
軽自動車ながら高い品質を誇ったことや、MT(マニュアルトランスミッション)車で30万、当時はトルコンと呼ばれたAT(オートマチックトランスミッション)車で32万円という低価格によって、マイカーを身近な存在へと変えていきました。
こうした成功を経て、マツダは乗用車開発へとシフト。そのなかで当時「次世代のエンジン」と呼ばれていたロータリーエンジンの量産化に向けて、1960年代に西ドイツのNSU社と手を結びました。
その後、高度経済成長によってマイカー需要が高まりはじめたことから、マツダもトラックなどの商用車から乗用車開発に力を入れ始めます。そして1960年にマツダ初となる乗用車、マツダ R360クーペを発売。
軽自動車ながら高い品質を誇ったことや、MT(マニュアルトランスミッション)車で30万、当時はトルコンと呼ばれたAT(オートマチックトランスミッション)車で32万円という低価格によって、マイカーを身近な存在へと変えていきました。
こうした成功を経て、マツダは乗用車開発へとシフト。そのなかで当時「次世代のエンジン」と呼ばれていたロータリーエンジンの量産化に向けて、1960年代に西ドイツのNSU社と手を結びました。
オイルショックからの起死回生
マツダはロータリーエンジンの開発に成功し、1967年にマツダ コスモスポーツを発売します。ロータリーエンジンは従来のレシプロエンジンに比べてコンパクトでありながらハイパワーでしたが、燃焼構造が異なるために燃料消費量が多いというデメリットもありました。
そんななか、1973年に勃発した第4次中東戦争によって第1次オイルショックが発生し、ロータリーエンジン搭載車のラインナップを拡大させていたマツダも影響を受けてしまいます。特に当時メインマーケットだった北米において燃費や公害などが問題視されはじめたことや、日本車へのバッシングもあり、マツダは窮地に立たされました。
一時期はロータリーエンジンの存続が危ぶまれましたが、マツダは燃費を従来から40%改善する計画を立て、ロータリーエンジンの改良を開始。
その結果、燃費は大きく改善され、さらにロータリーエンジン専用スポーツカーとして、1978年にマツダ 初代サバンナRX-7を登場させるなど、ロータリーエンジンが秘めた可能性やブランド力を高めていきました。
1980年代は、マツダにとってオイルショックと戦った時代であり、発売されたクルマも個性にあふれていました。
そんななか、1973年に勃発した第4次中東戦争によって第1次オイルショックが発生し、ロータリーエンジン搭載車のラインナップを拡大させていたマツダも影響を受けてしまいます。特に当時メインマーケットだった北米において燃費や公害などが問題視されはじめたことや、日本車へのバッシングもあり、マツダは窮地に立たされました。
一時期はロータリーエンジンの存続が危ぶまれましたが、マツダは燃費を従来から40%改善する計画を立て、ロータリーエンジンの改良を開始。
その結果、燃費は大きく改善され、さらにロータリーエンジン専用スポーツカーとして、1978年にマツダ 初代サバンナRX-7を登場させるなど、ロータリーエンジンが秘めた可能性やブランド力を高めていきました。
1980年代は、マツダにとってオイルショックと戦った時代であり、発売されたクルマも個性にあふれていました。
80年代のマツダ車種①|5代目ファミリア(1980年)
マツダ 5代目ファミリアは、マツダの乗用車として初めてFFレイアウト(フロントエンジン・フロントドライブ)を採用したクルマです。
また、5代目ファミリアではフルモデルチェンジに合わせてプラットフォームが刷新され、ファミリアのために開発された「BDプラットフォーム」が採用されました。
車体は3ドアハッチバックをメインに、5ドアハッチバックと4ドアセダンがラインナップされ、エクステリア(外装)デザインや数々の新機軸が盛り込まれたことからヒット車種となり、第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーの受賞車にも選ばれるなど、歴代ファミリアの中でも人気のモデルだったとされています。
また、5代目ファミリアではフルモデルチェンジに合わせてプラットフォームが刷新され、ファミリアのために開発された「BDプラットフォーム」が採用されました。
車体は3ドアハッチバックをメインに、5ドアハッチバックと4ドアセダンがラインナップされ、エクステリア(外装)デザインや数々の新機軸が盛り込まれたことからヒット車種となり、第1回日本カー・オブ・ザ・イヤーの受賞車にも選ばれるなど、歴代ファミリアの中でも人気のモデルだったとされています。
80年代のマツダ車種②|4代目ルーチェ(1981年)
マツダ 4代目ルーチェは、マツダ初のターボチャージャーを装備したロータリーエンジン搭載車です。
マツダは1960年代からロータリーエンジンの実用化に向けた研究を進め、1969年にファミリアにロータリーエンジンを搭載した「ファミリア ロータリークーペ」、1970年にマツダ 2代目ルーチェをベースにした「ルーチェ ロータリークーペ」を登場させています。
4代目ルーチェに搭載されたエンジンは「12A」と呼ばれ、ターボ化されたことでよりハイパワーになりました。4代目では空力性能も改善され、当時としては優れたCd値を誇ったと言われています。
マツダは1960年代からロータリーエンジンの実用化に向けた研究を進め、1969年にファミリアにロータリーエンジンを搭載した「ファミリア ロータリークーペ」、1970年にマツダ 2代目ルーチェをベースにした「ルーチェ ロータリークーペ」を登場させています。
4代目ルーチェに搭載されたエンジンは「12A」と呼ばれ、ターボ化されたことでよりハイパワーになりました。4代目では空力性能も改善され、当時としては優れたCd値を誇ったと言われています。
80年代のマツダ車種③|2代目サバンナRX-7(1985年)
マツダ 2代目サバンナRX-7(FC3S・FC3C型)は、初代からエクステリアデザインやエンジンが大幅に刷新され注目を集めました。マツダ 初代サバンナRX-7のエンジンには12Aが搭載され、当初はターボチャージャーも装着されておらず、ノンターボモデルは最高出力は130PSでした。
2代目サバンナRX-7は新型エンジンの13Bを搭載し、ターボモデルは最高出力が初代の165PSから185PSと大きく引き上げられた他、フロントバンパーのデザインやボンネットダクト追加など空力に優れた変更が行われ、メーカーテストでは230km/h以上の最高速度を記録したとも言われています。
また、2代目サバンナRX-7は優れた空力性能を活かし、アメリカ・ユタ州のボンネビルで行われている最高速度を競うイベント、「ボンネビル・ソルトフラッツ」において、1986年当時としては驚きの381.4km/hを記録したとされています。
2代目サバンナRX-7は新型エンジンの13Bを搭載し、ターボモデルは最高出力が初代の165PSから185PSと大きく引き上げられた他、フロントバンパーのデザインやボンネットダクト追加など空力に優れた変更が行われ、メーカーテストでは230km/h以上の最高速度を記録したとも言われています。
また、2代目サバンナRX-7は優れた空力性能を活かし、アメリカ・ユタ州のボンネビルで行われている最高速度を競うイベント、「ボンネビル・ソルトフラッツ」において、1986年当時としては驚きの381.4km/hを記録したとされています。
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80年代のマツダ車種④|2代目キャロル(1989年)
マツダ 2代目キャロルは、1987年にスズキと結んだ「軽自動車の生産協力の合意」により、スズキからエンジンなどの技術提供を受けて開発されたクルマです。
マツダ 初代キャロルは、マツダ初の軽自動車であるマツダ R360クーペに続いてマツダの軽自動車シェアを支えた車種でした。
しかし、1960年代には小型乗用車の需要が増えたことやロータリーエンジン開発に注力していたことから、マツダでは軽自動車開発のリソースが足りず、初代キャロルは後継車種のシャンテへと代わり、そのシャンテも1976年に販売終了となりました。
そのため、2代目キャロルはマツダ独力ではなく、スズキとの協力のもとで開発されました。スズキ アルトと共通のエンジンを採用し、プラットフォームもスズキのものを利用するなど随所にその影響が見られます。一方でエクステリアはマツダ独自の個性的なデザインとなり、丸みを帯びたデザインは女性ユーザーからも人気だったと言われています。
マツダ 初代キャロルは、マツダ初の軽自動車であるマツダ R360クーペに続いてマツダの軽自動車シェアを支えた車種でした。
しかし、1960年代には小型乗用車の需要が増えたことやロータリーエンジン開発に注力していたことから、マツダでは軽自動車開発のリソースが足りず、初代キャロルは後継車種のシャンテへと代わり、そのシャンテも1976年に販売終了となりました。
そのため、2代目キャロルはマツダ独力ではなく、スズキとの協力のもとで開発されました。スズキ アルトと共通のエンジンを採用し、プラットフォームもスズキのものを利用するなど随所にその影響が見られます。一方でエクステリアはマツダ独自の個性的なデザインとなり、丸みを帯びたデザインは女性ユーザーからも人気だったと言われています。
80年代のマツダ車種⑤|ユーノス100(1989年)
マツダ ユーノス100は、当時のマツダの販売チャンネルであった「ユーノス」ブランドのクルマです。
ユーノス100は同時期に販売されていたマツダ 7代目ファミリアをベースに開発され、ヘッドライトがリトラクタブルヘッドライトとなり、リアスポイラーが追加されるなど、外観上の違いが数多くあります。
また、ファミリアには無い仕様として1.8Lエンジンを搭載したグレードや、高級オーディオシステムを装備したグレードが設定されるなど、ユーノスのエントリーモデルとしてさまざまな工夫が行われましたが、販売面では苦戦し、販売台数は1,000台程度に留まったともされています。
ユーノス100は同時期に販売されていたマツダ 7代目ファミリアをベースに開発され、ヘッドライトがリトラクタブルヘッドライトとなり、リアスポイラーが追加されるなど、外観上の違いが数多くあります。
また、ファミリアには無い仕様として1.8Lエンジンを搭載したグレードや、高級オーディオシステムを装備したグレードが設定されるなど、ユーノスのエントリーモデルとしてさまざまな工夫が行われましたが、販売面では苦戦し、販売台数は1,000台程度に留まったともされています。
80年代のマツダ車種⑥|ユーノスロードスター(1989年)
マツダ ユーノスロードスター(NA)は、オープンカーを身近な存在にしたエポックメイキングなクルマです。
ユーノスロードスターは快適装備や豪華装備を削減して車体重量を軽くした2シーターオープンカーとして登場しました。ユーノスロードスター以前のオープンカーは、スペシャルティーカーや高級車としての性格があり、最低限の装備で軽量に作られた小型乗用車のオープンカーは珍しい存在でした。
そのため、ユーノスロードスターは登場とともにヒット車種となり、2シーター小型オープンスポーツカーとして累計100万台を達成。その記録は2020年現在も更新され続け、ギネス記録にも登録されるクルマとなっています。
ユーノスロードスターは快適装備や豪華装備を削減して車体重量を軽くした2シーターオープンカーとして登場しました。ユーノスロードスター以前のオープンカーは、スペシャルティーカーや高級車としての性格があり、最低限の装備で軽量に作られた小型乗用車のオープンカーは珍しい存在でした。
そのため、ユーノスロードスターは登場とともにヒット車種となり、2シーター小型オープンスポーツカーとして累計100万台を達成。その記録は2020年現在も更新され続け、ギネス記録にも登録されるクルマとなっています。
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マツダとは切っても切り離せないロータリーエンジンですが、1980年代に登場したロータリーエンジン搭載車は、オイルショックによる影響などから厳しい燃費基準を達成する必要がありました。そうしたなかでもロータリーエンジンの改良を続けたマツダの姿勢は、まさしく社運を賭けたものだったと言えるでしょう。
また、独特の視点やユニークな発想はマツダ ユーノスロードスターといったその後のクルマづくりに大きな影響を与える車種を生み出しました。
また、独特の視点やユニークな発想はマツダ ユーノスロードスターといったその後のクルマづくりに大きな影響を与える車種を生み出しました。