ルマンを制した唯一のロータリー、マツダ787Bの遺伝子を受け継ぐLM55が公開!
更新日:2024.09.09
※この記事には広告が含まれます
1991年、ルマン24時間耐久レースで日本車で初めての総合優勝を果たしたマツダのレーシングカー『787B』。1970年代前半からルマンに挑戦し続けたマツダの情熱が結実したスーパーマシンです。2011年には優勝から20周年を記念してルマン再走、東日本大震災後の日本を元気づけようと「がんばろう日本 NEVER GIVE UP! MAZDA」というステッカーを貼って走りました。今回は『マツダ787B』を特集します。
日本車初!ルマン24時間耐久レース初優勝
1991年、日本車で初めてル・マン24時間耐久レースで総合優勝を果たしたのが、マツダのレーシングカー『787B』。『787』がストレートスピード重視だったのに対し、787Bはコーナリングスピードに重点を置き、グループCカテゴリー2という規定に沿って開発したロータリーエンジンを搭載しました。
ルマン24時間耐久レースは、91年から規定が変更になり、3.5L自然吸気エンジンのみの使用以外認められなくなってしまいます。そのため、ロータリーエンジンでレースに参戦する最後の年、90年がマツダがルマンに挑戦する最後の年とされていました。
しかし、91年の開催までに3.5L自然吸気エンジン搭載の出場台数を確保できないという理由から、新規定の適用は1年先延ばしになります。90年、767Bが20位という結果に終わったマツダ、91年の参戦がロータリーエンジンでの最後の戦いになりました。
ルマン24時間耐久レースは、91年から規定が変更になり、3.5L自然吸気エンジンのみの使用以外認められなくなってしまいます。そのため、ロータリーエンジンでレースに参戦する最後の年、90年がマツダがルマンに挑戦する最後の年とされていました。
しかし、91年の開催までに3.5L自然吸気エンジン搭載の出場台数を確保できないという理由から、新規定の適用は1年先延ばしになります。90年、767Bが20位という結果に終わったマツダ、91年の参戦がロータリーエンジンでの最後の戦いになりました。
優勝!その影に優秀な指揮官あり!
当時のマツダは貧乏チームでした。潤沢な資金を持っての挑戦ではなかったんですね。優勝した91年の年間総予算でさえ、近年のF1の年間開発予算の数%にも満たない金額。貧乏チームだからこそ、レースに関わる全ての人々の団結が必要不可欠でした。
当時、マツダを優勝へと導いたのは大橋孝至氏です。大橋氏は13回にもわたるルマン挑戦に、総監督として事前準備からチーム運営、レースの指揮などを行ってきました。優勝した91年でも、1周あたり1秒のペースアップを指示し他車にプレッシャーを与え、結果としてベンツC11のエンジントラブルを誘発したと言われています。
大橋氏は度重なる挫折を味わいながら、決して諦めることなくルマンに挑戦し続けました。その彼の情熱に惹かれ、マツダには多くの優秀な人材、グローバルなネットワークが構築されました。マツダの優勝は大橋氏の存在無くしては達成できなかったでしょう。
当時、マツダを優勝へと導いたのは大橋孝至氏です。大橋氏は13回にもわたるルマン挑戦に、総監督として事前準備からチーム運営、レースの指揮などを行ってきました。優勝した91年でも、1周あたり1秒のペースアップを指示し他車にプレッシャーを与え、結果としてベンツC11のエンジントラブルを誘発したと言われています。
大橋氏は度重なる挫折を味わいながら、決して諦めることなくルマンに挑戦し続けました。その彼の情熱に惹かれ、マツダには多くの優秀な人材、グローバルなネットワークが構築されました。マツダの優勝は大橋氏の存在無くしては達成できなかったでしょう。
【動画】2011年に行われたマツダ787Bのルマン再走
こちらが20年の時を越えて再びルマンの地を走った時の動画です。
ぜひご覧ください!!
ぜひご覧ください!!