Rolling 40's Vol.69 新撰組の末路

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色々な意見はあると思うが、ガソリンはもっと高くなると思っている。限度はあるがハイオクで200円弱あたりをウロウロしてもおかしくはない。反対に世界情勢の更なる変化や、税制も加わると安くなる要素の方が少ない。ではデモでもやれば安くなるかと言えば、そんな簡単なことではないだろう。実際にガソリンスタンドの経営は大変だと聞くし、その証拠にどんどんセルフ給油スタンドが増えている。

text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.139 2014年6月号]
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Vol.69 新撰組の末路

Vol.69 新撰組の末路

メーカーは若者のクルマ離れ云々と言うが教習所も30万近くするし、ガソリンがそんなにするなら、私たち'80年代乗り物世代が若かったとしても、尻込みしたであろう。

私はハイブリッド車に乗っているので燃費はレギュラーでリッター16キロくらいであるが、車体自体がガソリンエンジン車に比べて70万円くらい高いのだからプラマイゼロ。結局大した恩恵ではない。ただ月に1200キロほど走るというのにガソリンスタンドに寄るのが2回というのは手間が省けるという点ではかなりありがたい。

友人で600馬力のスーパーカーに乗っている輩がいる。彼に昨今のガソリン高騰の話を聞くと、そのマシンは街乗りでリッター3キロ前後。しかし金の問題ではなく、ガソリンスタンドにしょっちゅう行くという行為が面倒で仕方ないとのこと。

いっそガソリンタンクを300リッターくらい入るものにしてくれないかと笑っていた。確かにその手間だけは金で解決はできない。まったく金持ちの悩みというものは特殊である。

反対に都内在住の若い世代などでは、必要な時にはレンタカーを使うというスタイルでクルマの所有そのものを不合理と考える流れもある。家族での行楽には、ミニバンをそのときだけレンタルすればいいのである。

合理的そのものだが、これがどうしても私たち世代は受け入れられない。'80年代の乗り物世代は、洗脳教育を受けたかのように乗り物への想いは特別だ。それ以前の世代との違いは、夢の高性能が、頑張れば手に入る時代に思春期を迎えたという点だろう。つまり高性能な乗り物を所有する夢が、庶民レベルで現実化した世代なのだ。

しかし光陰矢の如く時代は移り変わり、乗り物を取り巻く環境は、インフラから世相まで全てが様変わりした。大体、自動車免許を持っていない男子がうようよしているくらいなのだから、その変化はかなり大きい。

こんな状態が続くとクルマのあり方そのものが急速に変わっていくのは目に見えている。

若い世代の人生における乗り物の優先順位はどんどん下がり、追い打ちをかけるかのように燃料費のさらなる高騰。それは技術の進化や魅力の再発見云々の前に、自動車を無用の存在へと変えていくだろう。

高性能スポーツカーなどは一部の層の「嗜み」と化すのは避けられない。普通の収人でギリギリ車両を手に入れられたとしても維持するのは現実として難しい。若い世代にとっては尚更のこと。高燃費の軽自動車かハイブリット、または原付的なコミューターのみの世の中になっていくのだろう。

我々が'80年代に乗り物に感じた激しい感情。それだけを頼りに無理して手に入れた中古のソアラやZの輝きはいまだに忘れられない。
しかしその手の夢物語自体が完全に過去の遺物なのであろう。江戸から明治になり武士階級が消滅しても「武士道」にこだわった輩のようなものか。

つい最近、我々の世代のチューニングのアイコンであった、「Lメカ」が載っている'80年代の国産スポーツカーに乗る機会があった。
久々に乗ったそれは現代のそれとは明らかに違う迫力があった。

加速のひとつひとつにガソリンを燃やしている感覚があり、車体からはタイヤがアスファルトにどう食い付いているかが伝わってきた。全てのクルマの動きから、1トンの物体で走ると、どんなエネルギーが発生するのかが如実に伝わる感覚だった。

久しぶりの「ソレ」に深く感動した。しかし同時に、25年前は当たり前のように乗り回していた「ソレ」を欲しいとは思わなかった。

性能や燃費が良い悪いの話ではなく、そのクルマの感触が旧車ではなくクラシックカーの領域に感じてしまったからだ。好き勝手に乗り回すのではなく、飾っておくべき博物と感じた自分がいた。

まさに明治時代になって刀を持ち歩くことが無くなった武士のような気持ちであった。
司馬遼太郎の小説「燃えよ剣」などを読むと、明治になっても江戸時代のあり方に固執した元武士たちの末路はロマンはあっても現実には散々たるものだった。それまで正しかったはずの側が賊となり、その反対も然りである。

時代の変化とは、それくらいに残酷なモノなのだろう。同様に'80年代の革新的変化を目の当たりにした私たちは、トラウマ的ロマンを植え付けられてしまったのだろう。だから時代が変わっても「刀」を捨てられないのだ。

ただ、バイクの世界はまだまだ「戦国時代」の荒っぽい気風が残っている。それを証明するかのように、私たちからその上のオッサンたちにバイクが売れていると言う。

会津戦争でも、最後の砦というものは必ず残酷に落城するのが世の常である。だが時代の流れに討ち死にしていくのも、また羅漢であろう。

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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
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