バブル期を象徴する名車 日産 シーマ|一大旋風を起こしたシーマ現象とは何だったのか?
更新日:2024.09.09
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今では珍しくない国産3ナンバー車ですが、1980年代末頃までは国産3ナンバー車といえば、日産プレジデントやトヨタセンチュリーなど、法人・要人向けのいわゆるVIP車しかありませんでした。
1988年に発売された日産シーマは国産初のパーソナルユース3ナンバー車。爆発的ヒットとなり「シーマ現象」という言葉は流行語大賞にもなりました。
1988年に発売された日産シーマは国産初のパーソナルユース3ナンバー車。爆発的ヒットとなり「シーマ現象」という言葉は流行語大賞にもなりました。
バブル時代を象徴する日本の高級車。日産 シーマとはどんな車?
日産 シーマは日産自動車がセドリック・グロリアとプラットフォームを共有して作った国産初個人向け3ナンバー高級乗用車です。発売は1988年でその年だけで36400台を販売。
さらに、翌年自動車税のシステムが大幅に改正され、それまではナンバーによって金額が決まっていた(5ナンバー=36500円、3ナンバー=65000円)自動車税が排気量別となったことで、3ナンバー車の税額が大幅にダウン。
バブル経済絶頂期とも重なって、世間の注目が一気に3ナンバー車に集まったのです。
さらに、翌年自動車税のシステムが大幅に改正され、それまではナンバーによって金額が決まっていた(5ナンバー=36500円、3ナンバー=65000円)自動車税が排気量別となったことで、3ナンバー車の税額が大幅にダウン。
バブル経済絶頂期とも重なって、世間の注目が一気に3ナンバー車に集まったのです。
日産 シーマはなぜそんなに人気が出たの?
国産車離れした流麗なスタイルとパワフルなエンジン。電子制御エアサスペンションのしなやかな乗り心地など、シーマには他にない魅力がたくさんありました。特にアクセルを踏みこむと、セミトレーリングアームサスペンション車らしく、リヤが静かに一度沈んだあとの暴力的ともいえる加速はたまらない快感でした。
ライバルはクラウンでなく2代目ソアラとされ、ソアラに負けないよう、ターボ付きのVG30DETエンジンを搭載したという経緯があります。小金持ちの30-50代男性に圧倒的な支持を得ました。
ライバルはクラウンでなく2代目ソアラとされ、ソアラに負けないよう、ターボ付きのVG30DETエンジンを搭載したという経緯があります。小金持ちの30-50代男性に圧倒的な支持を得ました。
シーマが発端となった「シーマ現象」とは
シーマの人気に追従するかのようにトヨタ自動車もクラウンにV8モデル(ロイヤルサルーンV8)を追加し、1989年には国産乗用車のトップに君臨するセルシオを発売しました。
当時はバブル期ということもあって納車まで1年以上かかるほどの人気となり、待ちきれないユーザーのために当時アメリカで販売されていたLS400(セルシオベース)が並行輸入される事態が続き左ハンドルながら人気を集めました。
シーマ現象とは、それまで富裕層、法人をターゲットとしていた高級車が、20~30代の若年層にまで浸透し3ナンバーが庶民化していった現象を示す言葉です。本格3ナンバー車時代の幕開けという意味合いもあります。
当時はバブル期ということもあって納車まで1年以上かかるほどの人気となり、待ちきれないユーザーのために当時アメリカで販売されていたLS400(セルシオベース)が並行輸入される事態が続き左ハンドルながら人気を集めました。
シーマ現象とは、それまで富裕層、法人をターゲットとしていた高級車が、20~30代の若年層にまで浸透し3ナンバーが庶民化していった現象を示す言葉です。本格3ナンバー車時代の幕開けという意味合いもあります。
最後の日産 シーマ
初代シーマは爆発的人気となり4年間で12万9000台を販売しました。
その後、91年に発売された2代目はバブル崩壊と重なり、また初代ほどのインパクトがなく今一つの人気でしたが、3・4代目は海外で展開されるインフィニティブランドの最上級車種「Q45」、5代目は「Q70」の兄弟車として、海外でも高い人気を集めました。
ちなみにこの5代目シーマはハイブリッド専用車種となっています。
シーマ現象の発生させた日産シーマは「3ナンバー車に乗りたい」、という人々の望みをうまく捉えていたのでしょうね。
その後、91年に発売された2代目はバブル崩壊と重なり、また初代ほどのインパクトがなく今一つの人気でしたが、3・4代目は海外で展開されるインフィニティブランドの最上級車種「Q45」、5代目は「Q70」の兄弟車として、海外でも高い人気を集めました。
ちなみにこの5代目シーマはハイブリッド専用車種となっています。
シーマ現象の発生させた日産シーマは「3ナンバー車に乗りたい」、という人々の望みをうまく捉えていたのでしょうね。