スバルの全車種を紹介!スバル徹底解説!(1917年~1962年)
更新日:2024.09.09
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自動車メーカーの中でも珍しい、水平対向エンジンという独自のメカニズムを持つスバル。モータースポーツなどでの活躍から国内外で多くのファンを獲得していますが、戦前に飛行機メーカーとして出発した歴史があります。スバルはどのようにして現在の姿となっていったのか、そのはじまりを当時の乗用車のラインアップと共に紹介します。
文・PBKK
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スバルのはじまり
いまから約1世紀前の1917年、群馬県太田町近郊に「飛行機研究所」が設立されました。この研究所は中島知久平という元日本海軍大尉によって設立され、「四型機」や「五型機」と呼ばれる飛行機を陸軍に納入していました。
その後、スポンサーとの対立などの紆余曲折を経て、知久平は研究所の施設をすべて買収。「中島飛行機」として再スタートを切り、航空機や航空機用エンジンを製造する世界有数の飛行機メーカーに発展しました。
その後、スポンサーとの対立などの紆余曲折を経て、知久平は研究所の施設をすべて買収。「中島飛行機」として再スタートを切り、航空機や航空機用エンジンを製造する世界有数の飛行機メーカーに発展しました。
太平洋戦争終結後に自動車メーカーとして再出発
太平洋戦争中、中島飛行は軍用機を製造するメーカーとして日本陸軍や海軍の戦闘機や爆撃機を手掛けてきました。しかし、戦争終結後にGHQから解体を命じられ、群馬県太田、伊勢崎、東京三鷹など、各拠点ごとに複数の会社に分かれてしまいます。
流れが代わったのは1950年代。米ソ対立による冷戦が本格化しアメリカの対日政策が変化したことで、財閥などの戦後解体された企業の再集結に向けた動きが加速します。そして、旧中島飛行機を構成していた5社である富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・東京富士産業・宇都宮車輌は、共同出資により富士重工業を設立。
5社はそれに吸収される形で再集結し、現在のスバルへとつながっていきます。スバルのエンブレムである六連星も、こうした経緯に基づいてデザインされたと言われています。
流れが代わったのは1950年代。米ソ対立による冷戦が本格化しアメリカの対日政策が変化したことで、財閥などの戦後解体された企業の再集結に向けた動きが加速します。そして、旧中島飛行機を構成していた5社である富士工業・富士自動車工業・大宮富士工業・東京富士産業・宇都宮車輌は、共同出資により富士重工業を設立。
5社はそれに吸収される形で再集結し、現在のスバルへとつながっていきます。スバルのエンブレムである六連星も、こうした経緯に基づいてデザインされたと言われています。
スバル 1500(1954年)
富士重工発足前、伊勢崎に本拠を置いていた富士自動車工業では航空機のボディ製造ノウハウを活かし、バスの車体製造を手掛けていました。その技術を応用してつくられたクルマがスバル 1500です。
スバル 1500は「P-1」というコードネームを与えられた試作車であり、市販されることはありませんでした。しかし、実際に乗用車のボディやエンジンを製作したことで数々の技術が蓄積され、現在のスバルの自動車製造の原点となる存在となっています。
スバル 1500は「P-1」というコードネームを与えられた試作車であり、市販されることはありませんでした。しかし、実際に乗用車のボディやエンジンを製作したことで数々の技術が蓄積され、現在のスバルの自動車製造の原点となる存在となっています。
スバル 360(1958年)
試作車であるスバル 1500で培った経験を活かしてつくられた、富士重工初の量産乗用車がスバル360です。スバル 360は軽自動車が模索段階だった1950年代において、最初期に4人が快適に乗車できる室内空間を実現し、さらに価格を低く抑えるなど、日本のマイカーブームやモータリゼーションに大きく貢献したクルマでした。
のちにオープンモデルの「コンバーチブル」や、商用モデルの「コマーシャル」などさまざまな派生車種が登場し、初期の富士重工の人気車種となりました。
のちにオープンモデルの「コンバーチブル」や、商用モデルの「コマーシャル」などさまざまな派生車種が登場し、初期の富士重工の人気車種となりました。
飛行機研究所、そして中島飛行機は、戦前から戦中にかけて世界でも有数の飛行機メーカーでした。しかし、太平洋戦争終結後に解体され、旧中島飛行機系企業も航空機製造が困難となったことから、輸送機器に活路を見出し、それが自動車製造につながりました。
また、戦後解体された旧中島飛行機の1つであった富士工業は、戦後すぐにスクーター(バイク)の開発・製造も行っており、他の各社でも自動車製造に向けた技術を蓄積していたことがスムーズなクルマの開発につながりました。
また、戦後解体された旧中島飛行機の1つであった富士工業は、戦後すぐにスクーター(バイク)の開発・製造も行っており、他の各社でも自動車製造に向けた技術を蓄積していたことがスムーズなクルマの開発につながりました。