Rolling 40's Vol.63 祭りの後

Rolling

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モーターショー2013に行ってきた。前回2011は行っていないので4年ぶりである。モーターショーというと世代的なものなのか、華々しいレーザー光線の演出や遭難しそうなくらいに広い幕張メッセに並ぶ全メーカーのディスプレイを思い浮かべてしまう。

text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.133 2013年12月号]
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Vol.63 祭りの後

Vol.63 祭りの後

または小学生の頃に行った晴海のスーパーカーショーだろう。我が家の写真にも残っているが、カウンタックとストラトスを見たときの感動は今でも忘れない。

「スゲー」と大声を出して駆け寄る半ズボンの少年たちの歓声は今でも耳に残っている。

そんなセピアな昭和の思い出とは無関係に、昨今は東京ビックサイトでの開催がデフォルトとなり、展開もだいぶ小規模になっている。これをエコカー主体だの不景気のあおり云々と言っても始まらないので、私は今の今を素直に楽しむつもりで参加してみた。

場内を半周する間もなく気が付くことは、今の時代というものはどのメーカーも天変地異レベルな新技術や、革新的発想を打ち出すことはなくなっているということだ。そういう意味では、人類レベルでモータリゼーション技術というものが既にある程度、行き着くところまで行き着いているということなのだろう。

どのメーカーのコンセプトカーを見てもSF的にワクワクする未来を感じるものは皆無だ。全ては私レベルでも発想可能な新技術で「革新」ではなく「改善」の範疇である。

一部で話題になっている自動運転、無人運転の実現化は多少気になるものの、同時にそれはモータリゼーションの終焉であるということを忘れてはならない。その技術の向かう先というのはクルマという存在の面白さや新技術が生み出す感動ではなく、単なるインフラ整備の延長なのである。

簡単なことだ。自動運転や無人運転の技術が完全に完成された暁には、クルマというものはエレベーターやエスカレーターと同じ立ち位置に置かれることとなる。完成したとしても果たしてそれが「クルマの技術」なのかという疑念が私には強くある。

しかし技術というモノは誰かが思いついたら立ち止まることはない。色々な問題を徐々にクリアしながら、私たちが足腰の痛みに苦しみ出すくらいの未来には、きっとそれらが当たり前のように首都高を走り回っているであろう。

だがアリの行列のようにお行儀よく整列して自動運転されていくクルマを見て、私たちの孫の世代はそれに感動を覚えたり憧れたりするのかは疑問である。せいぜい、私たちが子供の頃にエレベーターの行き先ボタンを押したがったくらいの騒ぎであろう。

では私たちクルマ好き世代は何を道しるべに、クルマと言う存在を見つめていけばいいのだろう。正直その答えは私の中にはない。

一部の人間はそのスパイラルを予感して迂回的解決方法として、昭和の旧車をレストアしたり改造したりして当時のきらめきを懐古的に楽しんでいる。当然費用度外視だ。実は二輪においては私もその部類の一人であり、25年近く前の「革新的最高速マシン」を新車並にレストアして大事に愛でている。

二輪の世界も四輪同様に技術的に行き詰まってしまい、レースに役に立つような電子技術はかなり発達したものの、それが「楽しい」に直結しているかは疑問がある。だから我々のような輩は、古い時代の革新性を考古学的に掘り起こして盆栽的自己満足に耽溺するしかないという訳だ。その後ろ向きな「オタク性」に発展がないのは分かっているが、実際に食指が動く選択がないのだから仕方がない。

解決策を求めるかのように半日以上もの時間を場内で過ごした。

GTRの半分レース仕様みたいな「改造車」を大メーカーが嬉々として売り出すような倒錯した御時世である。派手なディスプレイの下に答えに通ずる何かが見つかる訳もなかった。ヨーロッパのデザイン性に気持ちを向けても、エコや水素燃料に目を向けても、結局答えは同じである。

気になったのは、イギリスのレーシングマシンに強引にナンバーを付けたようなものだの、超絶的なバイクエンジンを載せた三輪車といったもので、「真っ当なブース」に長居することはなかった。ポルシェの新しいカブリオレターボモデルは死ぬほど欲しいが、都内中古一戸建てくらいの数字の羅列に、若い夢も希望も打ち砕かれるだけであった。 

帰る時間になり表に出ると真っ暗になっていた。東京湾の冷たい潮風を感じながらクルマに乗り込み首都高に上がった。渋滞する環状線を徒歩くらいのスピードで走りながら、芝公園の近くで東京タワーを見つめていると一つの答えが浮かんできた。

「そこのオッサンいい加減にしろ」

昔、自分が一番嫌いな爺の妄言をいつの間にか自分が丸一日叫んでいた。これじゃ絶対にいけない。次に進まなきゃ単なる時代遅れの文句オヤジになってしまう。とにかく来年にでも新しいクルマを買ってみよう。霞が関のトンネルを過ぎて渋滞が解消される頃に私はそう思った。

自分の好みとは関係なく時代は日々前に動いている。嫌いとソッポを向くのなら、独り無知へと向かうだけなのだ。

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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
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