Rolling 40's Vol.76 ヨーロッパの道
更新日:2024.09.09
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仕事で一週間ほど、ヨーロッパをスペインからポルトガルへと旅した。1000キロ以上の行程全てが高速道路と一般道を混ぜた自動車での大移動。車窓を通して見たリアルなヨーロッパの交通事情を話したいと思う。
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.146 2015年1月号]
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.146 2015年1月号]
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- Vol.76 ヨーロッパの道
Vol.76 ヨーロッパの道
ヨーロッパの道を走り出してすぐに感じることは、余計な動きをする変なクルマがいないということだ。老若男女のドライバーが混在するのは日本と同じであるが、みんながみんな普通に走っている。この〝普通〟 ということが一番大事なのである。
日本人の運転技術が世界的に見て低いとは言わない。だが実際に見てきたヨ
ーロッパのドライバーたちは、日本のドライバーとは少し違っていた。技術の上手い下手ではなく、その道に合わせた運転を理解しているか否かの差だ。
モータリゼーションの歴史の違いなのか、国民性の成熟度なのかは分からないが、ゆっくり走るべき場所はゆっくり、速度が安全に上げられる区間は、老若男女にかかわらずしっかり速度を上げている。
都市部の朝の渋滞も経験したが、日本のように意味の分からない渋滞などは少ない。渋滞している理由がちゃんと分かる渋滞なのだ。また地方の広い国道などは制限速度も高く、果てしなく長いバイパスのような状態だ。そのように潤滑に流れている道で、取り締まりのための取締りをしている警察を見たこともなかった。
また高速道路から見えた田舎道は、驚くほど未舗装な部分が多かった。雨が日本よりはるかに少ないという気候もあると思うが、余計なアスファルト化はないに等しい。二輪オフロードを嗜む私が見る日本の山道は、鹿と猿しか通らないような山奥の道でもアスファルトが敷いてあったりする。
私はそんな道を走る度に、そこに使われていった何十億という札束の燃えカスを感じる。山は山で人間が入り込む必要はなく、ありのままに放っておけば良いのだ。
都市部の石畳の路地裏も走った。降りて実際に触ったりもしたが、その手触りや見た目は過ぎていった幾つもの時間を感じさせ、道そのものがそれぞれの町の財産だと感じた。こちらはきっとアスファルトより管理維持がコストも手間も大変なのは一目瞭然。しかし伝統的な景観を守るための必要経費だと大事に守っているのだろう。
日本でも京都など一部の地域では似たようなものを見ることはあるが、大抵の街はアスファルトを敷くことに固執しているのが現実だろう。それが一番早くお金を動かす理由にできるからだ。その町がどういう歴史を持ち、その歴史をどう伝えていくかなどは関係ない。
最近になって日本でも議論になった、江戸幕府から続く歴史的な建造物である日本橋とその上の首都高の景観問題。今となっては感のある話だが、子供でも分かる愚行を平気でしてしまうような日本なのだから、無理もないと言えば無理もないのか。
もう一つ、一番感心させられたのは年配の方の運転だった。あちらではオートマに乗る方はまだまだ少ないらしく、かなり御高齢と思われるような女性の方でもマニュアルを普通に運転している。
そのせいか日本的なのんびり運転をする人はほとんど見なかった。石畳の狭い路地を小さなルノーなどでキビキビと走り回っている光景を何度も目にした。
モータリゼーションの歴史が日本よりはるかに長いヨーロッパである。元々はマニュアルしかなかったので、男女共に、彼らが長年慣れ親しんできたマニュアルを今でも操作するのは当たり前のことである。反対にそれが出来なくなってしまったら、クルマを運転するのを自主的にやめるというような意識でもあるらしい。
それでもやはり高級車などはオートマが当たり前になってきているとも聞く。つまりオートマ一辺倒になっている日本とは違い、そういう選択肢が幾つもあるということだろう。
本来なら北米より、ヨーロッパと似た道路が多い日本である。日本もオートマ一色ではなくマニュアル車もたくさんあって良いとは思うが、どうして北米的にオートマ車が広がったのだろうか。
ひとつ思いつくことは渋滞である。北米の直線的な道路事情から生まれ発達したオートマが、日本の渋滞事情にマッチしたということかもしれない。ドライビングを楽しむ云々の前に、前に進んで止まればそれで良しの、日本的モータリゼーションにはまさにオートマは必要不可欠であろう。
そういう意味では運転する意味や楽しみをヨーロッパの方が大事に思っているのかもしれない。日本でもそういう楽しみを大事にする方は多々いるが、クルマオタク的な色が強くなり過ぎる。普通の方が普通に運転を楽しんでいるのを見られるのはやはりヨーロッパならではであった。
モータリゼーションの熟成と並行する話であるが、スペインでは一流バイクレーサーが有名サッカー選手と同等のリスペクトを受ける。かの天才マルク・マルケスもスペイン人である。
そんなスペインで私が何度も言われたことは。
「日本は世界一のバイク作りの技術をを持っているのに、どうしてモトGPでは日本人ライダーは活躍していないんだ…」
こっちが聞きたいよ、と上手くスペイン語で返せなかったのも、日本人の語学力の無さで、まったく情けないところである。
日本人の運転技術が世界的に見て低いとは言わない。だが実際に見てきたヨ
ーロッパのドライバーたちは、日本のドライバーとは少し違っていた。技術の上手い下手ではなく、その道に合わせた運転を理解しているか否かの差だ。
モータリゼーションの歴史の違いなのか、国民性の成熟度なのかは分からないが、ゆっくり走るべき場所はゆっくり、速度が安全に上げられる区間は、老若男女にかかわらずしっかり速度を上げている。
都市部の朝の渋滞も経験したが、日本のように意味の分からない渋滞などは少ない。渋滞している理由がちゃんと分かる渋滞なのだ。また地方の広い国道などは制限速度も高く、果てしなく長いバイパスのような状態だ。そのように潤滑に流れている道で、取り締まりのための取締りをしている警察を見たこともなかった。
また高速道路から見えた田舎道は、驚くほど未舗装な部分が多かった。雨が日本よりはるかに少ないという気候もあると思うが、余計なアスファルト化はないに等しい。二輪オフロードを嗜む私が見る日本の山道は、鹿と猿しか通らないような山奥の道でもアスファルトが敷いてあったりする。
私はそんな道を走る度に、そこに使われていった何十億という札束の燃えカスを感じる。山は山で人間が入り込む必要はなく、ありのままに放っておけば良いのだ。
都市部の石畳の路地裏も走った。降りて実際に触ったりもしたが、その手触りや見た目は過ぎていった幾つもの時間を感じさせ、道そのものがそれぞれの町の財産だと感じた。こちらはきっとアスファルトより管理維持がコストも手間も大変なのは一目瞭然。しかし伝統的な景観を守るための必要経費だと大事に守っているのだろう。
日本でも京都など一部の地域では似たようなものを見ることはあるが、大抵の街はアスファルトを敷くことに固執しているのが現実だろう。それが一番早くお金を動かす理由にできるからだ。その町がどういう歴史を持ち、その歴史をどう伝えていくかなどは関係ない。
最近になって日本でも議論になった、江戸幕府から続く歴史的な建造物である日本橋とその上の首都高の景観問題。今となっては感のある話だが、子供でも分かる愚行を平気でしてしまうような日本なのだから、無理もないと言えば無理もないのか。
もう一つ、一番感心させられたのは年配の方の運転だった。あちらではオートマに乗る方はまだまだ少ないらしく、かなり御高齢と思われるような女性の方でもマニュアルを普通に運転している。
そのせいか日本的なのんびり運転をする人はほとんど見なかった。石畳の狭い路地を小さなルノーなどでキビキビと走り回っている光景を何度も目にした。
モータリゼーションの歴史が日本よりはるかに長いヨーロッパである。元々はマニュアルしかなかったので、男女共に、彼らが長年慣れ親しんできたマニュアルを今でも操作するのは当たり前のことである。反対にそれが出来なくなってしまったら、クルマを運転するのを自主的にやめるというような意識でもあるらしい。
それでもやはり高級車などはオートマが当たり前になってきているとも聞く。つまりオートマ一辺倒になっている日本とは違い、そういう選択肢が幾つもあるということだろう。
本来なら北米より、ヨーロッパと似た道路が多い日本である。日本もオートマ一色ではなくマニュアル車もたくさんあって良いとは思うが、どうして北米的にオートマ車が広がったのだろうか。
ひとつ思いつくことは渋滞である。北米の直線的な道路事情から生まれ発達したオートマが、日本の渋滞事情にマッチしたということかもしれない。ドライビングを楽しむ云々の前に、前に進んで止まればそれで良しの、日本的モータリゼーションにはまさにオートマは必要不可欠であろう。
そういう意味では運転する意味や楽しみをヨーロッパの方が大事に思っているのかもしれない。日本でもそういう楽しみを大事にする方は多々いるが、クルマオタク的な色が強くなり過ぎる。普通の方が普通に運転を楽しんでいるのを見られるのはやはりヨーロッパならではであった。
モータリゼーションの熟成と並行する話であるが、スペインでは一流バイクレーサーが有名サッカー選手と同等のリスペクトを受ける。かの天才マルク・マルケスもスペイン人である。
そんなスペインで私が何度も言われたことは。
「日本は世界一のバイク作りの技術をを持っているのに、どうしてモトGPでは日本人ライダーは活躍していないんだ…」
こっちが聞きたいよ、と上手くスペイン語で返せなかったのも、日本人の語学力の無さで、まったく情けないところである。
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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968