チャレンジする女性たち

アヘッド チャレンジする女性たち

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「1日1日を新鮮に生きていくことができたらどんなに素晴らしいことだろう。朝起きてから夜寝るまで、一瞬一瞬が生きていることの実感であふれていたらどんなに楽しいことだろう。私はできることならそんな生き方をしてみたかった。」

これは堀ひろ子自身が、1979年の著書『オートバイからVサイン』の中に書き残した言葉だ。思えば彼女は生涯、その言葉を貫いた女性(ひと)だった。

text:まるも亜希子・若林葉子・竹岡 圭・春木久史 photo:原富治雄・西巻 裕・稲垣正倫 [aheadアーカイブス vol.171 2017年2月号]
Chapter
伝説のカリスマライダー 堀ひろ子
堀ひろ子/Hiroko Hori(1949〜1985年)
三好礼子が輝き続けている本当の理由
三好礼子/Reiko Miyoshi
モータージャーナリスト竹岡 圭の本気
竹岡 圭/Kei Takeoka
4人の子を持つ母、ダカールを目指す~井手川まみ
井手川まみ/Mami Idegawa

伝説のカリスマライダー 堀ひろ子

東京に生まれ、ごく普通の女の子として生きてきた彼女の想いを刺激し、一気に加速させていったのは、18歳の頃に出逢ったバイクだ。時は1960年代後半。日本にはバイクブームが押し寄せてきていたが、女性ライダーはほとんどいなかった。とりわけ、当時のバイクジャーナリストや編集者たちが認めるほど、しっかりとバイクを乗りこなす実力に加え、とびきりの美貌に恵まれた彼女は、瞬く間に一目置かれる存在となった。

そんな彼女が最初の大きなチャレンジに旅立ったのは、1975年。ホンダ「CB750FOUR」を駆っての世界一周ツーリングだ。まだ海外旅行さえ珍しい時代に、約7ヵ月をかけて25ヵ国を通過し、走行距離は約4万㎞にのぼる壮大な旅だった。

どこの国でもハプニングの連続ながら、持ち前の明るさと女性らしい気遣いに助けられて完走した。でもこの旅がもたらしたものは、その達成感ではなかった。彼女にさらなるチャレンジを決意させていたのである。

それは旅の途中にたまたま立ち寄った「ル・マン1000㎞耐久レース」で、参戦していたフランス人女性ペアの見事な走りに衝撃を受け、日本で本格的にロードレースに出たいとの想いだった。しかしそこには高い壁があった。「ロードレースへの参加は男子に限る」という一文が、MFJ(日本モーターサイクル協会)の規則あったのだ。

そこで彼女はまず鈴鹿サーキットに通って地道な練習を積み、協会にかけあって'76年の「鈴鹿200マイルレース」にテストケースとして出場を許された。その成績次第で、正式に女性の参加が認められるかどうかが決まるという、重いプレッシャーを背負っての出場だった。

そして緊張の中、8位完走という堂々たる成績を残す。今、女性が当たり前のようにレース参戦できるのは、このチャレンジがあったからだ。

そこから日本のロードレース史には、堀ひろ子の名がいくつも刻まれていった。自らのためだけでなく、女性だけのレース「パウダーパフ」を日本で初めて主催し、ほかの女性ライダーたちにも門戸を開いたのは、彼女が海外のバイク先進国を旅し、女性たちが自由にバイクを楽しむ姿を目の当たりにしてきたからだろう。

また、抜群のセンスを活かしてウェアやグローブなどをプロデュースし、オリジナルのモータースポーツファッションショップ「ひろこの」をオープン。トレードマークのペガサスとリップマークで、ライダーたちのファッションを磨くことも、彼女のチャレンジのひとつだった。

そしていつしか彼女は、遠い遠い大地へと思いを馳せるようになる。「いつか、サハラを駆けてみたい。砂漠の夕陽が見てみたい」

'82年、彼女はスズキ「DR500」とともに、アフリカ大陸に広がる未開の地、サハラ砂漠に立っていた。北から南へ一直線に縦断するという、命がけの冒険だ。熱に灼かれ、砂にまみれ、水も食料も切り詰め、ただただ前へと進む。まさに一分一秒を「生きること」に費やした。そんな極限の中では男も女も関係ない。彼女はもはや女性という枠を超え、人間・堀ひろ子として命の輝きを届けてくれたように思う。

'85年4月。彼女が最期に旅立ったのは、36歳の時だった。長い長い月日が流れた今でも、ペガサスの翼を背に、ヘルメットからロングヘアーをなびかせる彼女の姿は鮮やかだ。それを見つめる私たちに、いくつもの夢と勇気を手渡すかのように。


堀ひろ子/Hiroko Hori(1949〜1985年)

女性ライダーの草分け的存在。1976年当時、女人禁制だったロードレース界に自ら出場し、女性参戦の道を切り拓いた。
レースとともに、世界一周ツーリング(1975年)、サハラ砂漠縦断(1982年)、女性向けバイク用品店「ひろこの」の経営など精力的に活躍。著書も多数残している。


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text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。
ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。
国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。


三好礼子が輝き続けている本当の理由

クルマやバイクのど真ん中世代にとって、三好礼子は永遠のヒロインである。今年の暮れに還暦を迎えようともそんなことは関係ない。……ということを、この業界にいると実感させられる。ど真ん中世代から外れている私は気軽に三好礼子と言葉を交わせるが、特に女性の先輩諸氏が三好礼子に相対するとき、その緊張感が伝わってくる。

三好礼子の魅力とはこの写真の笑顔に尽きる、と思う。それはもう一人のカリスマ、堀ひろ子とは対照的だ。堀ひろ子の美しさは自らに強く美しくあることを課し、見られることによってさらに磨かれていった。女性であることによってぶつかる社会との軋轢を〝壁〟であると見傚し、その壁と闘って、女性特有の甘さを自分にも人にも許さず、自ら先頭に立って、女性ライダーの道を切り拓いていった。

三好礼子はただただ自然体だ。それゆえに「礼子さんのようになりたい」、いや「礼子さんのようになら、なれるかも」と、この身近なヒロインに憧れてオートバイに乗るようになった女性は多かった。

しかし三好礼子は一筋縄ではいかない。「礼子さんに憧れて」バイクに乗り、もうちょっとで手が届きそうになったとき、三好礼子は蝶のようにひらりと身を交わし、次のステージへと飛び立ってゆく。バイクからラリーへ、ラリーから農業へ、農業からトレイルランニングへ、と。

多分、三好礼子は祭り上げられることが得意ではないのだ。群れることも好きではない。あの親しみやすい笑顔は一方で、「私の道は私が決める」という激しい意思表示の裏返し。私はいつもそう感じ、そういう三好礼子を尊敬するとともに怖れてもいる。本当はこわい人なのだと思う。

つい最近会ったとき、彼女はこう言った。「高速道路を走っていたらね、目の前に富士山がドン! 月がドン! 月が真っ赤で、こーんなにでっかいの。こうであらねば。こういうふうに生きなければと思ったわ。人生、これからね」

三好礼子はこれからも前へ前へと走り続けるだろう。幾つになろうと、その輝きが失われることはない。


三好礼子/Reiko Miyoshi

1957年生まれ。
18歳のときに日本一周バイクツイーリングを敢行し、雑誌に発表した旅日記で注目を集める。片岡義男の小説の表紙を飾るなど一世を風靡した。
31歳でパリ・ダカールラリーに挑戦し、3度目にして日本女性で初めて完走。現在は松本市でカフェを営みながら自然と動物とともに生活。
トレイルランニングに情熱を注ぐ日々を送っている。地球ランナー、なのである。


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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。
2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。


モータージャーナリスト竹岡 圭の本気

「2017年、全日本ラリー選手権に参戦します!」私の中では、ずいぶん大きなチャレンジです。これまで素人プライベート参戦ながら、レース畑にいた私ですが、何を隠そう、ラリーへの参戦は20年来の夢だったんですよね。

とはいえ、周りの方々は「この年齢で自分の貯金をつぎ込んでラリーをやるなんて考えられない。老後のために取っておいた方がいいんじゃないの?」と心配顔。当たり前だと思います。

だって、もうドライバーとして育ててもらう年齢でもなく、実績も何もない中で、最終的に私が出した結論は「自分でラリーレーシングチームを立ち上げる」という方法だったんですから。

もちろん資金的にはかなり不足気味でして、現在周りの方々に応援をお願しているところではありますが「究極のクルマ遊びとしてこれまでモータースポーツに携わってきたのだから、いちばんやりたかったラリーをやらなきゃ、きっと後悔することになる。おこがましく言わせてもらえば、こんな小さな島国に自動車メーカーが10社以上もあるというのに、クルマやモータースポーツが文化として成熟していないのは寂しすぎる。

私ひとりの力じゃ何もできないのはわかっているけど、これまで楽しませてもらったクルマやモータースポーツ業界に、ほんの少しでも何かご恩返しできれば、きっとそれはステキなこと」なんて具合に、自分への言い訳をしつつ、夢を叶えようとしているわけです。

とりあえず完走する! を目標に、現在、いろいろな方々の多大なるご協力を得ながら準備の真っ最中でして、私に巻き込まれてしまった皆様方には「奉仕の気分になってきた…」と、嘆かれるくらいご迷惑の掛け通しですが「竹岡 圭の夢を一緒にみてください。

そして一緒に楽しんでください」と、夢を語り続ける日々。やることが本当にたくさんあって、うっかりドライバーだということを忘れそうなくらい大変ですが、その分やりがいはテンコ盛りです。何をいまさら青臭いこと言ってんの〜と、言われるのは百も承知で、遅咲きの青春を駆け抜けてみたいと思います。


竹岡 圭/Kei Takeoka

モータージャーナリスト。日本自動車ジャーナリスト協会(A.J.A.J)副会長。
日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員として活躍する。BS日テレ『愛車遍歴』にレギュラー出演。
今、もっとも人気のある女性ジャーナリストの一人である。2016年後半からいよいよ長年の夢だったラリーに本格的にチャレンジしている。


4人の子を持つ母、ダカールを目指す~井手川まみ

1歳を筆頭に、双子を含む、4人の男の子の母である。
「もう本当にゲンキで、軍隊かよ、って感じですよ。わかります?!」と笑って見せる。きっとこの人は、家族にとって太陽のような存在なのだろうと想像した。

当時からのバイク好きには相当の有名人でもある。6歳からオフロードバイクに親しみ、1990年、16歳でモトクロスのレディスチャンピオンになった。高校卒業後はモータースポーツジャーナリストとして国内外で活躍。その中で出会ったマウンテンバイクのレースでも、ワールドカップを転戦するトップライダーとして活躍した。

2005年、同じダウンヒル選手の井手川直樹と結婚。競技の一線を退いた。

「今できることに全身全霊を傾けたいという気持ちがあったので、当時は、出産と子育てにとにかく一生懸命でした。競技の代わりに怪我の心配がない、美容の仕事もしていました」 

子供を産んで母親としてこれを育てること楽しまないのは損だという思いもあった。母親としての生き方とそれまでの自分と、どうやって折り合いをつけるのか。

上に兄と姉を持つ末っ子。大好きな家族からたっぷりと愛情を注がれて育った。だから子供は3人欲しいと思っていた。願いはかなった。しかも3度目に授かったのは双子。喜びは倍増だったという。

「30歳で長男が生れて以来、子育てに夢中だった。でも、なにかやっていないことがあると、ひっかかっていたんだと思います」。
自分らしく生きているつもりだったのが、どこかで無理をしていたんじゃないかと振り返る。ある日、ストレス性の体調不良に倒れてしまった。

それでも明るい家族に囲まれて毎日は幸せだった。ある時、子供たちが家に貼ってあるポスターに気がつく。このかっこいいライダーはママじゃないの?

「どうしてママは走らないの? 走ればいいのにって。へえ、そんなふうに思ってくれるんだ。面白く感じて、私が出演したテレビ番組のビデオなんかも見せたら、また走ればいいのに、また走ってよ、って言ってくれて。え、やっていいの? そうか、私、やっぱり走りたいんだな、って」

前後して、自分の人生を振り返る機会があった。これまでいろいろな目標、夢に向かって走ってきた。ジャーナリストとして仕事をすること、世界中の仲間と競技を通じて交流すること、結婚し、3人の子供を得ること(結果4人になったが!)、やり残していることはないだろうか…。

そうだ、ダカールラリーがあった。子供の頃に憧れた、ダカールのライダーになること。私はあれを目指すんだ。

「そう、背中を押してくれたのは子供たちでしたね。ママ、また走ってよ、って。父の背中を見て育つ、ってよく言いますよね。それが母親だっていいのかもしれない。私が自分らしくがんばって生きている姿を見せることができるなら」

そこからの日々はダカールに向けて真っ直ぐに続いているかのようだ。モトクロスライダーとしての基礎的なスキルは彼女にとって大きな資産だが、ブランクは長い。

2016年は、まず全日本エンデューロ選手権にフル参戦し、ライディングのカンを取り戻し、同時に長距離・長時間の走りを鍛えた。2017年はさらに国内ラリーに参戦、モンゴルのラリーにもエントリー、ダカールへ向けたステップを一段上がるつもりだ。肉体改造にも取り組んでいる。ラリーマシンをしっかり乗りこなせるよう体重を10㎏増やす。

「自分らしさって人それぞれで、何もアウトドアでばりばり活動することを指すわけではないけれど、私はやっぱりバイクが大好きで、走ることが大好き。目標に向かって一生懸命考えて、がんばるのが好き。自分らしく生きることの良さを、子供たちに見せたいと思っているんです」

目標はダカール2019での完走。

「子供たちも連れて行く計画です。お金はかかりますけど、ママががんばっている姿を見せるのが目標なので!」


井手川まみ/Mami Idegawa

1974年生まれ。埼玉県出身。
1990年から3年連続モトクロスレディスクラスで全日本チャンピオン獲得。高校卒業後はモータースポーツジャーナリストに。取材をきっかけにマウンテンバイクのダウンヒルレースに取り組み、全日本チャンピオン、アジア選手権優勝、またワールドカップも転戦した。

結婚を機に競技の一線を退いた。現在はアスリートの育成、マネージメント、また英語講師を職業とするほか、NPO法人日本自転車環境整備機構の理事として、自転車のヘルメット着用義務化の推進や子供の自転車スキルアップ運動などの啓蒙活動に取り組んでいる。旧姓増田。


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