自動車ホイールの50年の変革〜エンケイホイールの歩み
更新日:2024.09.09
※この記事には広告が含まれます
エンケイは世界トップクラスのアルミホイールメーカーだ。海外進出も積極的に進めているが、 〝メイド・イン・ジャパン〟に対するこだわりが支持される理由のひとつだ。
text:世良耕太 [aheadアーカイブス vol.177 2017年8月号]
text:世良耕太 [aheadアーカイブス vol.177 2017年8月号]
自動車ホイールの50年の変革〜エンケイホイールの歩み
自動車の生産量は変動がある。予想以上に売れれば増産体制を敷くが、部品メーカーが要請に応えられなければ、増産は実現しない。そんなとき、国内に生産拠点があればフレキシブルに自動車メーカーの増産要請に応えることができる(もちろん余力があることが前提だが)。それが、エンケイが国内の自動車メーカーに支持される理由のひとつだ。
もちろん、それだけではない。理由の説明に移る前に歴史を振り返っておこう。設立は1950年(昭和25年)だが、設立当初からアルミホイールを作っていたわけではなかった。
それはある意味当然で、モータースポーツで使われたことで脚光を浴びたアルミホイールが市販車に使われ出すのは、60年代に入ってからだからだ。
もちろん、それだけではない。理由の説明に移る前に歴史を振り返っておこう。設立は1950年(昭和25年)だが、設立当初からアルミホイールを作っていたわけではなかった。
それはある意味当然で、モータースポーツで使われたことで脚光を浴びたアルミホイールが市販車に使われ出すのは、60年代に入ってからだからだ。
エンケイのルーツは中島飛行機にさかのぼる。初代会長を務めた鈴木建次は中島飛行機の鋳物技師だった。'43年に中島飛行機の鋳造部門とも言える中島航空金属・天竜製造所が浜松市に開設され、鈴木もそこに赴任。ところが、間もなく終戦を迎え会社は解散する。戦後は鋳物の技術を使い、生活用品である湯たんぽや鍋、釜などを作って糊口をしのいだ。
その湯たんぽに、ホンダの創業者である本田宗一郎が目を付けたエピソードが残っている。原動機付き自転車の燃料タンクに湯たんぽが使えないかと持ちかけられたのだという。
この申し出は実現には至らなかったが、エンケイの母体である遠州軽合金('89年から現社名)は、この商談もあってホンダとの取引が生まれ、バイク用エンジン部品の鋳造を行うようになった。のちに富士重工業(現スバル)との取引も始まった。
60年代後半に入り、転機が訪れる。自動車メーカーからの要望で、大規模な設備投資を迫られることになったのだ。これを受け、社長の鈴木は次期主力製品を模索する必要性を感じた。
そして、社長の命を受けた社員がアメリカで見つけてきたのが、アルミホイールだったのである。'66年に試作を開始し、'67年に生産を開始。アメリカに輸出した。
'70年に国内アフターマーケット用アルミホイールの生産を開始。'78年にOEM供給が始まる。生産量は順調に伸び、2輪用も含めて年間2400万本体制になったわけだが、要所で革新があったからこそ現在がある。
その湯たんぽに、ホンダの創業者である本田宗一郎が目を付けたエピソードが残っている。原動機付き自転車の燃料タンクに湯たんぽが使えないかと持ちかけられたのだという。
この申し出は実現には至らなかったが、エンケイの母体である遠州軽合金('89年から現社名)は、この商談もあってホンダとの取引が生まれ、バイク用エンジン部品の鋳造を行うようになった。のちに富士重工業(現スバル)との取引も始まった。
60年代後半に入り、転機が訪れる。自動車メーカーからの要望で、大規模な設備投資を迫られることになったのだ。これを受け、社長の鈴木は次期主力製品を模索する必要性を感じた。
そして、社長の命を受けた社員がアメリカで見つけてきたのが、アルミホイールだったのである。'66年に試作を開始し、'67年に生産を開始。アメリカに輸出した。
'70年に国内アフターマーケット用アルミホイールの生産を開始。'78年にOEM供給が始まる。生産量は順調に伸び、2輪用も含めて年間2400万本体制になったわけだが、要所で革新があったからこそ現在がある。
▶︎日本メーカーとして初めてF1グランプリにホイールを供給したのもエンケイである(1986年)。F1という究極の世界で、エンケイは長年に渡って、ホイールに求められる「高強度を備えた軽量化」を実現してきた。その技術力はOEMや市販製品にもいかんなく発揮されている。現在はF1の他、スーパーGT、ダカールラリー等にもホイールを供給している。
ひとつは、現社長である鈴木順一の働きかけによって実現したMAP(Most Advanced Production)と呼ぶ製法を導入したことだ。従来は鋳造→熱処理→加工を工程ごとに行っていたため生産に数日を要していたが、'92年に導入したMAPは各工程を一貫して生産することで、完成までの処理時間を大幅に短縮した(4〜5時間)。
小ロットでの生産が可能になったため、海外進出を後押しすることにもつながっている。
その後、ホイールに大径化の波がやってくると、エンケイは独自の成形方法であるMAT(Most Advanced Technology)を導入した。
もともと〝鋳造〟はデザインの自由度が高いという利点があるが、エンケイの場合、従来の製法ではディスク面に対してリム部の強度が出にくいという悩みがあった。
リム部を鍛えながら引き延ばして(フローフォーミング加工)成形するMATでは、軽量化はもちろん、リム部でも鍛造に匹敵する強度を獲得することに成功。これによってエンケイはディスク面、リム部の両方で、ホイールに求められる「強くて軽い」性質を実現するに至った。
ただし製法が革新的だから強く軽くできたと結論づけたのでは、説明不足になる。肝心なのは設計力だ。元になるのは場数である。これには、モータースポーツで踏んだ場数も含まれている。
場数を踏むと、ホイール全体でどのように応力を分散させればいいか、勘どころが即座にわかり、最適な設計を導き出すことができる。設計力の違いは、走りに現れる。
エンケイのアルミホイールは軽くて強いだけでなく、〝速い〟アルミホイールなのだ。世界のマーケットで支持されるポジションを維持するため、MAPやMATに次ぐ革新的な生産技術が導入を控えている。
技術の進化にゴールはない。それを体現しているのがエンケイであり、だからアルミホイール業界で確固たる地位を築いているのである。
MAT PROCESS エンケイ独自のリム成形方法。
▶︎MAT PROCESS処理前(上)と処理後(下)の金属組織の変化。
▶︎鋳造工程後、リム部を鍛えながら引き延ばす(フローフォーミング加工)ことにより、リムは鍛造に匹敵する高強度となる。同時に自由度の高いデザインを施すことも可能。
ENKEI ▶︎自動車、オートバイ用アルミホイール、及び精密アルミホイール部品の製造メーカー。創設は1950年。旧中島飛行機金属天竜製作所のOBらが軽金属鋳造製品の製造に着手したことが現在のエンケイの源流となっている。
1967年、まだ日本にアルミホイールの存在すら知られていなかった頃にアルミホイールの製品化に成功し、アメリカへの輸出を開始。その後、技術革新を繰り返しながら、現在は海外9ヵ国の拠点を含めたグループ全体で年間約2,400万本を生産し、日本国内はもとより欧米、アジア、オセアニアなどグローバルな市場でホイールを提供。世界トップクラスのホイールメーカーである。
1967年、まだ日本にアルミホイールの存在すら知られていなかった頃にアルミホイールの製品化に成功し、アメリカへの輸出を開始。その後、技術革新を繰り返しながら、現在は海外9ヵ国の拠点を含めたグループ全体で年間約2,400万本を生産し、日本国内はもとより欧米、アジア、オセアニアなどグローバルな市場でホイールを提供。世界トップクラスのホイールメーカーである。
-------------------------------------
text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/
text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/