Pay it forward 堀ひろ子からの贈り物

アヘッド 堀ひろ子からの贈り物

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若いとき、人は、誰かから何かを与えられても、それを受け止めることで精一杯。大切なものを与えてくれたその人にお返しできるのは稀なこと。だから人は年齢を重ねると、次の世代に自分の受け取ったものを手渡そうとする。これはそんな女性たちの物語である。

text:若林葉子 photo:原 富治雄 [aheadアーカイブス vol.116 2012年7月号]
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Pay it forward 堀ひろ子からの贈り物
「甘えん坊で寂しがり屋。裁縫が上手で、 結婚式には手縫いの ウェディングドレスで祝ってくれました」
「どう転んでもひろ子さんみたいにはなれない。 だから、私は私のやり方で ひろ子さんのスピリットを伝えたいと思ってるんです」

Pay it forward 堀ひろ子からの贈り物

今から30年以上も前、1981年の鈴鹿4時間耐久レースに、チェッカーフラッグを受けて喜ぶ2人の女性の姿があった。伝説のライダー、堀ひろ子と、パートナーの今里(現・腰山)峰子である。日本初の女性ペアチームとして注目されていた。

日本の女性レーシングライダーの歴史は堀ひろ子から始まった、と言って間違いないだろう。もちろんバイクに乗る女性はそれまでにもいたのだが、男性一色だったレースの世界で、〝女性ライダー〟という存在を認めさせたのは堀ひろ子その人であった。実際、1976年まで日本のバイクレースを統括するMFJの規則書には「参加は健康な男子に限る」という文言が明記されていたのである。その1文を自らの実力で規則書から削除させたのが堀ひろ子だということを、今、どのくらいの女性ライダーが知っているだろうか。

女性ライダーも、男性ライダーに伍して闘える。それを証明して見せた以上に、日本のバイク史において重要だと私が考えるのは、堀ひろ子が「バイクはカッコイイ」ことを多くの人々の心に植え付けたことだ。

現役時代の彼女を見たことのない私だが、写真だけでも十分にそのかっこよさは伝わってくる。バイクにまたがる堀ひろ子の美しさ。バイクで走る堀ひろ子のしなやかさ、そして力強さ。彼女とともにあるバイクの輝き。男女を問わず、日本中のライダーが堀ひろ子に憧れ、バイクに魅せられた。
▶︎バイクは美しくかっこいいけれど常に過酷でもある。堀ひろ子にとって、明るく、素直で、一生懸命な峰子さんは、心を許せる妹のような存在であったに違いない。


「女性ペアチームの監督として、今年の4耐に出ることになりました!」
 腰山峰子さんからそんな電話をもらったのは今年の4月のことだ。峰子さんから送られてきた企画書を開くと、そこには「2012年パウダーパフ・レーシング 鈴鹿4時間耐久ロードレース参戦計画書」とあった。パウダーパフ―チーム名にこの名を冠していることに、私は峰子さんの並々ならぬ決意を感じた。

〝パウダーパフ〟とは、堀ひろ子が1978年に立ち上げた女性だけのバイクレースの名である。この年の日本グランプリの前座として開催され、ヘルメットとツナギさえあれば、バイクは主催者が用意してくれて、費用も負担してくれるという女性ライダーにとっては夢のようなレースだった。峰子さんがこの年、鈴鹿サーキットで開催されたパウダーパフに参加したのは18歳の時。このときパドックで簡単な言葉を交わしたのが、実際の堀ひろ子と会った最初だった。

しかし女性だけのレースを主催するためにあれだけ奔走したのに、わずか2年で堀ひろ子がパウダーパフを解散したことは周囲を驚かせた。

「甘えん坊で寂しがり屋。裁縫が上手で、 結婚式には手縫いの ウェディングドレスで祝ってくれました」

その理由は後に堀ひろ子自身が著書『オートバイのある風景』で語っている。以前本誌でも紹介した(vol・94「堀ひろ子という友人」(執筆・まるも亜希子))が、あえてもう一度抜粋したい。

「これだけのおぜん立てをしなければ集まらないようなレースなら、つづけても無意味だと思ったからだ。レースは各人にヤル気がなければできるものではないし、安易な気持ちで参加することは、とても危険だ。そこでは男も女もないはず。女だからといっていつまでもぬるま湯につかり、そういう環境が保証されなければつづけることができないのならやめるべきだ、と考えた」

重い言葉であり、レースをするのでなくても、女性なら誰でも心に刻むべき言葉だと思う。
話が逸れてしまったが、そういう事情もあり、パウダーパフという名は、長きにわたって、堀ひろ子とともに伝説として語られるばかりだったのだ。

だから、自分に対しても他人に対しても厳しく、妥協を許さない堀ひろ子が、4耐のパートナーとして選び、後には共にバイクでサハラ砂漠8000㎞を縦断した峰子さん以外に、パウダーパフを名乗れる人はいない。そしてパウダーパフを名乗ることの重さを誰より知っているのもまた峰子さんなのである。

「結婚したその年にひろ子さんが亡くなって、それ以来あまり思い出すことはなかったんです、なんででしょうね。家の商売のこともあったし、子供も生まれて、他のことを考える余裕もなかったし、それに思い出すとやっぱり辛くなるから、無意識のうちに封印してたのかも知れませんね」。ライダーであった腰山武史さんと結婚してから、峰子さんはあんなにも打ち込んでいたバイクからきっぱりと距離を置いた。距離を置くというはっきりとした意志があったわけではなく、当たり前のように妻と母親であることに没頭した。子どもを育て、子供と遊ぶことがバイクに取って代わった。PTAも喜んで引き受け、ボーイスカウトのリーダーにもなり、消防自動車が大好きだった長男を連れて、カナダにも行った。宿も決めずに旅をして、町ごとにひとつある消防署を訪ね、大喜びする長男と一緒に写真を撮った。

この話を聞いたとき、私は「何という行動力」と半ばあきれ、半ば驚いた。まだ小さな子どもを連れて、何の当てもなく、ただ消防署を訪ねて歩くなどという旅はなかなかできるものではない。峰子さんと言えば、これまで堀ひろ子のパートナーとしてだけ記憶され、その明るく、屈託のない人柄に隠れてなかなか気づかれないが、もともとリーダーの資質のある人なのだ。でも同時に、人に合わせることができ、誰かを立てて、自分を引くこともできる。

サハラ縦断のとき、旅の初めから堀ひろ子は大きなことをやり遂げなければいけないプレッシャーに苛まれていた。ライダー2人とサポートカー部隊2人。4人の間にはぴりぴりとした空気が流れていた。当時、サポートカーを運転していた菅原義正は言う。「峰子ちゃんは、随分我慢していたんだよ」と。今年の5月、峰子さんにお会いしたとき、「確かに、あのとき、私は我慢してたんですね。でもひろ子さんの夢の大きさも、賭ける思いも知っていたから、ここで私が何か言ったらすべてが台無しになると思いました」と、初めて当時のことを振り返った。

努力家で完璧主義。自分にも他人にも厳しい堀ひろ子は、ときとして人とぶつかった。堀ひろ子でなくとも、オンナどうしの関係はやっかいだ。同性だけに相手にも厳しくなり、自尊心と自尊心がぶつかりあうこともしばしば。しかし峰子さんは、決して自分が前に出ることはなかった。堀ひろ子は多分、思わず峰子さんにあたることがあっても、常に変わらぬ峰子さんの尊敬と愛情に接して、時に自己嫌悪に陥り、そのたび峰子さんに感謝したことだろうと想像する。一方、峰子さんは「ひろ子さんは本当にかわいらしい人だったんですよ」と言う。甘えん坊で寂しがり屋。裁縫が上手で、峰子さんの結婚式には手縫いのウェディングドレスで祝ってくれた。

オンナどうしが理想的な関係でいるのは難しいものだが、堀ひろ子と峰子さんは、互いの尊敬と愛情、努力と誠実さで、関係を育てた。最期のその時まで。
▶︎峰子さんが長男と訪れたカナダの消防署のひとつ。子どもが一緒だとみな、喜んで一緒に写真を撮ってくれた。こんなふうに、母親であることを100%楽しんでいた。


そして、峰子さんがオートバイにリターンしたのは2004年。ご主人が買ったカワサキ・ZRX1100が切っ掛けだった。「何の気なしに」乗せてもらったら、20年のブランクなど忘れるくらいごく普通に乗れた。「なんでこんな楽しいもの、忘れてたんやろう」。

子どもたちからも手が離れ、再びバイクに没頭していく。「それまでは本当に、ひろ子さんのことを思い出すことはほとんどなかったんですけど、リターンしてからはバイクに乗るたび、ひろ子さんのことを思い出します」。それが辛くもあり、うれしくもある。リターンした年から今まで、欠かさず堀ひろ子の墓参りにも出掛けている。峰子さんは今、バイクに乗りながら、堀ひろ子と過ごした日々をもう一度紡ぎなおしているのかもしれない。
▶︎堀ひろ子写真集 RIDE ON LIFE(CBSソニー出版 1983年発行)より
鈴鹿4耐の1度目の挑戦('80年)は、堀ひろ子が他車の撒いたオイルが原因で、転倒、マシンに引火するという衝撃的なリタイアだった。翌年('81)の完走はだから、喜びもひとしおだった。


「どう転んでもひろ子さんみたいにはなれない。 だから、私は私のやり方で ひろ子さんのスピリットを伝えたいと思ってるんです」

▶︎2010年5月岡山国際サーキット。モトレヴォリューションRd.2でGSXR1000を駆る峰子さん。写真・kmhppy


そんな峰子さんが2人の女性ライダーに出会ったのは、走行会に、レースにと足しげく通う岡山国際サーキットだった。何度も顔を合わせるうちに、2人は峰子さんを「かあちゃん」と呼ぶようになる。4耐出場を決めたのは若い2人。迷わず峰子さんに声を掛けた。「かあちゃん、4耐に出るから監督やって」。「ええよ」。それだけだった。

どうして監督を峰子さんにお願いしようと思ったのと聞くと、「かあちゃんは料理がすごく上手なんです。かあちゃんが監督なら、レース前でもおいしいものが食べられると思って」。峰子さんは走行会でもレースでも人が集まる場所には手料理を欠かさない。自分がレースを走る日でも、前日から準備して、食材を持ち込み、みんなに料理をふるまう。だから自然と峰子さんの周りには人が集まるのだ。

「なでしこレーシング」。それが峰子さんがみんなと決めた最初のチーム名だった。

ところが。「昨年の暮れ、ある忘年会の帰りに終電でうつらうつらしてたんです。そしたら耳元でひろ子さんが〝パウダーパフ、パウダーパフ〟って囁いて」。それが夢だったのかどうかはともかく、これがターニングポイントになって、パウダーパフ・レーシングは誕生したのである。

2人のライダーはもちろん堀ひろ子のことを知らなかった。そんな伝説のライダーがいたことも、その人のおかげで今、自分たちがレースに参加できることも。そして「かあちゃん」が、その伝説のライダーのパートナーだったことも。しかしチーム名がパウダーパフ・レーシングと変わった途端、このチームをサポートしようという人たちがどんどん集まり始める。

「最初は2人でコツコツとお金を貯めて、その中でできる範囲でレースに出ようと思っていたんです。でもかあちゃんが監督になって、チームの名前がパウダーパフ・レーシングになって、そしたら、手伝ってあげるよ、サポートしてあげるよっていう人がどんどん集まってくれて。それでパウダーパフ・レーシングという名前の重さに気付きました。それに、堀ひろ子さんの思いをつなぎたいっていうかあちゃんの気持ちも十分感じ取りました。だから私たちも本気で頑張らなきゃって思ってるんです」。

峰子さんは「月並みな言葉ですけど、バイクの楽しさを伝えたい」と言う。堀ひろ子はバイクのかっこよさ、美しさ、ロマンを表現し、人々の心に植え付け、女性ライダーに道を開いた。しかしバイクの楽しさを伝えるのは、楽しみ上手な峰子さんの役割かも知れない。レースというシビアな場面では、いつもの自分でいることすら難しいのに、それを楽しむのは簡単なことではない。余裕がなくてはできないことだ。

「私がひろ子さんと一番違うのは、歳を取ったことです。ひろ子さんが亡くなったのは36歳。私は今52歳。仕事もして子育てもして、ちょっとだけ経験が増えました。私はどう転んでもひろ子さんみたいにはなれないから、私は私のやり方でひろ子さんのスピリットを伝えたいと思ってるんです」。

女性ライダーのパイオニアであった堀ひろ子は、誰よりも努力し、時には楽しむことは後回しにして、歯を食いしばって頑張らなくてはならなかった。そうやって女性ライダーの時代を切り拓いてくれた彼女に続き、峰子さんはバイクの楽しさを、次の世代へ伝えようとしている。

「私はひろ子さんから言葉では言い尽くせないたくさんのものをもらいました。経験、思い出、出会い…。それらはすべて宝物です」。先ごろ大阪で行われた壮行会で、峰子さんはそう言って声を詰まらせた。本当はひろ子さんにお返ししたい。でもひろ子さんはもういない。だから峰子さんは彼女からもらったものを、次の世代に、目の前にいる2人の女性ライダーに手渡そうとしている。

楽しさを伝える。どんな世界でもそれ以上に難しいことはない。けれど、峰子さんならできるかもしれない。なぜなら峰子さん自身が、バイクを、レースを、心から楽しんでいるからだ。そして2人の女性ライダーは、峰子さんの思いをしっかりと受け止めて、人並み以上の努力をし、当日に臨もうとしている。

峰子さんと堀ひろ子が走った鈴鹿4耐からおおよそ30年。かあちゃんこと峰子さんは、今度は2人の女性ライダーと鈴鹿4耐に挑む。
パウダーパフ・レーシングはどれだけこの4時間を楽しめるだろうか。峰子さんのPay it forwardは、今、始まったばかりだ。
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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
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