純国産に拘った日本の名車トヨタ2000GT。ヤマハとの共同開発だからこそ出来た事とは?【前編】

TOYOTA GAZOOイベント 2016 86&BRZレース

はじまりは極秘プロジェクト

1963年に行われた第1回日本グランプリで、トヨタはクラウンやコロナ、バプリカが華々しい優勝を飾りました。

しかし、翌年に行われた第2回大会では、バプリカのみの優勝という結果に…。各メーカーが体制を整え、万全の体制で挑むようになり、簡単に勝つことが出来なくなったのです。

当時のレース監督の河野二郎氏は、この第2回グランプリを終えるとワークスドライバーの細谷四方洋氏を呼び、「世界にも通用するレベルのスポーツカーを作る」という計画を打ち明け、開発ドライバーを任せました。

試作ナンバー280A始動!

1964年11月1日、”試作ナンバー280A”のプロジェクト始動!目指したのは、世界トップレベルの本格的スーパースポーツであること、GTレースに参戦しても通用するポテンシャルを持つこと、それに併せて普段使いもできるスポーツカーでした。

欧州製のスポーツカーが多数持ち込まれ、研究の日々が続きます。
持ち込まれた車種はポルシェ911、ロータスのエランやジャガーEタイプ、更には日本製のホンダS600も用意されました。

純レーシングカーでは無い為、駆動方式はFR、重量配分を限りなく50:50に近づけ、前後ともにダブルウィッシュボーンのサスペンションを採用、床下はフラットにする等…。その年の冬には5分の1全体図が出来、構想は概ね固まったのですが、車の心臓部とも言えるエンジンがまだ残っていました。

選ばれたのはヤマハのエンジン

開発パートナーとなったのはヤマハ!

楽器メーカーとして有名なヤマハですが、1954年からオートバイの開発を始めており、当時すでにオートバイメーカーとして日本を代表する存在になっていました。

当時、日産自動車と提携し、クローズド・ボディの高性能スポーツカーを開発を進めていたのですが、日産側の事情によってこの計画は白紙となってしまいます。開発途中で頓挫していたヤマハは、トヨタにアプローチをしたのです。トヨタ側もこれに応諾し、トヨタとヤマハの共同開発が開始されました。

ヤマハだから出来た事があった!

2000GTのエンジンは、クラウンに搭載されていたM型6気筒をベースとし、ヘッドをDOHC化することに。

1965年の1月中頃からトヨタとヤマハの共同作業が始まりました。そんなヤマハとの提携は、意外なメリットを生むことになります。

なんとインパネのウッドパネルをヤマハの母体でもある日本楽器のピアノ材を使うことになったのです。共同作業は4月末まで続き、設計図が完成しました。8月14日には試作車を引き取り、開発を始めてからわずか10ヶ月という驚異的な期間の短さで1号車を仕上げる結果となりました。

また、この年に行われた東京モーターショーにも出品され、低く構えた流麗なスタイルで人々を驚かせました。

2000GTの次なる目標、第3回日本グランプリ

2000GTの次なる目標は、第3回グランプリに設定されます。レースを通じて弱点を再度洗い出し、性能の向上を図りました。

また、第3回から細かいクラス分けを廃止、富士スピードウェイを60周するというメインレースに1本化されていました。このことから、開発陣はレースのために軽量なアルミボディのスペシャルマシンを用意します。

プロトタイプレーシングカーの出場も認められていたこのレースですが、結果は2台のプリンスR380に続く3位!2000GTのポテンシャルの高さを見せつけました。

いかがでしたか。
次回の後編では、スピードトライアルやレース結果などを中心にお届けします。

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