美容外科のプロから見た オンナゴコロ、 クルマゴコロ

アヘッド 精神分析医・藤田博史医師

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何気なく選んだ1台のクルマ。そんなつもりはなくても、クルマは人の心の裏側を映し出し、クルマの素性は人の心に影響を与える。精神分析的な視点からクルマを見ると、これまでとは違った自分の姿が現れてくるかも。精神分析医でもあり、大のクルマ好きでもある藤田博史医師のお話は、私たちにクルマに対する新たな視点を与えてくれる。

text:岡小百合  [aheadアーカイブス vol.167 2016年10月号]
Chapter
精神分析医・藤田博史医師にお話を聞いて

精神分析医・藤田博史医師にお話を聞いて

「眩しすぎる太陽を乱反射する紺碧の地中海。オリーヴの木洩れ日のなかを通り抜けるコルニッシュ。適度なワインディングは、のハンドルを操る者の心を高揚させる」

これが、クルマ好きたる私が手に取った本の中の一節と聞いても、きっと驚く人はいないんじゃないかと思う。どこまでも青をたたえる海と、オレンジに輝く陽光に包まれた南仏・コートダジュールの風景が、ありありと頭の中に浮かび、中腹にあるグラースの村に咲きそろったジャスミンの香りまで、何だか届いてきそうに心地よいフレーズだ。

コルニッシュとは、ニースからモナコまで、コートダジュールの岸壁を平行に走る3本の道路のこと。山腹を削り取ってつくった道という意味があるのだと、くだんの本に書いてある。そこを行くのなら、やはりちょっと古いアルファロメオのスパイダーなどが似合いそうだ。

あるいは、プジョーの小さなハッチバックで、キビキビとコーナーを駆けるのも愉快なんじゃないかしらん。なんて、素敵な想像までが、動画となって頭の中で踊り出す。

けれども、この本の著者が小説家ではなく、自動車ジャーナリストでもなく、精神分析医、精神科医&美容外科の名医でもあると知ったらどうだろう?さらにこの本が、「性倒錯の構造」とのタイトルを掲げた、精神分析に関する論文集だと聞いたら、いかがですか? 

「男にとってのクルマ、女にとってのクルマ、それぞれの違い…みたいな企画、できないものかしら、ねぇ」

本誌編集の若林さんが誰にともなしにそうつぶやいた時、真っ先に浮かんだのはこの著者のことだった。だから出不精な若林さんを半ば強引に口説き落とす形で、引き合わせのアポを取り付けた。はずだったのだが、スタート早々、この人の魅力にノックアウトされ前のめりになったのは、私ではなく彼女の方だった。

「信じられない形での大失恋をしましたか?」

その人が、彼女に言った。形ばかりの疑問形で。お互いが初めて顔を合わせてから、わずか5分。彼女はね、ただのクルマ好きじゃないんですよ。国際ラリーストでもあって、バイク乗りでもあるんです。先月はモンゴルの大地を走破してきたんです。何と、窓もエアコンもない4輪で、ですよ! などと彼女を紹介した、そのすぐ後のことだ。

若林さんが息を飲み、そしてキリリとした目を見開いた。「どうして分かるんですか?」そ、そうだったのか、ワカバヤシ…。でも大丈夫。あなたもクルマ好きの女に違いなかった、ただそれだけのことだから。どうしてそんなことが言えるのかって?私も先生に同じようなことをたずねられ、そしてバッチリ当たっていたからですよっ!

「海外でのラリーなんて、そんな勇ましいことへのチャレンジというのは、何かゴミ箱に捨てたはずのものをつかみ出そうとしている、そういうことなんだと思うんです。

ゴミ箱に入れてあるものを、目をつぶって取り出そうとしているんだけど、別のものを出している、という感じ。別の言い方をすれば、自分の場所が何か欠けていて、それを埋め合わせるものがまだ見つかっていないんじゃないかな、と。

おそらくラリーは、男性の存在の置き換えなのだと思いますよ。男性ではなくて、あくまでも男性的なもの、男性的なものにつながる何か、に対して、その穴埋めを期待している。

クルマやバイクは男性的なものの隠喩ですからね。ましてや国際ラリーなんてもっと男性的なことだから、若林さんにはさらにしっくりくるのでしょうね。きっとアパレルなんかには興味ないでしょ? 興味ない、ですって? でしょうねぇ」

それで、モンゴルはどんな風ですか? 砂漠も星空も、さぞ綺麗なのでしょうねぇ。さも楽し気にそう言葉を続けると、洒落た盛り付けでサーブされた生牡蠣を、その人はつるっと喉に流し込んだ。
藤田博史。世界的な精神分析家、ジャック・ラカンに傾倒し、日本においてはいわゆるラカン派の第一人者としても高名な医師だ。ラカンをきちんと説明することなど、私にはとてもできないので世間の評価を拝借すると一般的には…「難解」ということになっている。いわゆるひとつの超ムツカシイ。私のような凡人には、何が何だかワカラナイ。

藤田先生はそのラカンの思想と理論を理解し、フランス語で書かれた原書の翻訳に取り組んでもいる。それだけでも素晴らしいと表現するには十分すぎるのだが、それ以上に先生が素晴らしいのは、偉ぶったところが1ミリもない、ということだ。

大好きなクルマの話になると、たちまち少年のような表情になる自分を許し、心から楽しそうに語り、そして聴いてくれる。だから先生に会うといつも私は、調子にのる。のせられてしまう、と言った方が正しいのかもしれない。

職業の枠もカタガキも名声も超え、単に今ここに生きる一人の人間として、向き合う相手の心を開かせてしまうような慈愛を備えている人。私は先生のことを、そんな風に思っている。

クルマ好き男、でもある。そのことを知ったのは、思いがけないきっかけからだった。人生の紆余曲折を経て、人の心の機微に深く興味を持った頃、書店で手に取った先生の著作の中に、クルマをテーマにした論文が収録されていたのだ。

その導入部分に含まれていたのが、冒頭の一節だ。そこには、学生時代の留学先だったフランスでボロボロのフィアット500を手に入れて、ヨーロッパの道を走り回った思い出や、その後出会い、愛着が増してとうとう日本に連れ帰った、アルファロメオ・ジュリアスーパーのことなども描かれていて、ちょっと素敵な清涼感を味わったのだった。

そもそも私は、クルマ選びほどその人をそのまま映し出してしまう鏡はない、と思ってきた。この世の大多数の人にとって、クルマは特別大きな買い物に違いない。買っただけでは終わらず、維持費だってかかる。メンテナンスの手間もかかる。

命に関わるリスクもある物だから、性能、機能も無視できない。手に入れて、使ってみてから失敗に気づいても諦めがつく洋服や雑貨を買うのとは、訳が全然違うのだ。様々な角度から迷いに迷い、選びに選び、選んでからもさらに考え、そうしてようやく到達した1台には、だからその人のありのままの我がままが、ぎゅうぎゅうに詰まっているはずなのだ。

とはいえ、巷に溢れる安っぽい心理テストに決めつけられて納得できるほど、クルマ好きのクルマ選びは単純じゃない。とも思う。

だからクルマを愛し、ハンドルを握って移動する生活を愉しみ、そして精神分析学を誠実に追及している先生に出会えたことは、奇跡のような出来事に思えた。実際にお会いした先生が、何のためらいもなく少年のような表情になってわくわくとクルマを語り、当時の愛車だったポルシェをウキウキと運転する様に触れて、なおのことそう感じた。

この世に偶然などない、というのは、きっと本当のことなのだ。
そしてaheadが取り持つ縁で久しぶりにお目にかかった先生は、以前よりももっと屈託のない笑顔でクルマ好き女たる私たちを迎え、精神分析学も量子力学も数学にもまるで素人の2人を相手に、面白おかしく、かつ、真摯に学問的に、男と女とクルマの話を聞かせてくれたのだった。

そもそも100%の男、100%の女って、この世にいるんでしょうか? 生物としてはそうであっても、精神的にもすぱっと男女に割り切れるなんてこと、ないように思えるんですけれど。最初にそう切り出したのは私だ。

「動物の世界のオス/メスと、人間の社会の男女は別モノですね。人間の男女は契約で成り立っているでしょう? 人間の世界の性別は、いわば登録制。

環境の中で女に見られて女として扱われたり、男として認識されて男らしさを求められたり、そうやって育っていくうちに『私は女です』『僕は男です』と自己申告して登録しているんですよね。こうやってあらためて指摘する機会でもなければ、気づかないけれど」

そういう前提の上で、クルマ好きの性差というのは、やはり少なからずあるように感じる、と藤田先生は言う。

「男性のクルマ好きは、まさにメカニズム好き。馬力や、テクノロジーや、俊敏性や、そういう機能に惹きつけられる特徴がありそうです。『静かな直6』エンジンに、惚れ惚れとしたりする。だからカタログを眺めているだけで至福の気持ちを味わうこともできる。

それに対して女性のクルマ好きは、自分にいかに奉仕してくれるのか、そこが『好き』の対象になるんですね。運転している時の自分が綺麗に見えるか、街中でぱんっと停めたクルマから降り立った時に、いかに自分の姿が絵になるか。スペックよりも、そういうことの方に興味があるはずですから、カタログを見ているだけでは充足できない。

言ってみれば女性にとってクルマは、少し大きめのアクセサリーと同じ。チェーンがはずれるネックレスや、石が取れちゃう指輪なんて嫌でしょう? だからメンテナンスに手間がかかるクルマを選ぼうとは、あんまり思わないんですね」

では、男性の方が走りに熱中するのはどうしてなんですか? 運動神経の違いだけでは説明できないような気がするんです。そう質問したのは若林さん。

「たとえば暴走族の男の子などは、父親に対して挑戦状を出している可能性が高いですね。『厳しく躾けられるものならやってみろ』と。権力に対して立ち向かうことで、父親の不甲斐なさを挑発している場合があります。

ランボルギーニを選ぶ人には、同じ傾向があるかもしれません。不甲斐ない父親を見ながら『俺はこうはならない』と一念発起して事業を起こし成功すると、ランボルギーニを手に入れたくなるんじゃないか、と。フェラーリは親の背中を見ながら育って、それが嫌じゃなかった良家の跡継ぎが選ぶクルマでしょうね」

ほんの触りしか掲載できないのが申し訳ないほど、精神分析的クルマの語り合いは尽きず、私たちはとうとう終電で帰宅することと相成った。先生の別れ際の言葉を反芻しつつ。

「クルマは素晴らしい治療器具になりますよ、正しく使えば、ね」

そのココロは、一体どんなものなのだろうか…。続きはaheadで。きっと!

藤田博史

Fujita Hiroshi ● 精神科専門医課程などで研鑽を積む。以降、フランスを拠点として世界中を旅し、1999年からは東京にてフリーの精神分析医、麻酔科医、形成外科医、眼科医として活動。2002年医療法人ユーロクリニーク(http://euroclinique.com)を設立。精神分析医の観点を取り入れ、丁寧なカウンセリングによって“美容治療”を行っている。『人形愛の精神分析』『性倒錯の構造ーフロイト/ラカンの分析理論』(青土社)他著書多数。
http://foujita.vis.ne.jp/index.html
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text:岡小百合/Sayuri Oka
大学卒業と同時に二玄社に入社。自動車雑誌『NAVI』で編集者として活躍。長女出産を機にフリーランスに。現在は主に自動車にまつわるテーマで執筆活動を行っている。愛車はアルファロメオ・147(MT)。40代後半にして一念発起し、二輪免許を取得した。
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