写真家・原富治雄がトークイベントを開催する理由
更新日:2024.09.09
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写真集のページをめくるたび、原富治雄さんの写真はやはり格別であると繰り返しそう思わざるを得ない。
原さんは1976年から30年以上に渡って、F1を中心にレースの写真を撮り続けてきた。2009年のF1日本GPをひとつの区切りとして、現在はF1の撮影を休止している。そんな原さんが今、情熱を傾けているのが、「Racing Boys同走会」というトークイベントだ。
text:若林葉子 [aheadアーカイブス vol.122 2013年1月号]
原さんは1976年から30年以上に渡って、F1を中心にレースの写真を撮り続けてきた。2009年のF1日本GPをひとつの区切りとして、現在はF1の撮影を休止している。そんな原さんが今、情熱を傾けているのが、「Racing Boys同走会」というトークイベントだ。
text:若林葉子 [aheadアーカイブス vol.122 2013年1月号]
写真家・原富治雄が トークイベントを開催する理由
1976年 F1 in JAPAN
2012年4月に第一回目を開催、8月に第二回目を、12月に第三回目を開催した。今年も春の開催に向けて準備中であるという。
第一回のテーマは「1972年富士グラチャンレース・記憶に残るサーキットでの日々」と題して、ゲストは元レーシングドライバーの鮒子田寛さんと柳田春人さん。司会は今宮 純さん。
第二回は「主戦場は遥か海の彼方」と題し、1972年のヨーロッパでのレースを中心にしたトークショーで、ゲストはレーサーの桑島正美さんとメカニックとして海外レースを転戦した猪瀬良一さん。
そして第三回は「決勝前夜・奇跡の40時間」。元レーシングドライバーの長谷見昌弘さんと、チーフメカニックの解良喜久雄さんをゲストに、1976年日本初開催のF1 in JAPANに出場したKE007にまつわるあれこれが語られた。
このトークイベントは原さん自身が発起人であり、趣旨に賛同した仲間が半ば手弁当でサポートしている。
「30年以上F1の写真を撮り続けてきたけど、それができたのはジョー・ホンダさんをはじめとする先輩の写真家たちのおかげ。1960年代に海外に出て、苦労して道を拓いてくれた。だから自分も次の世代の人たちに少しでも何かを伝えることができたらと思って、このトークショーを始めたんです」(原さん)。
日本において、モータースポーツは人間のドラマであると評価されることは、残念ながら少ない。しかし原さんの写真は、モータースポーツが間違いなく人間同士のドラマであることを物語っている。
「僕は記録写真を撮ろうと思ったことはなくて、写真の1枚1枚すべてに意味を込めています。だから写真を見た方にそれを読み解いてもらえたらうれしいと思っているんです」。
原さんの写真は、レースのことに詳しくなくても、その写真の背景を知らなくても、何かを感じることはできる。でもその向こうにあるドラマを知って、写真の意味を理解できたとき、さらに深く心が揺さぶられる。
原さんは、もちろんその背景を十分に知ったうえでシャッターを切ってきた。それでも、それはあくまでもカメラマンとして外から見た視点であることに変わりはない。シャッターを切ったあの瞬間、実際にドライバーは、メカニックは、チームは、どんなことを考え、何をしていたのだろう。
トークショーは人に伝えることと同時に、原さん自身の〝知りたい・聞きたい〟がベースにある。このトークショーは原さん自身が過去に見てきたシーンを整理し、原点を確認する作業でもあるのだ。
「第3回 Racing Boys同走会」のテーマとなったのは、日本で初めて開催されたF1レースである「F1インジャパン」(1976年)に出場した国産F1マシン、「KE007」。
チームオーナーは、個人コンストラクターで「コジマエンジニアリング」を率いる小嶋松久氏、設計は日本初のF1マシン「マキF1」を手掛けた小野昌朗氏だ。「負ける気がしなかった」と、今回のゲストであるKE007のドライバーだった長谷見昌弘さんが振り返るほどマシンの出来は素晴らしかったらしい。
今回のもうひとりのゲストであるチーフメカニックだった解良喜久雄さんからは、KE007に搭載したフォードコスワースDFVエンジンは、450万円ほど(一説には850万円と言われていた)で新品が普通に買えたという逸話も飛び出した。
当時、ロータスやマクラーレンも使用していたF1のスタンダードと呼べるDFVエンジンに、これまた当時のF1のスタンダードだったヒューランド製のギアボックスを組み合わせたKE007は、超高速コースの富士に合わせたスポーツカーノーズとナロートレッド、ダンロップのスペシャルタイヤで〝ヨーロッパ勢〟を迎え撃つ計画を立てていた。
予選1回目のタイムアタックでKE007に乗った長谷見さんがいきなり4番手に踊り出たときのヨーロッパ勢の驚きは想像に難くない。そして問題の午後の予選2回目について長谷見さんは語る。
「ジェームズ・ハントのスリップストリームを狙って、後ろを走っていたんだけど、マリオ・アンドレッティが割り込んできて、これがめっぽう早い。それでまずはアンドレッティのスリップストリームを使うことにしたの。富士はストレートが長いからスリップストリームをうまく使えば1秒くらい速くなる。1周まわって1コーナーでアンドレッティを抜いて、後半はハントの後ろに付いた」。
本人はもちろん誰もが手ごたえを感じていた。ところが300Rを抜けた最終コーナー。
「いきなりガクンときた。コースを外れてタイヤバリヤにフロント左側から激突。予想以上にタイヤのグリップが良くて、その入力にサスペンションの取り付け部が耐えられなくなったんだね。命はともかく足はダメだと思いましたよ。だから足が動いたときはうれしかった」。
マシンは数メートル舞い上がり地面に叩きつけられる。多くの日本人の夢が砕かれた瞬間でもあった。
大破したKE007は、富士スピードウェイにほど近い元「ヨシムラ」の近藤信二氏のガレージに運ばれた。そこに日本のレース関係者が次々に集まってきたのだという。
「いつの間にか修理するという空気になっていたんですよ。アルミのモノコックまでダメージを受けていたから、アルミ板で一から全てを作り直したんです。でも正直に言うと、今からではちゃんとしたクルマに仕上げられない、レースはもう終わった、本音ではそう思ってましたよ」。と解良さんは振り返る。
大雨の影響でスケジュールがずれ込んでなんとか間に合ったというのが本当のところらしい。ともあれクラッシュから40時間で復活したKE007だったが、決勝前の給油で解良さんは気付いてしまった。
「今、初めて長谷見さんに言いますけど、実は少しガソリンが漏れてたんです。だから決勝レース中は、炎上するんじゃないかってひやひやでしたよ」。
それを聞いた長谷見さんは、「そうだったの、知らなかったなあ。実は僕も本音を言えば、まともなクルマじゃないことは分かっていたから乗りたくなかったんだよ。でもみんなの気持ちを考えると、それはできなかったな。あれほど苦しいレースもなかったね」と答える。
決勝レースの雨の中、長谷見さんはストレートさえ真っ直ぐに走れないマシンを何とかコントロールしながら11位で完走した。
レースに「たら、れば」を持ち込めないのは、百も承知だ。しかし、もしあと1周走れていたら間違いなくポールポジションは獲れていたはず。そしてそれがメーカーではなく、個人コンストラクターの成し得た仕事だったとしたら日本のモータースポーツの歴史は変わっていただろう。
そしてこの時代、人の想いの強さが大いなる結果を導く可能性があったことを物語っている。
第一回のテーマは「1972年富士グラチャンレース・記憶に残るサーキットでの日々」と題して、ゲストは元レーシングドライバーの鮒子田寛さんと柳田春人さん。司会は今宮 純さん。
第二回は「主戦場は遥か海の彼方」と題し、1972年のヨーロッパでのレースを中心にしたトークショーで、ゲストはレーサーの桑島正美さんとメカニックとして海外レースを転戦した猪瀬良一さん。
そして第三回は「決勝前夜・奇跡の40時間」。元レーシングドライバーの長谷見昌弘さんと、チーフメカニックの解良喜久雄さんをゲストに、1976年日本初開催のF1 in JAPANに出場したKE007にまつわるあれこれが語られた。
このトークイベントは原さん自身が発起人であり、趣旨に賛同した仲間が半ば手弁当でサポートしている。
「30年以上F1の写真を撮り続けてきたけど、それができたのはジョー・ホンダさんをはじめとする先輩の写真家たちのおかげ。1960年代に海外に出て、苦労して道を拓いてくれた。だから自分も次の世代の人たちに少しでも何かを伝えることができたらと思って、このトークショーを始めたんです」(原さん)。
日本において、モータースポーツは人間のドラマであると評価されることは、残念ながら少ない。しかし原さんの写真は、モータースポーツが間違いなく人間同士のドラマであることを物語っている。
「僕は記録写真を撮ろうと思ったことはなくて、写真の1枚1枚すべてに意味を込めています。だから写真を見た方にそれを読み解いてもらえたらうれしいと思っているんです」。
原さんの写真は、レースのことに詳しくなくても、その写真の背景を知らなくても、何かを感じることはできる。でもその向こうにあるドラマを知って、写真の意味を理解できたとき、さらに深く心が揺さぶられる。
原さんは、もちろんその背景を十分に知ったうえでシャッターを切ってきた。それでも、それはあくまでもカメラマンとして外から見た視点であることに変わりはない。シャッターを切ったあの瞬間、実際にドライバーは、メカニックは、チームは、どんなことを考え、何をしていたのだろう。
トークショーは人に伝えることと同時に、原さん自身の〝知りたい・聞きたい〟がベースにある。このトークショーは原さん自身が過去に見てきたシーンを整理し、原点を確認する作業でもあるのだ。
「第3回 Racing Boys同走会」のテーマとなったのは、日本で初めて開催されたF1レースである「F1インジャパン」(1976年)に出場した国産F1マシン、「KE007」。
チームオーナーは、個人コンストラクターで「コジマエンジニアリング」を率いる小嶋松久氏、設計は日本初のF1マシン「マキF1」を手掛けた小野昌朗氏だ。「負ける気がしなかった」と、今回のゲストであるKE007のドライバーだった長谷見昌弘さんが振り返るほどマシンの出来は素晴らしかったらしい。
今回のもうひとりのゲストであるチーフメカニックだった解良喜久雄さんからは、KE007に搭載したフォードコスワースDFVエンジンは、450万円ほど(一説には850万円と言われていた)で新品が普通に買えたという逸話も飛び出した。
当時、ロータスやマクラーレンも使用していたF1のスタンダードと呼べるDFVエンジンに、これまた当時のF1のスタンダードだったヒューランド製のギアボックスを組み合わせたKE007は、超高速コースの富士に合わせたスポーツカーノーズとナロートレッド、ダンロップのスペシャルタイヤで〝ヨーロッパ勢〟を迎え撃つ計画を立てていた。
予選1回目のタイムアタックでKE007に乗った長谷見さんがいきなり4番手に踊り出たときのヨーロッパ勢の驚きは想像に難くない。そして問題の午後の予選2回目について長谷見さんは語る。
「ジェームズ・ハントのスリップストリームを狙って、後ろを走っていたんだけど、マリオ・アンドレッティが割り込んできて、これがめっぽう早い。それでまずはアンドレッティのスリップストリームを使うことにしたの。富士はストレートが長いからスリップストリームをうまく使えば1秒くらい速くなる。1周まわって1コーナーでアンドレッティを抜いて、後半はハントの後ろに付いた」。
本人はもちろん誰もが手ごたえを感じていた。ところが300Rを抜けた最終コーナー。
「いきなりガクンときた。コースを外れてタイヤバリヤにフロント左側から激突。予想以上にタイヤのグリップが良くて、その入力にサスペンションの取り付け部が耐えられなくなったんだね。命はともかく足はダメだと思いましたよ。だから足が動いたときはうれしかった」。
マシンは数メートル舞い上がり地面に叩きつけられる。多くの日本人の夢が砕かれた瞬間でもあった。
大破したKE007は、富士スピードウェイにほど近い元「ヨシムラ」の近藤信二氏のガレージに運ばれた。そこに日本のレース関係者が次々に集まってきたのだという。
「いつの間にか修理するという空気になっていたんですよ。アルミのモノコックまでダメージを受けていたから、アルミ板で一から全てを作り直したんです。でも正直に言うと、今からではちゃんとしたクルマに仕上げられない、レースはもう終わった、本音ではそう思ってましたよ」。と解良さんは振り返る。
大雨の影響でスケジュールがずれ込んでなんとか間に合ったというのが本当のところらしい。ともあれクラッシュから40時間で復活したKE007だったが、決勝前の給油で解良さんは気付いてしまった。
「今、初めて長谷見さんに言いますけど、実は少しガソリンが漏れてたんです。だから決勝レース中は、炎上するんじゃないかってひやひやでしたよ」。
それを聞いた長谷見さんは、「そうだったの、知らなかったなあ。実は僕も本音を言えば、まともなクルマじゃないことは分かっていたから乗りたくなかったんだよ。でもみんなの気持ちを考えると、それはできなかったな。あれほど苦しいレースもなかったね」と答える。
決勝レースの雨の中、長谷見さんはストレートさえ真っ直ぐに走れないマシンを何とかコントロールしながら11位で完走した。
レースに「たら、れば」を持ち込めないのは、百も承知だ。しかし、もしあと1周走れていたら間違いなくポールポジションは獲れていたはず。そしてそれがメーカーではなく、個人コンストラクターの成し得た仕事だったとしたら日本のモータースポーツの歴史は変わっていただろう。
そしてこの時代、人の想いの強さが大いなる結果を導く可能性があったことを物語っている。
「Racing Boys同走会」
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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。