ゴロワーズブルーを率いた男逝く
更新日:2024.09.09
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1月13日、Facebookにフランスのバイク仲間たちが一斉に〝R.I.P.(安らかに) JCO〟というコメントをアップし始めた。最初は、JCOが誰のことなのか分からなかったが、色々と調べるうちに、あの「オリビエ」の事だと判明した。
text:佐野新世 [aheadアーカイブス vol.123 2013年2月号]
text:佐野新世 [aheadアーカイブス vol.123 2013年2月号]
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ゴロワーズブルーを率いた男逝く
ジャン・クロード・オリビエ (1945〜2013)
'70年代からヤマハモーターフランスの前身であるソノートヤマハの代表として世界GPに参戦。'84年にクリスチャン・サロンを擁して250㏄クラスのタイトルを獲得。その後500㏄(現モトGP)クラスやル・マン24Hレースに活動の場を拡大。'99年にはヤマハ時代のマックス・ビアッジをサポートした。パリ・ダカールラリーには初回から選手として参戦。'86年にはFZ750の4気筒エンジンを使用した「FZ750テネレ」(写真)を考案するなど様々な車両の開発にも携わる。
正直、目を疑った。何が起こったのかを詳しく知りたくて、フランスのバイク関連サイトのページで情報を集めたところ、「高速道路を走っていた大型トラックが制御不能になり、中央分離帯を乗り越え、反対側車線を塞ぐ形で停車。そこに走行中だった彼のクルマが巻き込まれる形となり、彼は帰らぬ人となった」との記事に行き着いた(同乗していた娘さんは無事だった)。
JCOとはジャン・クロード・オリビエ( Jean-Claude Olivier )の愛称だ。彼は1979年の第1回パリ・ダカールに2輪で出場し、1985年には砂漠の神様と呼ばれたガストン・ライエに続き、準優勝したほどの有能なライダーだった。
その後、同ラリーでチーム監督としても実力を発揮し、今年のダカールラリーの4輪優勝者であるステファン・ペテランセルを、過去に2輪で6回も優勝に導いている。さらにはビジネスマンとしても優秀で2010年までヤマハ・モーターフランスの代表を務めていた。
ライダーとしても監督としても、また経営者としても輝かしい功績を残した人物なのだ。
'70年代からヤマハモーターフランスの前身であるソノートヤマハの代表として世界GPに参戦。'84年にクリスチャン・サロンを擁して250㏄クラスのタイトルを獲得。その後500㏄(現モトGP)クラスやル・マン24Hレースに活動の場を拡大。'99年にはヤマハ時代のマックス・ビアッジをサポートした。パリ・ダカールラリーには初回から選手として参戦。'86年にはFZ750の4気筒エンジンを使用した「FZ750テネレ」(写真)を考案するなど様々な車両の開発にも携わる。
正直、目を疑った。何が起こったのかを詳しく知りたくて、フランスのバイク関連サイトのページで情報を集めたところ、「高速道路を走っていた大型トラックが制御不能になり、中央分離帯を乗り越え、反対側車線を塞ぐ形で停車。そこに走行中だった彼のクルマが巻き込まれる形となり、彼は帰らぬ人となった」との記事に行き着いた(同乗していた娘さんは無事だった)。
JCOとはジャン・クロード・オリビエ( Jean-Claude Olivier )の愛称だ。彼は1979年の第1回パリ・ダカールに2輪で出場し、1985年には砂漠の神様と呼ばれたガストン・ライエに続き、準優勝したほどの有能なライダーだった。
その後、同ラリーでチーム監督としても実力を発揮し、今年のダカールラリーの4輪優勝者であるステファン・ペテランセルを、過去に2輪で6回も優勝に導いている。さらにはビジネスマンとしても優秀で2010年までヤマハ・モーターフランスの代表を務めていた。
ライダーとしても監督としても、また経営者としても輝かしい功績を残した人物なのだ。
僕は、毎年フランスにスーパーモタードのレースにスポット参戦している。所属しているのがヤマハ系のディーラーのチームなので、いつもスタッフやチームメイトから彼の話を聞いていた。
「オリビエは、根っからのバイク好きで、普段からよくバイクに乗っている。この間も一緒にツーリングに行ったんだ」とか、「ウチのチームのボスとオリビエは80年代にスーパーモタードで一緒に走っていたんだよ」と自慢気に話す皆の顔が印象的だった。
沢山の人からオリビエのストーリーが語られていたのは、メーカーの代表だとか、ディーラーだとかの立場に関係なく、彼が愛すべき存在だったからに違いない。
最初は、企業の代表なのにまだバイクに乗ってるモノ好きな人もいるもんだと思っていたけれど、フランスだと当然のことらしい。むしろバイクを販売しているのに、バイクに乗っていない方が、〝パッション〟がなくておかしいと言われてしまう。
こういう文化をフランスに定着させたのはオリビエのような人がいたからかも知れない。僕自身もバイクに乗る人にしかバイクのことは分からないと思っているので、メーカーの代表がバイクを楽しんでいるという話は親近感が生まれて嬉しくなった。
実は、10年前に一度だけ僕はパリダカールに出場した。それが切っ掛けとなり、フランスのスーパーモタード選手権に出場することになった。紆余曲折して、今はヤマハ系のチームにいる。フランスでヤマハに乗ってレースをしていれば、いつかオリビエに会えるのではないかと期待していた。しかしそれはもう叶わない。
「オリビエは、根っからのバイク好きで、普段からよくバイクに乗っている。この間も一緒にツーリングに行ったんだ」とか、「ウチのチームのボスとオリビエは80年代にスーパーモタードで一緒に走っていたんだよ」と自慢気に話す皆の顔が印象的だった。
沢山の人からオリビエのストーリーが語られていたのは、メーカーの代表だとか、ディーラーだとかの立場に関係なく、彼が愛すべき存在だったからに違いない。
最初は、企業の代表なのにまだバイクに乗ってるモノ好きな人もいるもんだと思っていたけれど、フランスだと当然のことらしい。むしろバイクを販売しているのに、バイクに乗っていない方が、〝パッション〟がなくておかしいと言われてしまう。
こういう文化をフランスに定着させたのはオリビエのような人がいたからかも知れない。僕自身もバイクに乗る人にしかバイクのことは分からないと思っているので、メーカーの代表がバイクを楽しんでいるという話は親近感が生まれて嬉しくなった。
実は、10年前に一度だけ僕はパリダカールに出場した。それが切っ掛けとなり、フランスのスーパーモタード選手権に出場することになった。紆余曲折して、今はヤマハ系のチームにいる。フランスでヤマハに乗ってレースをしていれば、いつかオリビエに会えるのではないかと期待していた。しかしそれはもう叶わない。
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text:佐野新世/Shinyo Sano
スーパーモタードライダー1976年東京生まれ。2004年からスーパーモタードの本場、フランス選手権に参戦。最近ではバイク専門誌でインプレッション記事なども執筆している。www.shinyosano.com/index.html
text:佐野新世/Shinyo Sano
スーパーモタードライダー1976年東京生まれ。2004年からスーパーモタードの本場、フランス選手権に参戦。最近ではバイク専門誌でインプレッション記事なども執筆している。www.shinyosano.com/index.html