おしゃべりなクルマたち Vol.60 ボンジュール、マダム・ダプリーレ

ホームドクターに紹介された皮膚科医に電話を掛けた時のこと。いきなり受話器の向こうからこんな声が聞こえて仰天した。「ボンジュール、マダム・ダプリーレ」。

text:松本 葉  [aheadアーカイブス vol.129 2013年8月号]

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Vol.60 ボンジュール、マダム・ダプリーレ

Vol.60 ボンジュール、マダム・ダプリーレ

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ダプリーレというのは我が家の名字で、通常、私もこの、かなり変わった名字を使っている。発音は簡単だけれど聞き慣れないものだから必ず綴りを尋ねられるが、その綴りがややこしいから厄介だ。

そういう意味ではこちらが名乗る前にわかってもらって有り難かったが、それにしても不思議であった。なぜってこの皮膚科医に電話を掛けたのは初めてだったから。なんで、ウチの名前を知っているんだ?

この時、私が使ったのはウチの固定電話で、番号が局に登録されている。ニホン同様、フランスでもナンバー表示は今ではフツウのことだが、ニホンと異なるのは番号を非表示にするためにお金がかかること、非表示契約を結ばなければならない。

ゆえに大抵の場合、ナンバーが表示され、逆に非表示の場合は受話器を取らないヒトが多い。こんなシステムがあるとは知らなかったが、おそらくこの皮膚科医の電話はナンバーのみならず、同時に登録名字が表示される仕組みになっているのだろう。

ナンバーが表示されることに抵抗を感じることはなかったのに、名前を呼ばれて戸惑った。電話の相手はこちらの素性を継げる必要のある医者である。ダンナの不倫相手でも隣人の脱税を密告する税務署でもない。身元を隠す必要はまったくないけれど、それでも思わずにはいられない。この世にもう、プライベートというものは、ないのか?

折りも折り、フランスでは今、クルマへのブラック・ボックス搭載が盛んに議論されている。交通事故対策の一環だが、議論は効果のほどより、どんどん狭まる自由度が焦点になっている。“監視”づくめの社会、特にクルマを巡る環境に誰もが辟易している、そんな印象。

スピードを取り締まるレーダーは今年、200台近く増加されるそうだ。最近ではナンバープレートの後ろにカメラを隠した覆面パトカーが登場した。ニュースでは車種はわかるものの、この覆面のナンバーも車体の色もぼかされているが、インターネットで流れていて、まさに騙し合い。

犯罪対策も含めてさまざまな場所に監視カメラがあって、肝心な時に“作動していなかった”ケースが多いが、それでも『監視カメラ作動中』という表示を見るとキンチョーする。

要はフツウに運転していればよいのだ。レーダーが設置されているのは(大抵の場合)危険な場所だからスピードを落とすべきで、アクセルを踏み込む方が間違っている。思わぬ事故ではブラック・ボックスが役に立つのかもしれない。電話の一件同様、隠すべきものなどない、のだけれど…。それでもやっぱり思ってしまう。この世にもう、プライベートはないのか。

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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。

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