SPECIAL ISSUE エターナルバリュー

世の中全体がひとつの方向を向いていられる時代ではなくなり、あふれる情報や多様な価値の中から、それぞれが自分なりの価値観を見つけなくてはならなくなった今。私たちはクルマやバイクをどう選び、どう付き合っていけば良いのだろう。

text:山下 剛、竹岡 圭、山下敦史、嶋田智之 photo:長谷川徹  [aheadアーカイブス vol.187 2018年6月号]

Chapter
エターナルバリュー
抗いの本質
デザイン8割で行こう!
新旧が混在する時代
二条城にクルマを並べたオトコ

エターナルバリュー

アヘッド SPECIAL  ISSUE エターナルバリュー

抗いの本質

アヘッド SPECIAL  ISSUE エターナルバリュー

text:山下 剛


かつて若者たちはバイクとエレキギターに夢と希望を託し、大人たちに抗った。

ダメだと言われるほどバイクを走らせ、ギターをかき鳴らした。しかし90年代に入るとまるでもうすぐ20世紀が終わることをわかっているかのようにバイクもギターも反抗の象徴ではなくなっていき、21世紀になって20年が経とうとしている今、どちらにも抗うための道具や手段といった役割はほとんど見られない。

若者たちが聴く音楽はロックからヒップホップになり、一見するとアウトローながらも両親への感謝を歌う。バイクは思春期の揺らぐ感情を燃やすための乗り物ではなくなり、新たな友人をつくり、交流をふかめることを目的としたSNS同様のコミュニケーションツールのひとつになってきている。

もっともカミナリ族にはじまった日本のバイク文化も個よりも集団として活動し、認知されてきたから、バイクが他者とのつながりをつくる性質を持っていることは昔から変わっていない。ただし、手段と目的が入れ替わった、あるいは楽しめさえすればそれでよく、手段だろうが目的だろうが気にしなくなったといえるかもしれない。

しかし、もっと広く俯瞰してみると、10〜20年後にはもしかしたらガソリンエンジン車の新車販売が禁止されているかも知れず、自動運転化の推進も不可欠となった今、ガソリンエンジンを積んだクルマを走らせることすら時代の流れに抗っているともいえる。

クルマでは衝突回避や自動ブレーキといった安全装置の普及がかなり進んでいるが、バイクではようやくABSが義務化される段階にすぎず、トラクションコントロールなどの転倒抑制装置はまだ一部の高級モデルにしか装備されていない。電気モーターを原動機とするバイクはさらに少ない。

そんな乗り物であるバイクを今なお走らせる行為は、クルマよりもさらに時代に抗っているといえる。バイクの価値観は変わりつつあるが、ひょっとするとバイクという乗り物は本質的に人間を取り巻くこの世界に抗うための道具なのかもしれない。

BMWは「100年後のバイク」として、自立自動走行かつライダーがヘルメットすら被らずとも安全に走行できるバイクのコンセプトを発表した。ホンダとヤマハは自立自動走行バイクを公開した。BMWのアイデアは現段階ではサイエンスフィクションにすぎないが、ホンダとヤマハは市販前提ではないとしながらも実際に自立自動走行するバイクを開発して形にした。

仕事グルマが最優先で、次いで家庭、そして個人用途。生活を維持するために道路を使うことは当然だが、趣味としてアソビのためにクルマやバイクを走らせるなら遠慮すべきである、というのが日本の交通社会の風潮だ。

暗黙の了解といってもいい。そんなこの国でクルマの自動運転化が推進されていけば、挙動が予測しにくく、かつ衝突時のリスクが高すぎるバイクは、近未来の交通社会において除外されるのではないか。「個人の趣味のために他人の生活を脅かすな」が世間の大多数の声なのではないだろうか。

いや、何もそれは日本人の国民性によるものではなく、環境変化に対して生き残れるか否かの話で、地球に生命が誕生して以来繰り返されてきた適者生存による成り行きなのだろう。

だからこそ、変化する環境に淘汰されないよう、バイクも安全な乗り物であることを世間にアピールするべく、ホンダやヤマハには一刻も早く自立自走バイクを販売してもらいたい。バイクも未来の交通社会の一員になれる資格があるのだということを見せつけてほしい。バイクは世界に抗うための乗り物ではないということを、バイクに興味もなく、むしろ毛嫌いしている人たちに向けて伝えてほしい。

そのいっぽうで、転ばないバイクなどバイクではないと思う自分がいる。スーパーマリオの無敵モードが永遠に続いたり、ポーカーでカードの裏側を見透かせたりしたらゲームとして成立しないのと同じだ。自立自走バイクは、これまでの電子制御技術と同質でなく、バイクの基本概念を崩しかねない。すべての命には限りあるからこそ生が輝くのと同じように、バイクは転ぶからこそバイクであり、走らせることが楽しいのだ。

人類が誕生してからずっと願い続け、ときに神に祈り、力と富を持つ者は持たざる者たちを犠牲にしてきたものの、私たちが生きている三次元では不老不死など実現できない。命あるものは必ず死ぬのだ。絶対という言葉を唯一堂々と使える概念が、生命がいつか迎える死なのだ。

しかし、21世紀で暮らしている私たちは、科学技術の力でそれをくつがえすべく自然環境に抗い、一定の効果を得てきたことを知っている。もしかしたら……という淡い期待を抱かずにいられない。

人工知能がさらに進化した自動運転のクルマが登場して、眠ったまま目的地まで行けたり、それにまたがってさえいればヴァレンティーノ・ロッシのレーシングラインを再現してくれたり、何があっても〝絶対〟に転倒しない自立自走バイクが出てきたりしたら、走る姿を見るだけでなく乗ってみたいという欲望もある。

どちらの態度を取っても、結局のところ抗うことからは逃れられなさそうだ。つまるところ、抗うことは生きることと同義なのかもしれない。

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text:山下 剛/Takeshi Yamashita
1970年生まれ。東京都出身。新聞社写真部アルバイト、編集プロダクションを経てネコ・パブリッシングに入社。BMW BIKES、クラブマン編集部などで経験を積む。2011年マン島TT取材のために会社を辞め、現在はフリーランスライター&カメラマン。

デザイン8割で行こう!

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text:竹岡 圭 


「クルマの購入動機は見た目が8割以上!」コレ、私がモータージャーナリストと名乗りだす前、つまりこの業界に入り文章を書き始めてすぐ、まだライター見習いです~♡と言っていた頃から、私のモットーのひとつとして掲げていることだったりする。

何を隠そう免許取得中にこの業界に入ってしまったので、運転技能は初心者マーク。当然のことながら、運動性能やメカニズムのことはチンプンカンプン。見た目の話しかできなかった…! からかもしれない。

でもその90年代初め…。いやもうハッキリ言っちゃうと、それは'93年なのだが、その頃はまだ、「8割!」なんてことを声高に言う人はいなくて、クルマのデザインは今ほどフィーチャーされていなかったように思う。

もちろん、あのクルマがカッコイイだの、このクルマはイマヒトツだの言われてはいたし、「バブル時代に豪華に設計されたクルマが、デザインは斬新なまま、内容は時代に合わせてやや抑えて登場!」なんてものもたくさんあって、いまと比べれば派手な時代だったのかもしれないけれど、ジウジアーロとピニンファリーナは別格として、少なくとも今ほどクルマのデザインは表立って語られていなかったはずだ。

デザイナーさんだって、昨今ほどいろいろな場面でスポットを浴びて登場することは少なく、私が某誌で「デザイナーとデート♡」という連載を始めたら、それがデザイナーさんの間で「オレまだデートしてないよ~?」などと、話題になったほどだった。

それがいつの間にやら「やっぱりクルマはデザインでしょ!」と、普通に言われるようになり、なにしろこういった内容の原稿依頼をいただくまでになったのだから、時代の流れというのは面白い。と言いながら、この仕事を始めてもう25年目という自分に、いまこの原稿を書きながらいちばんビックリしていたりするのだが…(汗)。

もとい!そんな25年の間にも、クルマのデザインはずいぶん変わった。当然のことながら流行り廃りもあれば、安全基準を満たすため、空気抵抗を減らすため等々、抗えない理由によるところも大きい。私の大好きなリトラクタブルヘッドランプも、アメリカの安全基準によって、使えないデザインのひとつになってしまった代表選手だ。

でもいつの時代も愛されるクルマ、いつの時代でも愛されるデザインというものもある。しかもそれをキライという人には、世界各国照らし合わせても、ほぼお目にかかったことがないというほどのツワモノがいるのだ。

その選抜選手は、MINIとフィアット500。MINIはクラシックMINIは当然のこと、BMW MINIもすぐに市民権を得て、その後3度のフルモデルチェンジを経て、しかもそのどれもが世界中で大ヒット。さらにクラシックMINIの時代にはなかったバリエーションを増やし、しっかりブランドとしての世界観を築き上げている。

フィアット500も然り。往年のモチーフを上手く取り入れながら新世代の装いとし、またアバルトブランドだけでなく、プレミアムファッションブランドとコラボレーションしたりと、多彩なボディカラーやパワートレインを搭載することで、常に話題を提供し続けている。

残念ながら日本車にはそういったモデルはまだないのだけれど、世界をアッ!と言わせたモデルはいくつもある。

この25年で言っても、例えばトヨタのヴィッツは、ようやく欧州コンパクトカーにデザインで追いついたなどと言われ、またピンクというボディカラーを世界に流行らせた立役者となったし、左右非対称デザインで話題を呼んだ日産キューブは、未だに買い替えたいと思えるクルマがなくて、長らく乗っているというユーザーが多いと聞いている。

ところがそんなキューブユーザーが「あ!これならいいかも!」と目を付けて、実際乗り換えだしているのが、スズキクロスビーなんだそうだ。

昨年の東京モーターショーでお披露目され、ほぼそのまんまの姿で登場したクロスビー。確かにキューブから乗り換えるには、サイズ的にもちょうどいいのだろう。そして負けず劣らず個性も主張しているし、何と言っても、クロスビーを購入したら、こんなことができそうだな、あんなところにも行けそうだな…と、シチュエーションが描けるのがいいのだ。

そう、時代を超えて愛されるクルマは、見た瞬間に新しいライフスタイルが想像できて、それが明るく楽しい色彩で彩られていることが共通項なのかもしれない。クルマのデザインや、それを発信するデザイナーさんがフィーチャーされてきたのも、クルマが単なる道具ではなく、生活を彩るライフスタイルアイテムとしてみんなが認識するようになったからなのだ。

もはやクルマはキッチリ書くことが仕事の、製図用のシャープペンシルではなくなったのである。

■SUZUKI XBEE

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「デカハスラー」そう呼ばれるのもよくわかる。実際並べてみても、似ているなぁと思う。でもそれでOK。というか、それのどこが悪いの? と、私は思っている。

例えば世界各国で愛されているMINI。3ドアハッチバックがあって、5ドアがあって、クラブマンがあって、クロスオーバーがあって…。でもどれをとってもMINIだし、それで世界が確立している。誰も文句も言わない。

クロスビーも然り。ハスラーがあって、クロスビーがあって。いっそ、デカハスラーという名前でよかったんじゃないか?そうやって新ブランドを築くという手もあったかもしれないぞ。なんてことまで思ってしまう。

でもそんなことを言えてしまうのは、どちらも基本性能がしっかりしているからだ。クロスビーはソリオと同じプラットフォームである。ソリオは荷物がたくさん積めて、利便性も高く、走りもしっかりと、このクラスでは図抜けた存在だ。

そこに夢が加わった。道なき道をまでとは言わないが、シチュエーション問わずの走破力を誇るSUVは、パッケージング的に狭いのが難点と言われてきた。そこにワゴンというかプチバン並みのスペースを誇るパッケージング力がコラボレーションされているため、キャンプ道具一式積んで、取付道路が狭く、途中デコボコが多い、河原の駐車スペースまで…といったことがいとも簡単に想像できてしまうのだ。しかもお昼寝スペース付きと来たら…。デカハスラーもといクロスビー。もうワクワクしない理由がない。

●車両本体価格:¥2,046,600(税込、HYBRID MZ/2WD/2トーンルーフ仕様車)●エンジン:水冷4サイクル直列3気筒直噴ターボ●総排気量:996cc●最高出力:73kW(99ps)/5,500rpm●最大トルク:150Nm(15.3kgm)/1,700~4,000rpm

新旧が混在する時代

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text:山下敦史


映画を観るのが何より楽しかった学生時代――今から30年以上も昔の話だが――過去の名作に触れるには、主に名画座を頼りにするしかなかった。初代『ゴジラ』も、『七人の侍』も、観たい映画を観たい時に観られるなんてことはなく、ちょっとコアな映画やマイナーな映画になると、大げさでも何でもなく何年も待ち続けるなんてことも当たり前だった。

「ぴあ」の上映スケジュールに赤丸付けて、まだ観ぬ古典や名作を求めて週末ごとに名画座巡りをするのはそれはそれで楽しかったのだけど、まあ昔語りがこの原稿の趣旨ではない。

つまり、そのころ〝旧作〟とは自分から探して追いかけるものであり、憧れとか権威とか、あるいは乗り越えるべき壁であったりする存在だったのだ。

自分にとって一番身近な映画を例に出したけど、これが本だったり音楽だったりしても同じだったと思う。今のもの=オレら世代のものと、それまでのもの=旧世代のものは愛憎相半ばするとはいえ、基本対立するものだった。旧作に向かうというのは、好きな分野をもっと楽しめるよう原点だの歴史だのを学ぼうとかいう、〝教養〟とか〝たしなみ〟とか、カッコでくくりたくなるような思惑がいくらか交じっていたのだ。

翻って現在。2010年代とはどんな時代だったのか? なんて大上段に構える気はないのだけれど、時代感覚が薄れた時代、つまり「新旧が混在する時代」という側面は確かにあった。特に10年代後半はそうだ。

定額サービスの普及で、好きな作品を選んで買うのではなく、新旧のライブラリーの中から好みのものをチョイスするという形に移行してきたことが大きい。実際はチョイスする必要すらなく、サービス側からお薦めリストを提供してくれたりするくらいだ。

リストには最新の作品も似た傾向の過去作も同じように並べられる。そこには対立すべき価値観の差などありようもない。だってすべては同列なんだから。基準は気に入るかどうかだけだ。面白い映画/音楽/本を見つけた! と思ったらそれは10年以上も昔の作品だったなんてことも普通にありえるのだ。

作り手にとっては、過去の優れた作品が昨日出てきた作品と同様にライバルになり得るのだから大変だろうな、とは思うけれど。でも明治の文豪と平成の作家が同じお薦めリストに並ぶなんて、考えようによっては面白いじゃないか? 文学史上の価値はともあれ、今の自分にとって必要なのはどちらなのか、価値は自分で決められるのだ。あるいは決めなきゃいけないのだ。

aheadなんだからクルマやバイクのことも触れておこう。内燃機関の時代が終りに近づいた今だからこそかもしれないけれど、パフォーマンスの優劣だけではなく、コンセプトやスタイリングにどれだけ共感するかで愛車を選ぶ傾向が強まっているように思える。
 
例えば昨年の東京モーターショーでは、125㏄化で復活したモンキーや初代のスタイリングを再現したようなスーパーカブC125が話題をさらった。それを単なる懐古趣味と言えるだろうか。

なるほど、エンジン性能は毎年向上するだろうし、10年経たずに電動に置き換わるかもしれない。でも、スペックが変わっても、それらが体現するコンセプトは変わらず受け継がれていく。

近い将来、電動カブと歴代のカブが並んで走る姿を想像する。それは奇妙ではあろうが、調和を感じさせるものではないだろうか。ユーザーが支持するのは、性能以上に、生まれてきた理由を感じさせる本質なのだ。

新旧が混在する今は、乗り越えるべき壁や壊すべき価値観を見い出せない混迷の時代なのかもしれない。だが、だからこそこれまでになく自由であるとも言える。過去と現在を同列に置くことで、今と未来を築くために必要な何かを、膨大な過去の資産から見つけ出せる。それこそが新たな時代へと向かう我々に対する課題なのだろう。

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text:山下敦史/Atsushi Yamashita
1967年生まれ、長崎県出身。PR誌の編集員を経てフリーに。以後、映画や書籍の評論及びレビューを中心に映像エンターテインメントやIT、サイエンス関連の記事などを執筆。著書に『プレイステーション 大ヒットの真実』(日本能率協会マネジメントセンター)、『「ネタになる」名作文学33』(プレジデント社) など。

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