ROLLING 50's VOL.120 遊戯の終わり
更新日:2024.09.09
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16歳から絶え間なく関わり続けている「乗り物・改造遊戯」、つまりチューニングという行為。しかし最近では、二輪・四輪共に、その行為の意味が大きく変わっている。もしかしたら数年後には、その言葉自体が死語になっているのではと思うこともあるくらいだ。
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.190 2018年9月号]
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.190 2018年9月号]
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ROLLING 50's VOL.120 遊戯の終わり
実際に、最近の若者男子にチューニングって何? と尋ねたら、言葉自体を知らない男子もいるだろう。給料の八割をバイクやクルマの改造に費やした私たち世代からすると、まるで別の国のようだ。
例えば、80年代中期から90年代初頭の四輪チューニングは、エンジンをどうチューニングすれば500馬力が出るかのみが大事であった。
足回りや、ブレーキ、乗り味などは、その後からついて来れば良いと言わんばかりの時代だった。谷田部での最高速トライアルが、毎回メディアを騒がせた時代でもある。
だが最高速トライアルの物理的限界が見えると、次はチューニングカーにおいてのサーキットタイムがメディアで重視され始めた。チューニングショップも直線番長の結果だけでは認められず、馬力に見合った足回りなど、2000年以降はトータルで速いマシンの時代になった。
だがこの流れはチューニングショップにとって、馬力だけでなく、サーキットで速いマシンを作る技術を大きく進化させたと思う。
そして今、余りにも進化したマシンの登場に、チューニングという行為自体の意味が変わり始めている。
特に一部の高級スポーツカーなどは、チューニングする必要そのものの意味を「民間」から奪ってしまった。
特にR35GT-Rやポルシェ911GT3などの実力系スーパーカーは、それ以上の性能を求めること自体を馬鹿馬鹿しくさせしまったと思う。私たちが愛した、古のチューニングの終焉である。
確かにその類のマシンは、チューニングすればそれだけスペック数値は上がるのだが、それはアマチュアが体感出来たり、サーキットタイムに結果が反映しない領域のものである。プロでないと引き出せないものに、一体どんな意味があるのだろう。
だが同時に、吊るし販売のまま時速300キロ以上も出て、ひと昔前のレーシングカー並みのサーキットタイムを出すマシンをチューニングする意味とは何なのだろう。
私が80年代後半に夢見たような、多くの試練や苦労を乗り越え、仲間にも助けられ、やっと辿り着ける夢のチューニングマシンという「物語」は、今や漫画の中にしか存在していない。
お店に行ってお金を払えば、その「物語」以上の、夢のまた夢のようなマシンが、通販のように家に届けられるであろう。しかし、そんな「物語」に、いったい誰が魅力を感じるというのか。少なくとも私の財布の紐はチタン製となる。
二輪でも時系列は全く同じだ。私が持っている2017年型GSX-R1000は、タイヤとブレーキパッド以外は無改造で、鈴鹿八時間耐久レースをそれなりのタイムで完走する。
NHKのプロジェクトXでも話題になった「ヨシムラ」のように、町工場のガンコオヤジが作ったマシンが、ワークスマシンを相手に健闘すると言った、日本人が大好きな「物語」は微塵も残っていない。
今の時代は、マシンは最初の設計段階から計算し尽くされている。なので、どう逆立ちしてもメーカーが出したマシンが1番で、ガンコオヤジがチューニングしても「夢」は生まれない。使い方に合わせて、ほんの少しだけ調整するくらいが関の山である。
だから私は最近、チューニングに関しては、あまりにも特化した知識や情報を持っている専門家たちの「格言」を聞かないようにしている。
それは彼らの言うことを信用しない訳ではなく、昨今の新技術やトレンドの流れが早過ぎて、昔のように職人的なことだけでは、大きな結果が出るような時代ではなくなっていると感じるからだ。
唯一、旧車チューニングというジャンルのみにおいて、そのような職人気質というものがいまだに求められてはいるが、そのジャンルが時代に対して前を向いているとは思えない。ニッチなチャンネルでしかないだろう。
二輪・四輪共に、チューニングという行為に関しての知識や技術は、今や商品として幾らでもある。昔の暴走族の専売特許を、メーカー自体が商売にしているくらいだ。
だからこそ、昔のように職人技に頼りきることもない。有り余る知識や、職人の技術を、いかに上手く自分でブレンドするかということだと思う。
夢がない時代だ。しかし私がこだわっている二輪オフロードの世界だけは、少し様子が違う。
二輪オフロードだけは、未だに6割以上が乗り手の体力と技量で決まる原始的な世界である。
最新技術が入り込む隙間はまだまだ少なく、マシン云々より、単に自分が出来るか出来ないかだけの、「冷徹」な空気が占めている。
またそのジャンルの人間たちは、馬力云々などとは言わない。そんなことよりも、運動でもして基礎体力を上げた方がライディングも速くなるし、金もかからないと知っているからだ。
例えば、80年代中期から90年代初頭の四輪チューニングは、エンジンをどうチューニングすれば500馬力が出るかのみが大事であった。
足回りや、ブレーキ、乗り味などは、その後からついて来れば良いと言わんばかりの時代だった。谷田部での最高速トライアルが、毎回メディアを騒がせた時代でもある。
だが最高速トライアルの物理的限界が見えると、次はチューニングカーにおいてのサーキットタイムがメディアで重視され始めた。チューニングショップも直線番長の結果だけでは認められず、馬力に見合った足回りなど、2000年以降はトータルで速いマシンの時代になった。
だがこの流れはチューニングショップにとって、馬力だけでなく、サーキットで速いマシンを作る技術を大きく進化させたと思う。
そして今、余りにも進化したマシンの登場に、チューニングという行為自体の意味が変わり始めている。
特に一部の高級スポーツカーなどは、チューニングする必要そのものの意味を「民間」から奪ってしまった。
特にR35GT-Rやポルシェ911GT3などの実力系スーパーカーは、それ以上の性能を求めること自体を馬鹿馬鹿しくさせしまったと思う。私たちが愛した、古のチューニングの終焉である。
確かにその類のマシンは、チューニングすればそれだけスペック数値は上がるのだが、それはアマチュアが体感出来たり、サーキットタイムに結果が反映しない領域のものである。プロでないと引き出せないものに、一体どんな意味があるのだろう。
だが同時に、吊るし販売のまま時速300キロ以上も出て、ひと昔前のレーシングカー並みのサーキットタイムを出すマシンをチューニングする意味とは何なのだろう。
私が80年代後半に夢見たような、多くの試練や苦労を乗り越え、仲間にも助けられ、やっと辿り着ける夢のチューニングマシンという「物語」は、今や漫画の中にしか存在していない。
お店に行ってお金を払えば、その「物語」以上の、夢のまた夢のようなマシンが、通販のように家に届けられるであろう。しかし、そんな「物語」に、いったい誰が魅力を感じるというのか。少なくとも私の財布の紐はチタン製となる。
二輪でも時系列は全く同じだ。私が持っている2017年型GSX-R1000は、タイヤとブレーキパッド以外は無改造で、鈴鹿八時間耐久レースをそれなりのタイムで完走する。
NHKのプロジェクトXでも話題になった「ヨシムラ」のように、町工場のガンコオヤジが作ったマシンが、ワークスマシンを相手に健闘すると言った、日本人が大好きな「物語」は微塵も残っていない。
今の時代は、マシンは最初の設計段階から計算し尽くされている。なので、どう逆立ちしてもメーカーが出したマシンが1番で、ガンコオヤジがチューニングしても「夢」は生まれない。使い方に合わせて、ほんの少しだけ調整するくらいが関の山である。
だから私は最近、チューニングに関しては、あまりにも特化した知識や情報を持っている専門家たちの「格言」を聞かないようにしている。
それは彼らの言うことを信用しない訳ではなく、昨今の新技術やトレンドの流れが早過ぎて、昔のように職人的なことだけでは、大きな結果が出るような時代ではなくなっていると感じるからだ。
唯一、旧車チューニングというジャンルのみにおいて、そのような職人気質というものがいまだに求められてはいるが、そのジャンルが時代に対して前を向いているとは思えない。ニッチなチャンネルでしかないだろう。
二輪・四輪共に、チューニングという行為に関しての知識や技術は、今や商品として幾らでもある。昔の暴走族の専売特許を、メーカー自体が商売にしているくらいだ。
だからこそ、昔のように職人技に頼りきることもない。有り余る知識や、職人の技術を、いかに上手く自分でブレンドするかということだと思う。
夢がない時代だ。しかし私がこだわっている二輪オフロードの世界だけは、少し様子が違う。
二輪オフロードだけは、未だに6割以上が乗り手の体力と技量で決まる原始的な世界である。
最新技術が入り込む隙間はまだまだ少なく、マシン云々より、単に自分が出来るか出来ないかだけの、「冷徹」な空気が占めている。
またそのジャンルの人間たちは、馬力云々などとは言わない。そんなことよりも、運動でもして基礎体力を上げた方がライディングも速くなるし、金もかからないと知っているからだ。
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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968