Rolling 40's VOL.115 モーターショー三昧
更新日:2024.09.09
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ここ半年で、東京モーターショー2017、東京オートサロン2018、東京モーターサイクルショー2018と、三つの大きなモーターショーを見に行った。
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.185 2018年4月号]
text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.185 2018年4月号]
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VOL.115 モーターショー三昧
とくに東京モーターサイクルショー2018は、ヘルメットインカムで有名なサインハウス社のウェブコマーシャルに出ている御縁から、同社の特設ブースにてトークライブを行った。またこのイベント参加は今年で3年目である。
そんな勢いで、最新の「乗り物文化」のトレンドに触れていると、過去と現在を含め、簡単には言いきれない複雑なものが見えてきた。
子供であった昭和の時代から、私はこの手の大きな展示ショーが大好きであった。とくに記憶に鮮明なのは、「スーパーカーショー」と「宇宙博」だ。目に映る、夢の世界からそのまま出てきたようなマシンや巨大ロケットに息を飲み、子供ながらに、世界の大きさに触れたような気がして感涙した。
また80年代には、改造車ブームの象徴でもあった「東京エキサイティングカーショー」、後に「東京オートサロン」などのチューニングブームは青春を彩った。飛び交う改造500馬力などという言葉が、20歳前後であった私の心を直撃した。
そして過去のそれら全てに共通するイメージは、果てしなく広がり続けるような「直進的」な志向である。だがここ10年のその手のショーというのは、どちらかと言うと「内向的」である。簡単に言うと「男の子」が喜びそうな、分かりやすい性能は、技術的には行き着いてしまったということだ。
もちろん実際には乗り物の技術というのはとてつもない進化をしている。とくに自動運転の進化などはSF並みのもので、500馬力云々などという表面的なものとは次元の違う技術レベルだということは分かっている。ハイブリッド車や新型バッテリー、燃料電池も然り。
だが同時に、そんな言葉に「男の子」が目を輝かせるかという疑問がある。車内からハンドルやアクセル、ブレーキがなくなってしまうような完全な自動運転化は、オッサンである私にとっては色々と便利である。飲みに行った帰りもタクシーを呼ばなくて済むはずだ。
だがハンドルがなくなってしまうと、それは自動で動くエレベーターに乗っているようなもので、「男の子」にとって楽しいはずがない。 乗り物を運転をするというのは人間が、馬、牛、象、ラクダなど、大型動物の背中に乗り始めたときからの「本能」である。自動運転というのは、その「本能」を捨て去ることでもある。
昭和を未だに引きずっているような世代としては、どうしても受け入れがたいものがある。誰が何と言おうとも、運転と言うものは本能レベルで楽しいはずなのだ。
そんなことだから、昨今の昭和組たちは、みんな「旧車」に走ってしまうことが多い。または中身は最新のまま、外観がレトロイメージというようなコンセプトが、四輪、二輪ともに多くなってきた。
AE86レビン改を爆音で乗り回していた19歳の頃、私はクラシックカーのレストアとかにお金をかけているようなオッサンが大嫌いだった。クラシックカーを何台も保管しているようなお金持ちの知り合いから、クラシックカーを乗りに来ないかと誘われたときは虫唾が走ったくらいである。
そんなことよりもレビンの排気量をボアアップしたり、果てはターボを付けてポルシェやフェラーリをぶっちぎってやると思っていた。どれ程の意味があるはずもないのだが、とにかく前に向かいたかったのだ。
そんな私であるが、つい最近、当時に乗っていたのと全く同じようなレビンに触れる機会があった。走り屋風に少し改造されてしまっているそのクルマを、オーナーはノーマル風に戻すようなレストアの最中であると言う。同車は1983年、私が中学3年のときに発売されたクルマであり、考えると既に立派なクラシックカーである。
青春時代に乗り回していたのと似たレビンを見ながら、私であってもノーマル風に戻して、普通に乗り回したいなと思ってしまった。その昔に夢見た排気量アップやターボの後付などは、オッサンになった今では経済的に可能かもしれないが、そんなことをしようとは露ほどにも思わなかった。
ふと、19歳の私にクラシックカーを乗りに来ないかと言ってくれたお金持ちの知り合いというのは、当時、今の私と同じくらいの年齢だったということも思い出した。彼はもう随分前に亡くなってしまったが、彼が私にクラシックカーを運転させてくれるという、又とない素晴らしい機会を自ら捨ててしまった若さを恥じた。
直進一辺倒という若さは、誰もが通り過ぎる大事な季節であるが、同時に真後ろにある大事なものを忘れ去ってしまうことも多い。乗り物の進化も然りなのかもしれないと、複雑な気持ちになった。
そんな勢いで、最新の「乗り物文化」のトレンドに触れていると、過去と現在を含め、簡単には言いきれない複雑なものが見えてきた。
子供であった昭和の時代から、私はこの手の大きな展示ショーが大好きであった。とくに記憶に鮮明なのは、「スーパーカーショー」と「宇宙博」だ。目に映る、夢の世界からそのまま出てきたようなマシンや巨大ロケットに息を飲み、子供ながらに、世界の大きさに触れたような気がして感涙した。
また80年代には、改造車ブームの象徴でもあった「東京エキサイティングカーショー」、後に「東京オートサロン」などのチューニングブームは青春を彩った。飛び交う改造500馬力などという言葉が、20歳前後であった私の心を直撃した。
そして過去のそれら全てに共通するイメージは、果てしなく広がり続けるような「直進的」な志向である。だがここ10年のその手のショーというのは、どちらかと言うと「内向的」である。簡単に言うと「男の子」が喜びそうな、分かりやすい性能は、技術的には行き着いてしまったということだ。
もちろん実際には乗り物の技術というのはとてつもない進化をしている。とくに自動運転の進化などはSF並みのもので、500馬力云々などという表面的なものとは次元の違う技術レベルだということは分かっている。ハイブリッド車や新型バッテリー、燃料電池も然り。
だが同時に、そんな言葉に「男の子」が目を輝かせるかという疑問がある。車内からハンドルやアクセル、ブレーキがなくなってしまうような完全な自動運転化は、オッサンである私にとっては色々と便利である。飲みに行った帰りもタクシーを呼ばなくて済むはずだ。
だがハンドルがなくなってしまうと、それは自動で動くエレベーターに乗っているようなもので、「男の子」にとって楽しいはずがない。 乗り物を運転をするというのは人間が、馬、牛、象、ラクダなど、大型動物の背中に乗り始めたときからの「本能」である。自動運転というのは、その「本能」を捨て去ることでもある。
昭和を未だに引きずっているような世代としては、どうしても受け入れがたいものがある。誰が何と言おうとも、運転と言うものは本能レベルで楽しいはずなのだ。
そんなことだから、昨今の昭和組たちは、みんな「旧車」に走ってしまうことが多い。または中身は最新のまま、外観がレトロイメージというようなコンセプトが、四輪、二輪ともに多くなってきた。
AE86レビン改を爆音で乗り回していた19歳の頃、私はクラシックカーのレストアとかにお金をかけているようなオッサンが大嫌いだった。クラシックカーを何台も保管しているようなお金持ちの知り合いから、クラシックカーを乗りに来ないかと誘われたときは虫唾が走ったくらいである。
そんなことよりもレビンの排気量をボアアップしたり、果てはターボを付けてポルシェやフェラーリをぶっちぎってやると思っていた。どれ程の意味があるはずもないのだが、とにかく前に向かいたかったのだ。
そんな私であるが、つい最近、当時に乗っていたのと全く同じようなレビンに触れる機会があった。走り屋風に少し改造されてしまっているそのクルマを、オーナーはノーマル風に戻すようなレストアの最中であると言う。同車は1983年、私が中学3年のときに発売されたクルマであり、考えると既に立派なクラシックカーである。
青春時代に乗り回していたのと似たレビンを見ながら、私であってもノーマル風に戻して、普通に乗り回したいなと思ってしまった。その昔に夢見た排気量アップやターボの後付などは、オッサンになった今では経済的に可能かもしれないが、そんなことをしようとは露ほどにも思わなかった。
ふと、19歳の私にクラシックカーを乗りに来ないかと言ってくれたお金持ちの知り合いというのは、当時、今の私と同じくらいの年齢だったということも思い出した。彼はもう随分前に亡くなってしまったが、彼が私にクラシックカーを運転させてくれるという、又とない素晴らしい機会を自ら捨ててしまった若さを恥じた。
直進一辺倒という若さは、誰もが通り過ぎる大事な季節であるが、同時に真後ろにある大事なものを忘れ去ってしまうことも多い。乗り物の進化も然りなのかもしれないと、複雑な気持ちになった。
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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968