EVオヤジの未来予想図 VOL.3 古き良き時代の崩壊

アヘッド EVオヤジの未来予想図

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何を隠そう富士スピードウエイの30度バンクを駆け下りるホンダS800のエキゾーストノートに頭がいかれ、1966年の日本GPで滝新太郎の乗る906カレラ6のフラット6の排気音にシビレ、今の私が出来上がったといってよい。

text:舘内 端 [aheadアーカイブス vol.180 2017年11月号]
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VOL.3 古き良き時代の崩壊

VOL.3 古き良き時代の崩壊

それには下地があった。中学1年生のときに子供用自転車にイタリア製エンジンを取り付け自作したバイクで、必死で追いかける官憲を振り切り、街を疾走した私は、エンジンから一生逃れられない刻印を押されたのだった。

高校生になり、二輪の免許を取った私は大手を振ってトーハツ・ランペットのマフラーを外して走り回り、2サイクル・エンジンの爆音にしびれ、再び官憲と教師に追い掛け回される日々を送った。

やがて大学を出た私は、横浜にある小さな、小さなレースカーを作る会社に入り、設計図を引く傍らで溶接し、リベットを打ち、FRPのガラスの粉でからだじゅうを痒くして、夢中で仕事をした。しかし、未来の日本のロータスになるはずの小さな会社は、オイルショックのあおりを受けて傾き、レースカーを作れなくなった。

レースカーの設計者として食い詰めていた私を救ったのが、モータースポーツ雑誌だった。原稿用紙にレースカーはこんなに面白いと書くとお金を頂けた。後には市販車を扱う自動車雑誌から原稿を依頼され、2人の子供と妻の生活を支えることができた。原稿料で生活を支えながら、レースカーの設計をして、土日はサーキットで過ごす生活は、お金は入らずとも至福の人生だった。

そんな折、旅費以外の金は出さないが(つまり原稿料はタダ)フランスGPを取材してほしいという依頼が某モータースポーツ雑誌から舞い込んだ。

ついでにと自費でイギリスGPも取材して帰国すると、富士スピードウエイで開催される日本F1GPに国さんが出るので手伝ってほしいという依頼が舞い込んだ。伝説の高橋国光とレースがやれると、なりふり構わず手弁当でチームに加わり、ティレル007に乗る国さんを完走9位に導けた。

おかげさまでモータースポーツの頂点に立てた私は、市販車の評論のお仕事も頂けるようになった。80年代に入るとカー・オブ・ザ・イヤーも始まり、もっとも若い評論家として選考委員に選ばれ、やがて自動車雑誌『NAVI』が創刊され、徳大寺さんといっしょに仕事をさせていただけるようになった。

そして1989年にユーノス・ロードスター、NSX、スカイラインGTーR、セルシオが登場し、国産車が頂点を迎えた。モータースポーツではホンダがF1で連勝し、セナとマンセルがモナコで、シルバーストンで競い合った。自動車と共にあることが楽しく、幸せだった。

だが、90年代に入ると自動車との愛に満ちた生活は、バブル経済の崩壊と共にガラガラと音を立てて崩れていった。同時に、自動車による大気汚染と地球温暖化という環境問題が鎌首をもたげた。さらに水面下では石油の枯渇というエネルギー問題がマグマを煮え立たせていたのだった。自動車はこの2つの問題の解決なしには生き残れなかった。

このままでは、大好きなモータースポーツも心行くまで楽しめない。せっかく買ったジャガーXJSにも乗れない。自動車って楽しいぞと書くことも、しゃべることもできない。

しかし、それでは食べていけない。もがき苦しんだ私は、「そうだ。移動の原点にたち戻ってみよう」と、東京からスズカサーキットまで歩くことにした。1992年10月。友人たちと日本橋を出発し、2週間後にF1GPが開催されることになっていたスズカをめざした。

スズカから戻った私に待っていたのは、EVの素晴らしいスポーツカーだった。それは私に自動車と共に生きられることを教えてくれた。しかし、それから今日まで、それまで以上に過酷な人生が待っていようとは…。トホホ。

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text:舘内 端/Tadashi Tateuchi
1947年生まれ。自動車評論家、日本EVクラブ代表。東大宇宙航空研究所勤務の後、レーシングカーの設計に携わる。’94年には日本EVクラブを設立、日本における電気自動車の第一人者として知られている。現在は、テクノロジーと文化の両面からクルマを論じることができる評論家として活躍。
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