TOWARD 2020 自動車の未来を考える

アヘッド 自動車の未来を考える

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2020年の東京オリンピックに向けて特に開催地となる東京では、空港、鉄道、都市開発、そして道路など、インフラ整備が具体的な形となって進められている。

まとめ:今尾直樹、若林葉子 [aheadアーカイブス vol.174 2017年5月号]
Chapter
TOWARD 2020 自動車の未来を考える
舘内 端の"自動車と身体性"をめぐる旅
小山薫堂が考えるスマート ドライブ

TOWARD 2020 自動車の未来を考える

私たちの暮らし、クルマをめぐる環境も変化していくはずだ。
私たちが不安に思っていることの根っこにはどんな問題があるのだろうか。
あるいはクルマをめぐって、どんな明るい未来を描けるのだろうか。
日本におけるEVの第一人者である舘内 端氏と、
柔軟な発想で「スマートドライブ」を提案する
小山薫堂氏にお話をうかがった。

舘内 端の"自動車と身体性"をめぐる旅

photo:三浦康史

若林 館内さんは、「クルマでいちばん大事なことは身体性だ」ということをご自身のブログでもおっしゃっています。まず、その意味を教えてください。

館内 人間という存在は、霊性、精神とかあるといわれていますが、ともかく神経もあるし、痛い熱いもある、言葉も発する。それはすべて身体を経由しているわけです。つまり、人間というのは身体で世界を知る。

で、自動車というのは身体の拡張で、ものを知っていくためのツールだと思っているんです。世界はこうなっている、ということを知っていくツールのひとつである、と。バイク的な世界、自転車の世界、徒歩、ランニングの世界もあるんですが、それぞれでそれぞれの世界を知っていくことによって人間というのは存在できている。

ところが全自動運転車の登場は、最終的には運転によって世界を知るという行為が奪われていく。だったら、自動車なんて、どうでもいいものになってしまう。だから、おやめなさい、ということです。
▶︎舘内氏らの手がけた『電友1号』はFJ1600の車体を電気フォーミュラカーにコンバートしてつくったコンバートEV。1994年2月に完成し、3月にアメリカのEVレースに出場した。(写真・矢嶋 修)
若林 それと電気自動車(EV)とはどうつながるのですか?

館内 私は「日本EVクラブ」の代表ですが、EVなんてのはそういう意味ではメチャクチャな存在で、本当にバイワイヤです。身体が喜ぶような加速の仕方だとかピックアップだとかはコンピューターでできちゃう。

で、とくにエンジンの技術者たちが100年にわたって追求してきたのはオートマチックな動力なんですよ。排気音がないとかブルブル振動しないとか爆発音が聞こえないとか、アクセルを踏んだら非常に素直に反応するとか。

若林 なるほど。

館内 だからEVが出てきたら全滅しちゃう。エンジンのエンジニアたちが目指していたところにEVがある。EVは彼らの努力がゼロでもできちゃうんですよ、彼らが目指してきたものが。そのいい例がテスラです。

イーロン・マスクが自動車エンジニアを呼んできてやったら、い~いクルマができちゃった。テスラ・モデルSの最新型は0-100㎞/h加速2.7秒。マセラティ・ギブリが5.6秒だ、すごいだろ、って威張れなくなっちゃった。EVが出てきたらそうなる、といっていたのは俺なんだけど、どうするんだ、って。
▶︎日本EVクラブオリジナルのEV組み立てキット『ジャメ・コンタント・オマージュⅡ』。原付四輪のナンバーも取得できる。現在は生産停止中。(写真・三浦康史)

若林 ということはEVのほうが身体性があるということなんですか、内燃機関よりも。

舘内 擬似的にそう見せかけることができる。ま、エンジンの方がダイレクトではあります。たとえばエンジンの爆発感覚は、心臓の鼓動によく似ている。リズムがね。人間が呼吸するように呼吸する。振動がない世界は死の世界ですけど、ちゃんと振動がある。リズミカルな排気音が聞こえてきて、それが洗練されているとかいないとかが、昔の自動車評論のテーマだった。

ただ、自動車評論家のいう進歩とか発展とかは、じつはそのエンジン車の特性をことごとく奪うものだった。だって、エア・サスペンションとかつけるんだから、それでは乗ってる自分が路面を感じなくなる。

若林 う~ん。

館内 そうすると路面という世界がわからない。わからないまま目的地に着いて、私は世田谷の松原から知らないうちに御殿場に来ちゃった、ということになる。
 
これは中村雄二郎さんという、僕の大好きな哲学者が言ってる話ですけど、バリ島に「パリン」という病がある。バリでガムランのうまい小学1年ぐらいの男の子がいて、その子の演奏をほかの村でも聴きたいというので、クルマに乗せてその子の村からほかの村までつれていったら具合が悪くなっちゃった。

村に戻っても治らない。祈祷師のところに連れて行ったら、祈祷師がこの子は「パリン」だと。自分が移動した村まで歩いて行けば、自分が何をやったかがわかって治ると。いまの現代人はだから、みんな「パリン」になってるんです。
▶︎2009年にミラEV(日本EVクラブ製作)で東京〜大阪555.6kmを途中無充電で走行。電気自動車1充電航続距離世界最長記録(ギネス世界記録認定)。2010年にはさらに航続距離を伸ばし、自ら記録を塗り替えた。(写真・高橋 進)

若林 以前、鈴鹿まで歩かれましたよね、日本橋から。なんで歩こうとなったんですか? いまの「パリン」の話とつながるんですか?

館内 鋭いことを聞きますね。正直にいうと誰も信じないので誰にも言ってないんですけど、ある日、「歩け」といわれたんです。

若林 天から?

館内 そう。鈴鹿まで歩いたのは'92年の10月です。このときは自動車が排ガス問題でむずかしいところにきていた。それと石油問題とで、このまんまじゃ、俺、レースやれない。

レースといってもドライバーとしてではなくて、レースカーの設計ですけど、好きなものですから、このままじゃいけない、と10年ぐらい、個人的に悩んではいたけれど解答は出ない。どうしたらいいのか、と考えていた時に降ってきたわけです。自分が考えたみたいじゃないみたいに、「歩け」と。

若林 ははぁ……。

館内 理論的にいうとモビリティ、移動の原点は人間の足だと。だったら歩いてみよう。目立ちたがり屋だから山の中を歩いてもしようがない。東海道を歩きましょうと。

で、僕はモータースポーツで生きている人間だから鈴鹿に行こうと。鈴鹿に行くとF1が300㎞/hで走っている。歩くスピードは、休んでいる時間を入れると平均3㎞/h。3㎞/h対300㎞/hで、どっちに価値があるのか? 同じだ、といったらおもしろいだろうな、と。

それと、自動車がもう少し延命してほしい、もう少しモータースポーツを楽しみたい、というのを考えると、鈴鹿で再生したい。これは悟りを開くための修行、法難だと思ったんです。実際、歩いてみると、足にマメができるでしょ。そのなかにまたマメができる。二重三重のマメができる。ツライと思うでしょ。これを法難だと思って般若心教でも唱えて歩くと、1週間たったら5分で痛みが消えるようになる。

次に訪れるのは、涙。こんなに幸福でいいんだろうかと涙が出てくるんです。そんなふうに無我の境地で1時間歩いて、それ以上歩くと疲れちゃうから5分から10分休む。
▶︎日本で“EV”と言えば舘内 端氏である。誰よりも早くEVに可能性を見出し、普及活動に熱意を注いだ。(写真・三浦康史)

若林 ……ははぁ。

館内 これまた神秘的なんですが、歩いている最中に身体ががんがん元気になってきて、10月下旬、いまはもう温暖化で寒くないけど、当時は寒い中、夜でも短パン、半袖で歩いていける。身体が蘇ったんです。

それからしばらくして小野昌朗という僕らと同じ世代でレーシングカーの設計をやっていた仲間が、「EVのスポーツカーができたから乗ってみないか」というんで、彼らが東京電力のお金でつくったIZAというのに乗ったんです。これがいいんだ。

音はしないし、当たり前ですけどね、スピード170㎞/hぐらい出て速いし、ビックリした。風切音も少なかった。浮遊状態で、湖面を走るカヌーみたいな感じ。「これはいいや」と思った。

若林 排ガスも出しませんね。

館内 これなら自動車も俺も、まだ生きられるかもしれない、と。それで、'93年に、私の後輩ふたりに声をかけて、金はなんとかするからつくろう、と3人で頭グチャグチャにしながら……。電気初めてですよ、3人とも。モーターなんて触ったことがない。でもレーシングカーはつくっているから、だいたいわかる。

それで、1年かけてつくって、'94年の2月6日にM2という、当時、用賀にあったマツダのアンテナ子会社で発表会をやったんです。この電気フォーミュラカーでアメリカのフェニックスの「APS500」という電気自動車のレースに出ます、と。

そしたら、マスコミが150社来ちゃった。このあいだの浅田真央ちゃんの引退会見には負けるけど。鈴鹿まで歩いて、帰ってきて、「日本EVクラブ」設立なんです。それでEVにどーんと入り込んでいく。それで、家2軒失ったんですよ。

若林 失ったんですか?

館内 より正しくいうと、働いている分をちゃんと家に入れていれば、都内に家2軒分建てられそうな金をEVクラブでつかっちゃった(笑)。その電気フォーミュラカー「電友1号」をつくれ、というのも啓示なんです。金はない。つくり方もわからない。

だけど、なんかの直感でつくれると思うんだね。ともかく、EVは「破壊の神」だと僕は思った。いろんなものを壊していく。だってエンジン・エンジニアなんか立場がなくなってくるでしょう。マニアはマニアで、音も振動もなくなる、ヒール&トウもなくなっちゃう。だれでもつくれちゃう。だれでも運転できちゃう。そこに自動運転なんか加わってごらんなさいよ、自動車は完璧に終わりでしょ。
▶︎2013年にEVスーパーセブンによる日本一周急速充電の旅を敢行。9月24日に東京をスタートし11月18日に東京でゴールした。(写真・寄本好則)

若林 でも、当時はEVに夢を託されたわけですね。自動運転は当時、すでにあったんですか?

館内 世界初の「レーンキープサポートシステム」を採用した4代目シーマの登場が2001年ですから、90年代の初めは研究段階だった。だけど、人工知能はつくれない、ということはすでに分かっていたんです、僕には。

というのは、『クルマ運転秘術―ドライビングと身体・感覚・宇宙』という本を'92年に出していて、「人間はどのように運転をおぼえていくのか」ということを身体論として書いていたから。書くにあたって、よく分からないから、じゃあ、「僕が今できないことを習得するのはどうしてやるんだろう?」とスキーを始めた。滑れなかったから。

で、自分の身体と頭脳が信号をやりとりしながら、なにをおぼえてなにが効くのかを考えながらスキーが滑れるようになろう、と。だけど、甘いんだよね、私が。スキーが面白くてはまっちゃって。

若林 ふふふ。

館内 はっと気がついたら、自分がどうして取得したかわからない(笑)。たとえば、自転車の乗り方をあなたは口で説明できますか? なんでもいいんです、箸の持ち方とかでも。簡単にいうと繰り返すしかない。繰り返すことによって神経と脳との回路をつくっていく。だけど、それだけじゃ説明できないなにかがある。

で、その『クルマ運転秘術』を書いて得たのが、「ドライビングというのはクリエーション、創造的行為である」ということ。それは世界を知っていくことである。ということは、人間、というか動物、生命体にしかできない。非生命体の人工知能には創造的行為は永久にできない。

若林 そうなんですか……。

館内 じゃあ自動車はどこに行くんだ。ということで、私としては第3、第4の啓示を待っている。毎日、高尾山にいって滝に打たれています。…あなたのその目は「ウソだ」といっていますよ。

若林 いやいや(笑)。

館内 いや、本当に悩んでいます。ひとつだけ考えていく方向として、そうはいっても人間は動くだろうと。鈴鹿まで歩いた時、木曽川と長良川の上にかかった橋を渡りながら、明日四日市について、四日市から鈴鹿は23㎞。今日歩いて、明日ちょっと歩いたら終わりかと思ったら、さみしくなっちゃって、涙がポロポロ出た。

俺は旅人になろうと思った。芭蕉とか西行のように。自動車だと、日本橋から鈴鹿まで走っても、そこまでは思わない。ところが、歩いた時はたった2週間でそういう状態になっちゃった。人間というのは、もともと動くものなんです。

清水 博という生命論の先生の本に、「移動するのが生命だ」とあります。情報を発信すること、移動すること、これが生命体だと。植物はあまり動きませんけど、それでも種を飛ばして移動する。動かないと生命体は絶滅しちゃう。じゃあ、今後、人間のモビリティはどうなるんだというと、パーソナルで動くことになるんだと思う。少なくとも、あんなでっかいSUVとかミニバンとかじゃなくて。
▶︎「日本EVフェスティバル」参加者一同の記念写真。2017年の今年は23回目を迎える。年々参加者参加者車両も増え、大盛況。(写真・三浦康史)

若林 世界を知るツールとしては…。

館内 歩く、走る、自転車、バイク、こんなもんだろうと。それは環境的にもエネルギー的にも負荷が少ないし、身体を発見していくツールとして、僕らをイキイキさせる。という目で見ると、僕のまわり、EVクラブのスタッフのなかでクルマをやめて自転車になっちゃった人がゴロゴロいる。そっちのほうが気持ちいい、と。

若林 クルマが身体性から離れてしまったことが問題なんですね。

館内 自動車が全自動運転になっていくというのは、そこにいたる過程も含めて、もっと身体性を奪っていくということだから、魅力を失う。で、ひょっと思うと旧車ブームなんだよね。自動車雑誌の編集をやっていると分かるでしょ。

若林 万年筆ブームとかも、ひとつにはそういうことがあるんだと思います。

館内 自動車でいうと、20年前のクルマはまだ走る。10年前なら十分。それならそれでいい、となっている。新型車に魅力を感じようという感性がなくなっている。ちょっと古いものをじょうずに使っていくと味わいはあるし、経済的にも負担が少ない。経済的負担が少なければそんなに働かなくてもいい。

考えてみたら、新しいものを買うために私は働いてきた。それは違うんじゃないか。頭がちょっといい人、感覚がちょっと鋭い人だったら、そうなってもおかしくない。と思うんですけどね。

若林 そう思っている人もたくさんいる、と私も思います。

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まとめ:今尾直樹/Naoki Imao
1960年生まれ。雑誌『NAVI』『ENGINE』を経て、現在はフリーランスのエディター、自動車ジャーナリストとして活動。現在の愛車は60万円で購入した2002年式ルーテシアR.S.。

小山薫堂が考えるスマート ドライブ

まとめ:若林葉子 photo:渕本智信


「コミュニケーションの力で首都高の事故を減らす」プロジェクトが発足したのは今からおよそ10年前、2007年8月のこと。小山薫堂氏が発起人となった東京スマートドライバーである。

「たくさんの人生が走っているんです」「『早く帰る』より、『無事に帰る』方がずっと大切」などのメッセージが掲げられた垂れ幕を首都高で目にしたことはないだろうか。またピンクのチェッカーフラッグにTOKYO SMART DRIVERのロゴが入ったステッカーを貼ったクルマを見たことはないだろうか。
 
思いやりをもったドライバーをスマートドライバーと呼び、スマートドライバーの輪が広がればきっと事故は減らせる。ーこうしたコンセプトは多くの人の共感を呼び、東京のみならず全国へと広がりを見せた。プロジェクトの象徴である〝褒めるパトカー〟、「ホメパト」は初代の日産「GTーR」からはじまり、現在は「TOYOTA86」、Smart「Smart forfour」の2台が活動している。 
 
そして今年。 TOKYO SMART DRIVERは、JAPAN SMART DRIVERヘとグレードアップし、新たに走り出した。発起人である小山薫堂氏にお話をうかがった。

▶︎東京スマートドライバーから発展したJAPANスマートドライバーのロゴ。全国でこのステッカーを貼ったクルマが走り回る日もそう遠くはないはず。

ーTOKYO SMART DRIVERの立ち上げから約10年が経ち、クルマを取り巻く環境は大きく変化しました。2020年の東京オリンピックに向けてその変化は加速していますね。

小山 当時はまだ自動運転なんて夢の中の話で、ここ数年ですよね。テスラのようなクルマが出てきて、自動運転の実証実験や、もっと初歩的なところで言うと自動ブレーキのクルマをセールスマンが「ブレーキ踏まないでいいですよ」と言って事故が起こるなんて。

クルマのあり方も変わってきて、昔はクルマは楽しむ要素であり、五感を刺激する乗り物だと言っていたのが、今はより道具化してきた。便利だなと思いつつ、やや残念でもあります。

ー若者のクルマ離れも随分と言われています。

小山 そのことも問題意識としてあって、クルマの楽しさとかクルマのある暮らしの豊かさを、もう一度、若者を含めたたくさんの人たちに気付いてもらえるチャンスを作れたらいいなと。
 
それから、これはTOKYO SMART DRIVERのときから言ってることですが、道はただの移動するための道具・インフラではなく、都市の表情となりうるのだということ。東京オリンピックも近づいてきていますし、運転というものが海外から来た方にとっても都市の印象になるということを改めて訴えていくことも大事だなと思っているんです。

ーそういったことがJAPAN SMART DRIVERをスタートさせたことに関連しているんですね。

小山 TOKYO SMART DRIVERは最初、首都高の中だけのプロジェクトでした。でもそれだけではなく一般道も含めた活動が大切と思ったのがひとつ。また「交通安全」だけを掲げるのには限界がある、と。事故はなくて当たり前でこれ以上広がりを見せるのは難しい。それで事故削減に加えて「エネルギー問題」と「自動運転」に焦点を当てました。
▶︎一般から広く募集した中から選ばれたメッセージが、垂れ幕となって首都高に掲げられる。注意や禁止事項といったネガティブな言葉ではなく、ドライバーの心にすーっと染み込むようなメッセージばかり。
▶︎東京スマートドライバーのステッカー。このステッカーを見かけるとほっこりとした気持ちになる。
ー具体的にはどういうことでしょう?

小山 エネルギー問題を人々が意識することによってクルマとの付き合い方、暮らし方を考えるきっかけになると思うんです。クルマだけでなく自分の暮らしの中にも変化が起きる。

ーTOKYO SMART DRIVER発足後にお話を聞いたときに、同様のことをおっしゃっていましたね。

小山 そうなんです。僕自身がスマドラを提唱し始めて穏やかになった気がするんです。今だから言えますが僕は結構な飛ばし屋で(笑)…クルマに乗ったら速く先へ行きたい、人に負けたくない、と思っていました。ところが交通安全を自分のベースに置いたら、追い越されても腹が立たなくなって、ゆっくり走ることに喜びを感じたり。

それだけでなく、道路上で作られた穏やかさが暮らしの中でも持続する。そんなに急がなくてもいいのかなとか、人に勝る必要もないのかなと、柔らかくなった気がするんです。

ー道や運転をきっかけにライフスタイルを見直す、ということですね。自動運転はどうでしょうか。

小山 自動運転をきっかけに新しいビジネスが生まれるかもしれないと思っているんです。自動運転って人々がスマートフォンを持ったのに似ている。今まで手に持っていたものに「乗る」みたいなもので、クルマ自体がデバイス化する。

ーテスラがまさしくそうですね。

小山 それで思い出しましたけど、最近、未来的で面白いなと思ったことがありました。松任谷正隆さんがロケのときに遅刻してきたんです。すごく疲れてる様子で「大渋滞にはまってほんと大変だった」と。

でも彼、テスラに乗っているので「自動運転で来たんじゃないですか?」って聞いたら、ハンドルをちょっと離した隙にテスラが「自動運転を解除します」って、解除されちゃった。「おいちょっと待て。ハンドル握ってたよ」って、クルマと喧嘩しながら来たと言うんです。 AIと喧嘩しながら来たって。あれはちょっと未来を見た気がしましたね。
▶︎悪い運転を叱るばかりでなく、良い運転を褒めよう! と生まれたのが「褒めるパトカー」、通称「ホメパト」。初代は日産「GT-R」で、ドライバーを近藤真彦さんが務め、大きな話題となった。
▶︎JAPAN SMART DRIVERのコンセプトブック。未来に向けてどのようなロードマップを引くのか、その道筋が描かれている。「交通価値」「ミチノミクス」など小山氏ならではの発想力で、クルマの未来がわくわくとした希望に満ちたものに思えてくる。
ーJAPAN SMART DRIVERでは「ミチノミクス」ということをコンセプトに掲げてらっしゃいますが。

小山 カーシェアリングが普及してクルマ自体がソーシャルな存在になってきてますよね。道って、全然知らない人が同じときに同じ場所を並行して走ってる。究極のソーシャルメディアみたいなものだと思うんです。これまでただ移動するだけのものと考えていたものが、ちょっと視点を変えてみるとそこに新たな経済価値が生まれてくるんじゃなか、と。

ひとつの道が多方面から見たときに価値を持つ。それがミチノミクスということで表されるんじゃないかと考えているんです。こういう考え方に賛同してくれる地方も増えてきていて、それが地域と地域を繋いだり、地域同士の交流のきっかけになって地域活性につながっていったらいいなと思っています。

ーちょっとゆるきゃらに似ていますね。

小山 あー確かにそうですね。ある意味、心のゆるきゃらみたいなもので、形はないけれど哲学や精神性を持っていて、ソフトのキャラクター。ゆるきゃら? ソフきゃら…(笑)?

ーそういう観点でみると、2020年の東京オリンピックはよいきっかけになるかも知れませんね。

小山 僕はいつも言ってるんですけど、オリンピックは「規制緩和」の好機だと思っているんです。例えば特区を作るとかね。マッターホルンが見えるスイスのツェルマットは電気自動車しか入れない。バスも電気自動車です。街に入った瞬間にすごく空気がきれいな感じがするんですね。日本でも都心に電気自動車しか入れない特区を作る、とかね。

ーそうすると電気自動車の普及も進むし、人も集まるかも知れない。

小山 あと道に名前を付ける、とか。

ー海外の街はたいてい通りに名前が付いていて分かりやすいけど、逆に海外から来た人は日本の住所は分かりにくいと言います。そういうふうに考えていくと可能性が広がりますね。

ー小山さんの活動は上から目線で訴えるのではなく、未来はみんなで作りましょう、一緒に考えていきましょうというスタンスですね。

小山 
〝くまモン〟もそうでしたけど、僕は種は作るけど、周りの人が育てていくのが一番広がりやすいと思っているんです。

ー「共感」が大事といつもおっしゃっています。

小山 
ええ「共感」だと思います。いくら上から先導するように言っても、本当のところでは自分ごとにはなりません。共感したときに初めて自分のなかに気づきが生まれる。共感したときが一番メッセージが染み込んでいく。だから呼びかけ・巻き込み型で活動していくことが理想的なこのプロジェクトのあり方だと思っています。

小山薫堂/Kundo Koyama
放送作家。脚本家。
1964年 熊本県天草市に生まれる。
大学在学中に放送作家としての活動を開始し、これまでに「カノッサの屈辱」「料理の鉄人」「東京ワンダーホテル」「ニューデザインパラダイス」など斬新な番組を数多く企画・構成。初の映画脚本となる「おくりびと」では数々の賞を受賞。"くまモン"の生みの親でもある。

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まとめ:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。まとめ:
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