特集 第三京浜物語

国道466号、第三京浜道路。東京と横浜を結ぶ片側3車線のこの自動車専用道路は、ワインディングでもなければ、景色を眺めるための道でもない。しかし、クルマやバイクで走る人を惹き付ける何かがある場所なのである。

全長は、16.6キロ、時間にしてわずか15分程度で駆け抜けてしまう「第三京浜」の魅力を今月は、探ってみたい。

text:世良耕太、まるも亜希子、山下敦史、嶋田智之 photo:長谷川徹 [aheadアーカイブス vol.117 2012年8月号]

Chapter
第三京浜は オリンピックの年に 生まれた 〜第三京浜の歴史を探る〜 世良耕太
“サンビャク”を出した と誰かが言った 〜保土ヶ谷パーキングの熱い夜〜 まるも亜希子
「サマータイムブルース」 を歌いだす道 〜音楽の舞台になった第三京浜〜 山下敦史
第三京浜の向こう は憧れの場所だった 〜横浜、横須賀、そして湘南へ続く道〜 嶋田智之

第三京浜は オリンピックの年に 生まれた 〜第三京浜の歴史を探る〜 世良耕太

東京都世田谷区野毛の「玉川インターチェンジ(以下IC)を起点に、神奈川県横浜市の神奈川区と保土ヶ谷区に跨がる「保土ヶ谷IC」を結ぶ全長16・6㎞の自動車専用道路が「第三京浜道路」だ。

「道路」を省略して「第三京浜」と呼ぶことが多い。京浜(「けいひん」あるいは「ケーヒン」の由来について説明しておくと、東京と横浜の「京」と「浜」を結びつけた造語である。鉄道の路線名や鉄道会社、工業地帯やオートバイの部品メーカーなどでなじみの深い名称だ。東京〜横浜間の地域一帯を指す言葉に「東横」もあるが、京浜とは組み合わせ違いである。

「第三」とあるからには東京と横浜を結ぶ3番目の道路であることは容易に想像がつく。もっとも海寄りを走るのが第一京浜(国道15号)で、そのやや内陸を走るのが第二京浜(国道1号)。これら二大幹線道路に続いてさらに内陸側に計画されたのが、第三京浜というわけだ。

基本ルートは1954年に東急電鉄が計画した「東急ターンパイク」が元となっている。東急は沿線開発を目的に渋谷〜江ノ島間に自動車専用道路を計画したが認可されず(替わりに東急は田園都市線の敷設に着手した)、建設省(当時)の事業として整備されることになった。目的は、東京〜横浜間の渋滞の解消だ。

当時、東京〜横浜間の自動車交通は、第一京浜、第二京浜に加え、産業道路(国道131号:大田区羽田空港〜大森東2丁目)と中原街道(東海道=国道1号の脇街道の位置づけ)の4路線に頼っていた。だが、いずれの道路も平面交差が多く渋滞が激しかったため、これを解消するために自動車専用道路を造る必要があるとの判断に至ったのだ。それが、第一と第二は一般道なのに、第三だけが有料道路となった背景にある。当初は国道ではなく、「都県道東京野川横浜線」として扱われた。

撮影資料『第三京浜道路 工事報告』(日本道路公団 高速道路京浜建設局)

事業認可は1961年9月。玉川IC〜保土ヶ谷IC間を結ぶルートは、可能な限りフラットな直線で結ぶように計画された。建設は玉川IC〜京浜川崎IC間と京浜川崎IC〜保土ヶ谷IC間に分けて実施され、玉川IC〜京浜川崎IC間の2.5㎞が東京オリンピック開催年の1964年10月に暫定4車線で開通する。

環状8号線上に設けられた玉川ICから本線に流入すると、すぐに多摩川に架かるボックスプレートガーター橋の多摩川橋梁(橋長382・9m/幅員30・8m)を渡る。

京浜川崎ICから先は、多摩川の流域に発達した平地部を経由し、横浜市港北区〜神奈川区の丘陵地帯を通過して、保土ヶ谷ICで国道1号と接続する。京浜川崎IC〜保土ヶ谷IC間の14.1㎞が開通したのは1965年12月19日ことだった。

開通時のICは、玉川、京浜川崎、保土ヶ谷のほかに、港北も設置される。制限速度は80㎞/h(カーブがきつい玉川IC〜玉川料金所間は部分的に60㎞/h)に設定。中央分離帯によって上下線が分離され、日本で初めての6車線道路になったのである。

完成した「都県道東京野川横浜線」には「第三京浜道路」の名称が与えられ、東京と横浜を結ぶ重要な幹線道路のひとつとなって現在に至る。いつ通っても空いているように感じるが、上下6車線の余裕のあるつくりに加え、高低差が少なくカーブの曲率が大きい走りやすい設計による効果が大きい。1日16〜17万台の交通量があっても渋滞を起こさない、懐の深い設計なのだ。

1993年には都県道から国道466号に変更。1995年4月には都筑IC(および上り都筑PA)が供用開始となり、2005年9月に国土交通省が全国道路網の一般有料道路に指定。翌月にはNEXCO東日本の管轄路線となった。だが、独立した有料道路時代の低い料金設定(玉川IC〜保土ヶ谷IC間・普通車250円)は維持されており、走りやすさと合わせて第三京浜が支持を集める理由のひとつとなっている。

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text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/

“サンビャク”を出した と誰かが言った 〜保土ヶ谷パーキングの熱い夜〜 まるも亜希子

16・6㎞を最速で駆け抜けるのは、どこの誰のバイクなのか、そのバイクは、どんな改造をほどこしているのか。毎週土曜日の夜、ライダーたちのプライドを賭けた闘いが、深夜の第三京浜で繰り広げられた。その行方を目撃しようと保土ヶ谷パーキングに集まりはじめたギャラリーは、全盛期で数百人にものぼったという。'80年代後半から'90年代前半にかけての話である。
 
いったいあれは、何から始まったのだろうか。バイクブームの延長線にあったものなのか、アナログ時代の功績なのか、それとも単にバブルの成せる技だったのか。その真相を確かめるために会いにいったのは、株式会社「イエローコーン」の代表取締役、杉田 均氏だった。アパレルメーカーとして今年で、創業25周年を迎えるイエロー コーンは、モータースポーツシーンでも二輪の全日本選手権をZX-9Rで戦い、四輪のJGTCには、マクラーレンF1GTRで参戦していたのでご存知の方も多いだろう。

若い頃からアパレル業界で働いていた杉田氏は、当時から時折フラっと、カワサキの〝Z〟で第三京浜へ走りに行っていたという。

しかしそこを走る杉田氏のバイクは、素人とは思えない本気のチューニングパーツに彩られていた。

「まだレースでしか使われていなかったパーツを早くから付けて走ってましたね。'81年にはダイマグ、'82年にはロッキードのキャリパーを入れてましたから。それで第三京浜に走りに行くと、見るヤツが見れば分かるので保土ヶ谷PAで話し掛けられたりして。こっちも見せびらかしたいってのがあって、よく通っていました。そこからだんだん口コミで第三京浜にバイクが集まり始めたんですよ。そこで話すことといったら、何速で何回転まで回ったとか何キロ出したかって、そればっかり」。

'80年代に入り、スズキの1100カタナやホンダのCB1100Rといったモンスターマシンが次々に登場してくる中、杉田氏は'70年代に設計されたZ1-Rでそれらに勝つことに燃えた。エンジンチューニングを自ら行い、第三京浜で片っ端から挑戦者を叩きのめしていったのだ。

その一方で杉田氏は、'83年ころから鈴鹿8耐用にチームTシャツやジャケットを作ってくれないか、とのオファーを受けはじめる。杉田氏の才能は本業のアパレルでも開花しはじめ、ついに'87年11月、アパレルブランド「イエローコーン」が誕生。そして杉田氏は一気に攻めに出る。

「自分のZ1-Rが最速だという確信はありました。それを最も効果的な方法で見せれば宣伝になる。あとは、勝手に広がるはずだと考えたんです。そこで僕は、第三京浜をステージにしました。'88年の春からバイク雑誌と組んで、保土ヶ谷パーキングに何台ものモンスターマシンを毎週土曜の深夜に、集め続けたんです」。

イエローコーン=「危険な戦士」の伝説は全国に広まり、著名なカスタムショップがデモカーを持ち込んでくるまでになる。しかしイエローに彩られたカスタムバイクは、ぶっちぎりの強さでギャラリーを魅了し続けた。いつしかギャラリーの三分の一近くがイエローコーンのジャケットを身に纏っていたというから、まさに伝説のブランドになったのだ。

ジャケットには創業当初から、「HIGHWAY THE 3RD」(第三京浜の意)の文字が変わらずに刻まれている。第三京浜とは、自分にとって、なくてはならなかったものであり、イエローコーンを育ててくれたものだという杉田氏。鮮やかな黄色いマシンの「第三京浜の伝説」は、これからもライダーたちに語り続けられるのだろう。

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text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。
ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。

「サマータイムブルース」 を歌いだす道 〜音楽の舞台になった第三京浜〜 山下敦史

天気図は 曇りのち晴れの予報

週明けの第三京浜 選んだ
流れる雲の切れ間から 
吸い込まれそうな 青空 …
  
「サマータイムブルース」

作詞・作曲 渡辺美里(日本音楽著作権協会(出)許諾第1209611-201号)

これは懐かしい渡辺美里のヒット曲「サマータイムブルース」冒頭部分で、作詞・作曲も本人が手がけている。歌の主人公が必ずしも作者自身とは限らないけど、サビと並んで重要な歌い出しで『第三京浜 選んだ』と「選んだ」のは間違いなく彼女自身だ。

この曲以外にも、第三京浜が登場する歌は少なくない。ウィキペディアで見ただけでも杏里の「ボーイフレンド」、原由子の「嵐の第三京浜」、石黒ケイの「Driving Crazy 第三京浜」など10曲近くが並ぶ。

リストにないところだと、森山直太朗の「Q・O・L(Quority of Life)」、 PUFFYの「ハッピーバースデイ」などは知られている方だろうか。昔の曲なら、南 佳孝の「スローなブギにしてくれ」も仲間に入れて欲しい。だがこれは直接歌詞に出てくるのではなくて、映画の方の舞台が第三京浜なんだけれど。

話がそれた。横浜とか横須賀とか、「街」を唄った歌はそれこそ桁違いに多いだろうが、鉄道路線ならまだしも、特定の道路が歌に唄われるケースはそう多くないように思う。いったい、この道の何が人を惹きつけるのだろう。

第三京浜。世田谷、環状八号線から玉川インターチェンジを通って、横浜の保土ヶ谷インターまでたった16.6㎞というささやかな自動車専用道路だ。都内から横浜、神奈川方面へ抜けたいなら、他にいくらも道はある。第一京浜(国道15号)に第二京浜(国道1号)、国道246号に東名高速、横羽線に湾岸線、よりどりみどり。

いずれも東京と神奈川を隔てる多摩川を渡って行き来するという点に関しては変わりない。それなのに、なぜ第三京浜なのか。実はその理由は、おそらく単純なのだ。じゃあどうしてさっさと書かないのかというと、ちょっと気恥ずかしいから。それは、『青春』とか『夏』とかと直結してると言えるからだ。

もっと客観的に分析することはできる。歌に出てくるような若い世代が多く暮らし、また遊ぶ場所が多い都心の西側、特に渋谷〜世田谷近辺から、横浜方面に移動しようとすると、第一、第二京浜や横羽線では海寄り過ぎてアクセスが悪く、ニイヨンロク(国道246号)や東名では陸寄り過ぎて横浜が遠い。

必然的に第三京浜を通ることになる。人の動きで言うならそうだ。使う人が多ければそこにドラマや思い出が生まれ、そのいくつかは、先に挙げたような歌となって結晶する。過去から現在までこの道を通った多くの人たち、それぞれの思いや物語が積み重なり、第三京浜という道を特別なものに変えていったのだ。

でもそれだけじゃない、と僕は思う。実際にこの道を走ってみると、横浜に出るとき便利であるとか、青春時代に通った思い出の道だ、とかいう以上のものを感じるはずだ。

都内からニイヨンロク(か駒沢通り)を下って、環状八号で玉川ICへ。くるりと回って第三京浜に上がっていくと、目の前にはうそみたいなパノラマの空が広がる。一瞬、すべてを忘れる。広い多摩川で東京を断ちきった向こうは、もう非日常の別世界だ。

これは儀式だ。道なりに走って県境の川を越えるのでは感じられないであろう、東京という日常から、非日常へと至る儀式。東京のごちゃごちゃした街並みを、ごちゃごちゃした感情もろとも振り切るような、このわずかな瞬間に、第三京浜の魔法がある、と僕は思う。

「サマータイムブルース」冒頭の『吸い込まれそうな 青空』とはきっとこの瞬間の景色だ。この向こうに今とは違う何かが待っているような、違う自分になれそうな気にさせてくれる。だから第三京浜は、特別な道であり、歌の舞台になり続けるのだ。

第三京浜の向こう は憧れの場所だった 〜横浜、横須賀、そして湘南へ続く道〜 嶋田智之

不思議な道だな、と思う。東京と横浜をつなぐ道路なんて他にいくつもあるのに、国道1号線と聞いても第一京浜と耳にしても、気持ちは素通りしてしまう。けれど「第三京浜」という言葉が何かの拍子で飛び込んでくると、必ずパッと熱かったり甘酸っぱかったりするモノが心に浮かんでくる。

それはいつも夏の陽炎みたいにボンヤリとだし、その時々で様子も違うのだけど、必ず何かが湧き立ってくる。普通に走っても15分くらいで抜けてしまう道なのに、ここだけがきっと特別なのだ。

どうしてなんだろう──?

僕は第三京浜と同い年なのだが、バイクに跨るようになり、クルマを転がすようになった'80年代前半から半ば辺りには、すでにこの道は特別な存在だったように思う。

「◯△さんが10分切ったってよ」「ディズニーランドのステッカー貼った赤いファミリアのフクメンがいるけど、運転席が角刈りで助手席がオカッパだから、すぐ判るぞ」と、たわけた話も山盛りだったことを思い出した。

僕はといえば関東平野の外れの田舎町で育ったせいか、横浜やその先の湘南という土地に憧れめいたものを感じていて、そこへとまっすぐ連れて行ってくれる第三京浜は、いつもと違った何かが待っているキラキラしたエリアへの透明なチューブみたいなものだった。

沿線に住んでらっしゃる方や、その〝キラキラしたエリア〟にお住まいの方には別の見方があるのかも知れないが、世田谷育ちのヤツも含めて僕の友達連中は似たような感覚でいたし、逆に横浜育ちの人に訊ねると真逆に近い応えが返ってくることが少なくなかったから、「東京」と「横浜」というある種の誇り高き〝異界〟同士を結ぶその道は、大なり小なりそういう存在だったのだろうと思う。だからなのか、第三京浜を走っていると、今もふとした瞬間に気分が切り替わってるのを意識することが多い。

なぜかドキドキした気持ちを抱えて初めて保土ヶ谷パーキングに足を踏み入れた夜の、あの剣呑な雰囲気。撮影のために埠頭まで走ったクルージングの心地良さ。週末の夜に繰り広げられる、バイク乗り達の饗宴を見に行ったときの興奮。

知人に誘われて出掛けた、保土ヶ谷パーキングでの趣味車のミーティングの和やかな空気。フェラーリとランボルギーニに、一瞬にして両側からブチ抜かれたときの、驚きを通り越した笑い。

友達がクルマを買って見せに来れば一緒に走りに行き、パーツを換えたとなれば様子見で走り、楽しければ夜中に飛ばして帰ってきて、悲しければ夜中に流して帰ってきて、ここ数年では都筑の辺りに自動車関連のガレージやショップが林立するようになったから顔を出し──と、数えたことはないけれど、軽く200往復くらいはしてるんじゃないかと思う。コースそのものは格段に面白いとも思わないし、路面にも荒れてるところがあちこちに見てとれるその道を、それでも気づくと走ってる。

どうしてなんだろう──?

週末の夜に走りに行ってみたけれど、やっぱりロジカルな答えは何ひとつ手に入れられなかった。ただ、パーキングに停車して辺りを眺めていたら、用事をすませてさっさと出ていく人達も少なくない中で、ロールバーを組んだ旧式のハチロクと旧いカマロのドライバーがボンネットを開けて言葉を交わしていたり、バイク乗りのオヤジ達が車座になって何かを話していたりした。

そうした人達の表情には、日常にきっと付きものの苦虫だとか鬱屈だとかはなく、まるで何かから開放されたかのように、素直に晴れやかで楽しそうだった。そして時が経てば、ひとり、またひとりと慣れた様子で帰っていく。

どうしてか──そんなことはどうでもいいように思えてきた。ここはそういう道なのだ。自分が気持よく自分でいるために走りたい道──。

明日、中古で買ったもう1台のクルマが、僕の手元にやってくる。僕は第三京浜から入って第三京浜で帰ってくるルートをきっと走ることになるんだろうな、と思ってる。

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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。