クルマやバイクに文学はあるのか 前編

アヘッド 文学はあるのか

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これまでに多くの人がさまざまな言葉を用いてクルマやバイクに関わることを表現してきた。それはクルマの乗り味だったり、バイクがもたらすフィーリングであったり、技術の解説だったりと幅広い。ときにその言語表現は、読む側の心の奥に入り込み、その人の人生にまで影響を与えることがある。今回と次回の2回に分けて、クルマやバイクには、「文学」と呼べる要素があるのかを考えていきたい。

text:松本 葉、伊丹孝裕 photo:長谷川徹
[aheadアーカイブス vol.135 2014年2月号]
Chapter
先人たちの傍らにいて…
泉 優二の小説とクラブマンが 今でも僕を動かし続ける

先人たちの傍らにいて…

text:松本 葉

クルマにまつわる原稿を書き始めて今年で30年。多くの仕事をしたわけではない。ごく少量の原稿を、細さを長さで補う紐のごとく書いてきた。

最初に記したのは自動車雑誌の編集部に入ってすぐのこと、1984年。この年に生まれた子供は今、なにをしているだろう。免許は取っただろうか。運転はするのか、クルマは好きか。自動車の記事は読むことがあるのか。生き方も嗜好も様々だろうが、今年30歳になる。これだけは間違いない。同じ時間のなかで、自分はどんな仕事をしたのかと自問する。世の中は変わり、クルマも変わり、私も変わった。多くのことを学んだことに疑いはないが、学んだことを書く作業に反映できたのかと問われれば答えに詰まる。わかったことは何もない。わからぬことは増えるばかりだ。それでもひとつ、確かなことがあるとすれば、クルマについて書くことは難しい、これだけである。
自動車メーカー発行のカタログを除けば、日本で最初にクルマを〝まとめて〟記したのは自動車雑誌、最古のそれは『モーターファン』で創刊は1925年、大正14年!という。国産自動車生産量が一桁だった時代にデビュウしたこの雑誌が、(好むと好まざるとにかかわらず)自動車紹介を中心に据えたのに対して、戦後、創刊されたものはいずれも自動車批評を売りにしている。紹介から批評へ。モータリゼーションの幕開けを感じさせる変化だ。

現在も続く専門誌には'55年発行の『モーターマガジン』と'62年発行の『カーグラフィック(CG)』があるが、後者は作り手の顔がはっきり見えたこと、レースを含めた海外情報を多く取り入れ、またビジュアルに力を入れたことと、厳しい批評を特色とした。

『CG』を創刊したのは小林彰太郎氏。1929年に東京で生まれ、昨年12月に亡くなった。自動車ジャーナリストという肩書きをいくつ、つけても恥じることのまったくない仕事ぶりを生涯、続けた、まさに日本の自動車ジャーナリストの草分けである。

ずいぶん昔のことになるが、小林さん同様、自動車批評の基礎を築いた徳大寺有恒氏、岡崎宏司氏(現在の自動車ジャーナリスト界を背負う岡崎五朗くんの父上)の3人と一緒にイタリア・メーカーに取材に出掛けたことがある。食事の席で広報担当者にこの3人の仕事の特徴をこっそり尋ねられた。「失礼は承知。でも3人の原稿は自分には読めない。原稿を読んだところで翻訳されたものでは特徴はつかめない。だから」、こうせがまれた。

「徳大寺さんはマエストロ、岡崎さんはプロフェッソーレ」。当時、業界で彼らの仕事ぶりからこう呼ばれていたのだ。クルマをグローバルな視点から評する徳大寺さんは巨匠で、緻密に機械としてのクルマを分析する岡崎さんは教授。ここまで言ってしかし、詰まった。小林さんをなんと表していいか、浮かんでこない。すると広報が笑いながら言った。「それならミスター・コバヤシは自動車ジャーナリスト界のインペラトーレでしょう」。ぴったりで思わず吹き出してしまった。ちなみに「キミは」と言った彼がこう続けた。「キミは一般のヒトでしょ」。

自動車雑誌の話であった。いや、この頃の雑誌は専門誌と呼ぶのがふさわしい。海外でデビュウするものを含めた新型車の紹介と解説、自動車製作者へのインタビュウ、レース情報など内容は幅広かったが、中心はなんといっても試乗インプレッションで、編集者は記者である前にテスターだった。彼らが試乗と計測で得た結果を言葉に置き換えて評価した。

当時の自動車専門誌における書く作業の難解さは、言葉を綴る難しさというより数字を言葉に置き換える作業の難しさであり、カタカナの量との闘いであり、専門用語と日常語の境界線を決める作業だったのではないか。ハンドルではなく、ステアリングと記すといった具合に。実際、当時の『CG』を読むと現在のそれとは比較にならないくらい、私には難解である。つまり一般のヒトにはわからぬ表現が多い。逆にいえば一般人にわかってもらおうなど鼻から考えていない。気持ちいいほどに。

創刊当時の『CG』は返本の山で、倉庫から溢れたと聞いたことがあるが、それでも途切れることなく出版は続き、しだいに販売部数を伸ばしていく。あの頃、自動車は道具だったから、どんな道具であるか、その指針が必要だった。だから専門誌が求められたという意見もあるが、私にはあの頃、自動車は機械だったという印象。生活に加わった新しい機械。オトーサンの領域。オカーサンの領域は2槽式洗濯機。そういえばウチの母は『暮らしの手帖』の比較テストを熱心に眺めていたっけ。

自動車という機械を道具にしようと試みたのが当時の自動車専門誌で、しかしその試みは高度成長によって豊かさのかけらを知り始めた世代には窮屈に思われたのかも知れない。ニホンでは機械の自動車は暮らしの道具となる前に別の場所にいってしまった、そんな気がしてならない。
『CGの創刊から22年後、ハイソカーブームの1984年、同じ出版社から新しい自動車雑誌が創刊される。それが『NAVI』で、この雑誌が私の就職先となった。専門誌が拾い切れないクルマの〝周辺〟を記すことが目的、∧ハードのCG、ソフトのNAVI∨、これがキャッチだった。内容はクルマに少しでも関係あればなんでもよろしい。これが編集方針、たいへん寛大。私のように文章を書くのも小学校以来なら、クルマに関わるのは教習所以外でははじめて、こんな人間を入れることからも寛大さが伺えるが、専門誌の枠組みのキツさを取って、緩く広げるには素人が必要だったのだろう。NAVIに限らずあらゆるメディアで、いやニホン中で素人の時代がスタートする。

時代はクルマに、コートやバッグ、時計、パスタ、レストランと同じポジションを求めた。ライフスタイルのなかのクルマ。そこら中にライフスタイルが転がっていた時代。数年前までこんな言葉、聞いたこともなかったのに。この、ライフスタイルという言葉を、しかし私も原稿に何度しるしたことだろう。ライフスタイルって何なんだと思いながら。

ウィキペディアには誌名は『New Automobile Vocabulary for the Intellectuals』を意味していたと記されているが、実際はナビゲーターのナビに由来する。それでもボキャブラリーという部分はその通りだ。この雑誌の目的のひとつは自動車を表現するボキャブラリーを増やすことだった、今になってこう思う。

12気筒が轟音を奏でる。専門誌が記したこの轟音を、いったいどんな音であるのか、日常レベルに落として表現することが求められた。狼の声と書けば、キミは狼の声を聞いたことがあるのかと問いかけられる。ウオーなのかゴウゴウなのか。轟音に驚いたのか、感激したのか。感激したのなら涙がこぼれたのか、腰が抜けたのか。素晴らしいとスバラシイは異なる。心とココロも違う。もっとも嫌われたのは〝なんか〟と〝どこか〟という表現。なんかへん、どこかおかしい。何がへんでどこがおかしいのか。それから、〝そんな感じ〟ってどんな感じなのだとよく原稿を突き返された。

私が原稿を見てもらったのはいつも、現在、『GQ』を率いる鈴木正文氏。年齢差は十歳だったが、彼が学生時代に読んだ本の量と私のそれには千以上の違いがあったのではないか。吸収力は万の違い。同じように感じたのは連載小説を寄稿した作家の矢作俊彦氏。若い時代に莫大な量の本を読むことは書く作業には欠かせないものだと彼らに教えられた。「本は買うもんじゃない、読むもんなんだよ」、これが矢作さんの口癖。

NAVIもまた創刊から1年ほどは販売不振に苦しんだが、世はバブルの時代、ガイシャの時代、イケイケの時代。雑誌は一人歩きするように販売数を増やした。知名度が高まったことで作家はもちろん建築家、映画監督、ファッションデザイナーから芸能人まで、あらゆるジャンルの人々が誌面に登場する。カルチャー、エンターテイメント、ブランド、マーケティング、トレンド、アート。こんな言葉が誌面で、いやニホン中で踊っていた。カタカナばかりですねって漢字もあった。記号、思想、啓蒙、本物、快楽。いずれもかつての自動車専門誌にはほとんど登場しなかった言葉たち。

この時期はまた、自動車評論家が新しいタイプのクルマ批評を模索した時期でもあった。クラウンで日本的価値観を語り、マークⅡにサラリーマンのヒエラルキーを読み、BMWでなくちゃイヤというOLに幸せの定義を探したのである。『NAVI』のみならず、'80年代終わりから'90年半ば頃までだろうか、自動車雑誌が売れた時代だった。お若い方、こんなこと信じられないでしょう。その自動車雑誌の上り調子に影が見え始めたのはバブル崩壊後だろうか。『NAVI』で言えば私は'90年の段階で雑誌を離れイタリアに移り住んでいたから販売部数の下降経緯は詳しくは知らないが、広告が減ってだんだん薄くなる姿に終わりが見えるようだった。結局、『NAVI』は2010年に廃刊となった。
若者のクルマ離れによって自動車の記事が読まれなくなっている。こんな話をしょっちゅう聞く。イタリアやフランスではどうですかと尋ねられるたび、考えこんでしまう。ヨーロッパでも若者のクルマ好きは減ってはいるが、だからといって無しで生きることは出来ない。ネットの発達によって自動車雑誌の販売部数が落ちていることは確かだが、それでも自動車の記事はやっぱり今でも車種選びの手助けだ。逆にネットの発達によってエンスーの、エンスー度が高まっている、そんな印象。なによりニホンと異なるのは流行はあってもクルマはまず足、記号でもカルチャーでも快楽でもエンターテイメントでもない、必要な道具。道具よ、道具。ここがぶれることはない。


『NAVI』のたどった道を考えるたび、自分を含めて書く側に怠慢はなかったか、こう問わずにはいられない。

いつだったか、徳大寺有恒氏がふざけた調子をつくりながら「あ奴のオヤジの話なんか聞きたくないんだよな」、こう言ってどきっとさせられたことがある。クルマのインプレッションに自分の父親の思い出を書いたライターのことをさした発言で、この時、私たちは徳大寺さんを交えてこのライターの噂話をしていた。

「あ奴がクルマをつかって自分の話を書くなんて百年はやい。クルマを書くには知識と想像力がいるのよ。筆力つけてからにしろって言ってやりたいね」、笑いながらこう言った巨匠の掠れ声がいまも耳に残る。

自動車雑誌の停滞も、クルマの記事の不人気も自動車ジャーナリストに若い層が欠けることも、結局のところ、書く側がクルマをライフスタイルの枠組みのなかに押し込めて自己表現の道具にしたことで、バランスがとれなくなって空中分解した結果ではないか。広く掘っては次に進み、浅く掘ってはまた進み、次から次へと情報と新しいものを求めてネズミのように広く浅く堀り続けた結果ではないか。気持ちいいとカッコイイと、そればかりを言い続けた結果ではないか。反省は尽きることがない。それでも|。

私はそれでも今もクルマが出てくる読み物に出会うと気持ちが弾む。佐野洋子氏のエッセイ『お歯黒ヒルマンと国産車』『オートバイは男の乗り物である』は私のバイブルだ。息子の机に、ニホンのクルマばかりを集めたフランスの自動車雑誌『AUTO WORKS』を見つけると、彼のベッドに腰掛けて読みふけってしまう。

ヒトの話も同様で、「繊維から鉄鋼、軽金属からガラス、樹脂から木材にまで広がる素材、それらを飛行機よりずっと複雑に使い、5年くらい壊れなくて、モニターからモノ入れからエンジンやタイヤ、バッテリーまで積んだ鉄製のカプセルが、家族をのせて時速130㎞で走る。これこそ現代の最先端素材と最先端製作の集大成ですよ」、ヨーロッパの自動車人、内田盾男氏にこんな話を聞けば、誰かに伝えたくなるのである。「ちょっと、ちょっと聞いてよ、クルマって凄いねえ、感心しちゃうよね」

自動車製作に関わる職業のなかで私がもっとも好きなそれはモデラーだが、トリノ時代に知り合ったモデラーに台所の棚を吊ってもらえば、つい言いたくなるのである。「ねえ、知ってる? モデラーってさあ、みんな凄く器用なんだよ」

現在、住むフランスの田舎町で冬の雨の日、交差点でエンコした古いセリカを押す男を見掛けると、このセリカはどこからどんなふうにやって来たのか、想像を巡らす。男は押す自分を呪っているのか、いや、こんなことには慣れているのか。朝、コーヒーを飲みながら夕方、自分が雨に濡れながらセリカを押すことを彼は予感したのだろうか。男はどこに行くつもりだったのか。保育園に子供を迎えに行く途中だったのか、駅で女が待っているのか。陳腐な想像は止まるところを見つけ出せぬまま、ひとり、進んで行く。
 
自らを語らぬクルマには、クルマ自身に、その周辺に、クルマを作る人々に、人々自身に、すべてに物語があって、ドラマがあって、強く惹き付けられる。だから伝えずにはいられない。書かずにはいられない。紐は細いが、細くても切れずに書いていきたいと懲りずに思う毎日だ。
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text:松本 葉/Yo Matsumoto
自動車雑誌『NAVI』の編集者、カーグラフィックTVのキャスターを経て1990年、トリノに渡り、その後2000年より南仏在住。自動車雑誌を中心に執筆を続ける。著書に『愛しのティーナ』(新潮社)、『踊るイタリア語 喋るイタリア人』(NHK出版)、『どこにいたってフツウの生活』(二玄社)ほか、『フェラーリエンサイクロペディア』(二玄社)など翻訳を行う。

泉 優二の小説とクラブマンが 今でも僕を動かし続ける

text:伊丹孝裕

無論、その時は気がついていなかったが、今の自分につながる、そのカケラのようなものができたのは1986年のことだ。15歳になろうとしていたその年に手にした、二冊の本がきっかけになった。

一冊は、中学3年生の夏休みに読んだ『マン島に死す』。そして、もう一冊は、同じ年の冬休みに手に入れた『クラブマン』だ。そのどちらにも最初から最後までバイクとレース、そしてアイリッシュ海にある小島「アイル・オブ・マン」の風景が散りばめられていた。

『マン島に死す』は、その直接的なタイトルの通り、マン島TTレースを目指した、あるライダーの生と死を題材にした泉 優二の小説である。

レース小説にありがちな排気音やシフトチェンジを表す擬音は一切なく、コースの高低差や車体をバンクさせるタイミングが、そこに点在する家の形や石垣の色、路面の凹凸とともにこと細かく描写。迫るコーナーを前にライダーがなにをして、どんな心理状態にあるのか。そういった様々な事象が、すべて言葉で表現されていた。

レースはおろか、バイクにも乗ったことがなかったため、中学生の想像力をいくら広げても得られる臨場感には限りがあったが、漠然とした浪漫のようなものには触れた気がしていた。

その時はまだぼやけていたマン島のイメージを、はっきりとビジュアル化してくれたのが数ヵ月後に創刊された雑誌『クラブマン』である。

手に取ったのは偶然だったが、印象は強烈だった。

朝もやの中、海を背にしながら丘陵を駆け上がってくる様々なレーシングバイクで誌面は埋め尽くされ、原稿に中に踊る「ババッ」、「ドドッ」、「ボロロ」……といった幾重もの排気音と見事にリンク。マフラーから香る植物油の燃える匂いがどんなものかは知らなかったが、本から漂ってくる空気感の中で、確かにそれを想像することができた。

もっとも、そこで取り上げられていたのはマンクスグランプリというクラシックバイクをメインとしたレースであり、『マン島に死す』に描かれていたTTレースとは位置づけも開催時期も異なるということを知ったのはずいぶん後だったが、そんな事は些細な問題だった。

創刊編集長である小野かつじさんが思い描く世界を、磯部孝夫さんを筆頭とする一流のカメラマンが表現し、BOWさんのイラストが彩りを加え、その思いを汲み取ったデザイナーがシンプルなグラフィックでまとめ上げていく。

『クラブマン』は、誰も見たことがないような上質な世界をバイクを通して伝える、そんなグラフ誌として突如産み落とされたのだ。

バイクとライダーが疾走し、時にたたずむシーンだけで構成されているにもかかわらず、そこには、大人になったところで、おいそれと近づけそうにもない圧倒的な高みがあったのである。

実際にクラブマン編集部に入り、編集者としてのキャリアをスタートさせたのはそれから17年も経った'03年のことだ。我ながら少々遅きに失した感はあったものの、そうした世界に足を踏み入れるには、自分の中にそれだけの時間や巡り合わせが必要だったのだと思う。

それから後、'05年に編集長になってからというもの、僕は創刊時のクラブマンを指針にした誌面を作ろうとしていた。

磯部カメラマンも、BOWさんも、小野さんの下で直接仕事をこなしてきた先輩スタッフもまだ大勢かかわってくれていたため、「クラブマンの原点回帰」を自分の仕事に課し、それができると思い込んでいた。

しかし、どうにも上手くいかず、色々なものを持て余した結果、半ば放り投げるように編集長を辞した。

クラブマンは、それから2年後に今に続く休刊状態に入るのだが、少なからず凋落へ向って舵を切り、あるいは加速させたひとりだったと自覚している。

一方で、会社を辞めたがゆえに自由を得た僕は、それを機に自身のマン島TT参戦計画を始動。実現までは数年掛かったものの、そこへ突き進めたことは皮肉と言えば、皮肉ではある。

クラブマンがあったからこそ、触れることができたバイクとレースとマン島だったにもかかわらず、クラブマンを去ったことでそれらを手繰り寄せることになったからだ。

編集の最前線で踏ん張り、しかし後に散り散りになっていったスタッフの紆余曲折を思えば、今も時折後ろめたさのようなものを感じることがある。
ともかく、そうやってあらゆる事柄、あらゆる人との関係を切り捨てて、マン島TTには'10年に参戦することになった。

バイクとパーツ、工具の一切合切を積み込んだハイエースを日本から送ってパドックに辿り着いた時、そこで思い起こされたのは『マン島に死す』の中の様々なシーンだった。

それが、いかに緻密な取材に基づいて書かれていたのかを知ることになったのだ。

なぜなら、文中に表現されているコース脇の家や橋、木々の瑞々しい風景は、実際にそこを走った者でしか知り得ないものであり、しかも著者取材時の'85年と、僕がそこに立った'10年の間には25年間もの開きがあったにもかかわらず、ほとんどすべてがそっくりそのまま残されていたからだ。

圧巻だった。

本文中の主人公、沢木亮が見た風景に、自分が見ている風景が次々と当てはまっていくあの鳥肌の立つような感覚は、今も忘れられない出来事である。

本という確かな実体の中で文字や写真は確実にそこ残り、たとえ数十年経っても、誰かの人生や心中に影響をもたらすことがあることを思い知った。その相手が、たったひとりだとしてもだ。

ひるがえって自分の手掛ける本はどうなのか?

それを考えると、責任感に奮い立つというよりも、事の重さにそら恐ろしささえ覚えたが、同時に本の意義と未来に確信も持てるきっかけになり、今に続いている。

次々と雨散霧消していくネットの世界とは、それこそが決定的な違いであり、強みだとも思う。
●トライアンフ アメリカ
車両本体価格:¥966,000
排気量:865cc
エンジン:空冷DOHC並列2気筒270°クランク
最高出力:61ps/6,800rpm
最大トルク:72Nm/3,300rpm
バイクに乗るという行為は時に生々しく、それを知らない人よりは少しだけ死が近い。

それでもやっぱり素晴らしく、いつもドキドキさせてくれる。

走り出せば、たとえ束の間であってもそこには自由があるのだ。

そんな自由こそが、バイクが持つ象徴的な魅力のひとつだが、それを今も謳歌し、バイクにまたがっている時間がどれほど心地いいものかを語る。社会性とはやや離れた、そんな行為を誇れるのは、他でもなく、素晴らしい文や写真を残してくれた先人達のおかげだとつくづく思う。

『クラブマン』、あるいは『マン島に死す』を筆頭とする本のいくつかは、そういうピュアな部分だけを抽出し、粋な世界へといざなう案内役になってくれたのだ。

日本も欧米も関係ない。大仰に文化や社会を語るわけでもない。

ただ美しいバイクとそれに思いを馳せるライダーの瞬間瞬間が凝縮され、僕の、そしておそらく世の中の多くのライダーの目指すべき指針になってくれたのである。

なかでも小野さんは、見事にその役割を演じ切り、好きなバイクで好きなところへ行き、命をまっとうするその瞬間ですらバイクとともにいた。それが本意だったかどうかを聞くことは叶わないが、なんというダンディズムなのだろう。

時に僕は、自由と右往左往を混同しながらも、道は大きく踏み外さずに済んでいる。道の行く末が分からなくとも不安を覚えずに済んでいるのは、キラ星のような雑誌や小説がいつも心の拠り所になり、立ち止まり、還れるからだ。

バイクに文化があるとすれば、そうした雑誌や小説が表現してきた有形無形の世界観そのものであり、そこに登場するバイクとライダーそのものだ。バイクに乗る理由をひとつ挙げるなら、その中になりたい自分の未来像を見つけることができるからだと思う。

小野さんが『クラブマン』を創刊したのは、43歳の時である。気がつけば今年、僕はその年齢に達しようとしている。それも手伝ってか、バイクにまつわるなにかを文字で表現し、それを未来の誰かの手と心に残せたら。そう強く願っている。

いつかそれができるかもしれないし、できないかもしれない。できたとしてもまた長い時間や巡り合わせが必要になるかもしれないが、スロットルを握り続けることでそこに近づけるなら、これ以上ない最高に幸せな人生だと思う。

バイクには、ともに人生を歩むだけの価値がある。少なくとも僕はそう信じているのだ。
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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。
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