モータースポーツの おもしろさを伝えたい

世界の頂点であるF1をはじめ、日本で大人気のスーパーGTや、2輪最高峰のモトGPまでもが、今年は大きな変革期を迎えている。今回は、モータースポーツを愛してやまない二人の男に、そのおもしろさについて、それぞれの視点で語ってもらおう。

text:世良耕太 photo:菅原康太、
[aheadアーカイブス vol.137 2014年4月号]

Chapter
森脇基恭 「世界基準になれば日本はおもしろくなる」
ピエール北川 「色でも番号でも応援するクルマがあるといい」

森脇基恭 「世界基準になれば日本はおもしろくなる」

アヘッド おもしろさを伝えたい

●1946年東京都生まれ。'69年に本田技術研究所に入社。四輪車の開発に携わる。'73年に退社後、渡英。GRD社で、日本人初のチーフデザイナーとして数多くのレーシングマシンを設計。'76‌・‌'77年の日本のF1開催で手腕を発揮。'78年にノバ・エンジニアリングの取締役に就任。フジテレビF1中継の解説者でもある。

text:世良耕太

森脇基恭さんはフジテレビのF1中継の解説を長年務めている。理路整然とした解説になじみのある方も多いことだろう。その森脇さんが「2014年はF1をはじめとするモータースポーツの転機になる」と力説する。何年かして振り返ったときに、「あの年から変わったんだ」と思い起こすような。

だから、見て損はないし、見なければ損なのである。その理由に触れる前に、森脇さんのF1との関わりを振り返っておこう。

「僕が子供のときは、みんながみんな、動くものが好きだった。自動車が通ると表に出て、深呼吸してた時代。石油の中にはいいニオイのする成分があり、それが排ガスに混ざって出てきた。だから本当にいいニオイがしたんです。自動車や船や飛行機に興味を持った子供の頃のまま、成蹊大学の工学部に行きました」

三菱財閥4代目総帥・岩崎小弥太が創設した私塾を母体とした大学だったこともあり、就職先は三菱系の企業が多かったという。そのうちのひとつ、三菱重工が飛行機を作っていたので、森脇さんは実習に行った。ところが「ちょっと違う」と感じ、実習終了後、役員面接の席で、「ホンダかボーイングに行こうと思います」と言ってしまうのである。

「結局ホンダに入るのですが、なぜホンダかというと、本田宗一郎が『飛行機を創るぞ』と言ったんですね。それにだまされて…」

森脇さんは'69年に本田技術研究所に入社する。同期には、後にホンダ(本田技研工業)の6代目社長に就任する福井威夫や第2期F1参戦活動でプロジェクトリーダーを務めた後藤 治がいた。

「飛行機でもF1でもいいと思っていました。僕のなかでは、自動車という乗り物の究極の姿がF1だった。公道を走る自動車を作るにはいろんな妥協が必要ですが、F1の場合、妥協はありえない。飛行機も同じで、『仕方ないよね』という部分があったら飛び上がらない」

乗り物の究極に関わりたかったのだ。ホンダの第1期F1参戦活動は'68年で終わっていた。「必ずまたやる」という話を信じつつ、森脇さんは「ホンダ1300」や「1300クーペ」、初代「シビック」などのサスペンション設計などに携わる。ところが一向にF1を再開する気配がない。

「ホンダに残る選択肢もあったのですが、一度決めたことだから頑張ろう」と思い、ホンダを出ることにした。向かった先はイギリス。ホンダF1の監督を務めた中村良夫に紹介状を書いてもらう図太さだった。「辞めるんだけど、あなた向こうで顔が広いんだから招待状書いて」とお願いしたという。

「チーム・サーティース」と「ローラ」、「GRD」の3つが候補だったが、クルマ作りとチーム運営の両方を手がける「GRD」に入ることにした。'73年のことだ。「GRD」(グループ・レーシング・デベロップメント)は「チーム・ロータス」から分離独立した会社で、F2やF3を中心にロータスが行うワークス活動以外のサポートを行っていた。今年のF1開幕戦、オーストラリアGPの表彰台に、'80年のF1チャンピオンのアラン・ジョーンズがインタビュアーとして上がった。地元の英雄である。「GRDにいた頃に僕が作ったF3で彼はチャンピオンを獲ってくれたんですよ」と、森脇さんは懐かしそうだ。

イギリスに来た当初は、差別を受けることもあったが、森脇さん流に言うと自分勝手に生きていたので疎外感は全く感じなかったという。

「なかなか周囲に認められないと嘆く若い子たちによく言うんです。日本人で日本にいれば、認めるか認めないかの針は真上のところにあるんだと。でも、日本人がヨーロッパにいたら、針は真下のところにあって、認めていないことが前提。さんざん役に立つ仕事をして『こいつは使えそうだ』となり、ようやく針は上に向かって動き出す。そこまで持っていくのは大変。だから、すぐにあきらめちゃダメなんだと」

'76年になり、ホンダではなかったが、「F1を設計してほしい」という依頼が日本からあり、森脇さんは帰国する。だが、スポンサーが降りてしまった影響で、その話は立ち消えになってしまった。そこに声を掛けてきたのが、富士スピードウェイで行われた'76年の「F1イン・ジャパン」を主催したスポーツニッポン新聞社(スポニチ)だった。森脇さんは事務局次長の立場で、現在もF1世界選手権の商業権を一手に握るバーニー・エクレストンと交渉した。主催者がJAFに移った'77年は、JAFから全権委任状を受け取ってイギリスに渡り、やはりエクレストン氏と交渉している。今年とは別の意味で、'76年、'77年はF1にとっても日本のモータースポーツにとっても転機だったと、森脇さんは振り返る。

「'76年、'77年の日本での開催があったから、世界戦略が進む今のF1があると思っています。'76年の日本でのF1は、ヨーロッパ語圏以外で行う初めてのF1開催でした。バーニーは当時すでに、ヨーロッパに限界を感じていた。この先、経済的に伸びる国はどこなんだと見渡したときに、日本があった。彼と交渉しているときにこちらが強気に出られたのは、向こうがやりたがっているのを感じたからなんです」

'77年の日本GPで不幸な事故が起きたため、行われるはずだった'78年の日本GPは幻に終わった。F1が次に日本に上陸するのは'87年まで待たなければならないが、森脇さんは「遅すぎた」と言う。

「富士でも鈴鹿でもよかった。もっと早く日本が手を挙げていたら、事情は違っていたかなと思っています。日本という国は、ほったらかしにしておくと、自分たちだけの世界に入り込んでしまう。自動車メーカーってすごく自分勝手だから、自分たちの勝ち負けしか見えてない。自分たちがレースをやっている意義だとか文化であるだとか、そこに携わるドライバーを評価して表に出すとか、そういうことをしないからダメなんです」手厳しい意見だ。

「もし'80年代の初頭にF1を開催していれば、状況は変わっていたと思います。日本独特の態勢が固まる前の混沌とした状況の中で、F1を通じてヨーロッパのモータースポーツを学ぶことができたからです。地理的な面があるから仕方ないという見方ができるかもしれませんが、現代のような、世界では通じないガラパゴス現象をなくす効果があったと思っています。もっとグローバル化が進んでいれば、ドライバーはヨーロッパと同じ評価軸で評価されるようになっていたはずです」

'77年のF1日本GPは、現代のF1では当たり前となっている光景を生み出すきっかけとなった。優勝したのはジェームス・ハント(マクラーレン)だったが、ハントは飛行機に乗り遅れるからと、表彰式に出席せずにサーキットを後にした。主催者側から全権を委任されていた森脇さんはレース後、エクレストンに対し猛烈に抗議した。「あなたの管理が悪いからハントは帰ってしまった」のだと。F1のスポーティングレギュレーションに「1位、2位、3位のドライバーと優勝チームの代表者は、表彰式に出席しなければならない」という一文が加わったのはこの一件がきっかけだった。

森脇さんは'78年に「ノバ・エンジニアリング」に参加し、レーシングカーコンストラクター兼チームの首脳陣として、マシンの設計やチーム運営に携わった。長谷見昌弘や星野一義といった日本のトップドライバーと一緒にレースをした一方、H|H・フレンツェンやP・デ・ラ・ロサといった、後にF1で活躍するドライバーを輩出している。

「モータースポーツのいいところは、人間が自分の持っているすべてを出して戦っても、簡単にいかないところです。機械を設計する人がいて、作る人がいる。それを操る人もいて、チームワークが必要。どの役割を担う人もベストを尽くさない限り、結果は出ない。でも、ベストを尽くせたとしても結果が出るとは限らない。こんな理不尽なスポーツはないのです。だから勝ったときの感慨は格別なんです」

これは、モータースポーツに身を置く者としての実感だろう。

「レースをやっていて勝てないときは、あらゆることを考えて手を打ちます。それをやって今度は勝てると思っていても勝てない。ドライバーも同じだと思います。さんざん自分のミスを指摘されてボロクソに言われて人がいないところで涙を流していることでしょう。で、次の試合に臨む。また失敗する。その繰り返しなんですよレースって」

勝利至上主義だと、〝人間〟を見失ってしまう。今年のF1は技術フォーマットが大きく変わり、量産車の世界でブームとなっている過給ダウンサイジングエンジンに、2種類のハイブリッドシステムを組み合わせた複雑かつ高度なシステムを搭載することになった。そこには役割の異なるさまざまな人が携わり、みな持てるものを駆使して、いつになくむき出しになってベストを尽くしている。それが、今年から始まった流れなのだ。

「金メダルでなければダメだと思っていたところに、それだけではないと教えてくれたのは、ソチオリンピックのフィギュアスケートで素晴らしい演技を見せてくれた浅田真央さんです。1位になるために努力する。それは当たり前のこと。でも、そうじゃない価値もスポーツにはあるんだということを彼女は示してくれました。モータースポーツもそうなればと思いました」

モータースポーツはモーター、すなわち動力を載せたクルマで行うスポーツだが、クルマが勝手に動いて優劣を競うわけではない。「それを誰が作り、操るのかというと全て、「人間」なのである。そこに着目してみると、モータースポーツの本質的な魅力が見えてくるはずだ。

ピエール北川 「色でも番号でも応援するクルマがあるといい」

アヘッド おもしろさを伝えたい

●1970年三重県生まれ。実家が鈴鹿サーキットに近い場所だったことから、モータースポーツに触れて育つ。サラリーマン時代に始めたカートがきっかけで、レース実況の世界に。二輪四輪を問わず、「鈴鹿サーキット」、「ツインリンクもてぎ」等で、F1からカートまであらゆるモータースポーツを実況している。

ーaheadは、二輪と四輪を取り上げているので、その両方を掘り下げることの難しさに、いつも苦労しています。なので、ピエール北川さんの実況がいかにすごいのかということが、実感としてよく分ります。この数年は、オートバイの「鈴鹿8時間耐久レース」も、スーパーGTの「鈴鹿1000㎞」も会場の実況をされています。しかも、レース中に瞬時に出てくる過去のエピソードなどを聞いていると、これは付け焼刃的に勉強したのではなく、リアルタイムでずっとレースを見て来られたからこそできる実況だと感じています。

北川 そう言っていただけると光栄です。僕は実家が鈴鹿なんですよ。少年時代の'80 年代にはフォーミュラのF2が走っていましたし、オートバイだとTT|F1なんかもよく覚えています。毎年春に開催される2&4レースもフェンスにかじりついて見ていました。だから僕にとって二輪と四輪両方というのは違和感がないんですよね。

ーなるほど環境が育んだのですね。でしたらレーサーになりたいと憧れたりしませんでしたか。

北川 ええ、もうばっちり憧れました。高校に行かないで武者修行したかったのですが、そうもいかず、自動車部のある工業高校へ行きたいと親に話しました。整備士になって、その先にレーサーを目指そうと。でも先生にまで進学校にいきなさいと説得されて。でも途中で、中退して鈴鹿のガレージで働いてレーサーになりたいとごねたりもしました。結局、高校は卒業して、卒業生の中でひとりだけ進学せずに、ラリーで有名な「マジョルカ」という会社に入ったんです。でも結局何もできず、挫折して実家に戻りました。自立しなさいと言われていたので、クルマのディーラーに就職してカートのレースを始めました。

ー最初からアナウンサーを目指したわけではなかったのですね。

ピエール そうなんです。実況をやるようになったきっかけはひょんなことなんです。所属するカートチームがレースの主催をやっていて、僕も自分が走らない時はオフィシャルをして手伝ったりしていました。そしてあるとき、仲間内だけのレースをやろうということになったんです。そこで「おまえは、よくしゃべるから、選手紹介をやってみろ」と言われたんですよ。当時は、F1の実況で古館伊知郎さんがレースをばんばん盛り上げていた時代だったから真似てみたんです。

ー「音速の貴公子」ですか。

ピエール はい。その真似で選手紹介をしたら、ついでに実況もやってみろよになったんです。実際にやってみたらすごく受けたんですよ。それから週末は、カートチームが主催するレースで実況中継をやるようになっていきました。みんな本当に喜んでくれたのが嬉しくて、勘違いしちゃったんでしょうね。それまで何をやっても中途半端だったから、じゃあ、まずは3年やってみようと決めました。月から金曜日がサラリーマン、週末はレースの実況中継をやろうって。

ーそして3年後に。

北川 よし、とすぐに会社を辞めました。どれだけやれるかは、分からないけれど、勇気を出してやってみようと決意しました。何かビビッと来たんですよ。

ーレーサーになりたい気持ちがあったわけですから、決意するのに葛藤はなかったのですか。

北川 それまで僕は一度もカートで1番になったことがなかったんですよ。走ることは好きだけれど、1位になれないなら切り替えが必要だと。走って駄目なら他のことで一番になろうと思いましてね。

ー実況のプロを目指されたわけですね。

北川 そうです。絶対に他の人がやったことのないアナウンサーになろうと心に決めていました。二輪四輪両方というのもそうだし、ゴーカートからF1までというのもそうだし、モータースポーツでは一番多くのカテゴリに関われているのではないかと思います。誰かがやっている二番目ではなく、誰もやっていない一番になりたいという思いは強いですね。

ーレース本番だけでなく、テストの取材も行かれていますよね。

北川 ええ。前取材は必ず。ドライバーだけでなく、技術者とかいろんな人に日常会話レベルでも話をしたり、コースサイドから走りを見たりしてから実況に臨んでいます。

ー背景を知ることが大事だと。

北川 それはもう絶対です。背景を知っていれば言葉を選びますよね。怪我をしていてもそれを隠して走るレーサーもいます。それは決して言えないけれど、もし転倒したとき、ここまで頑張って転んだというのと、単にミスして転んだというのでは違う。そのとき、どれだけライダーが頑張ったかというのは伝えなきゃいけない。そういう実況をしたいと思っていますから。
ーだから北川さんの実況には〝愛〟があると感じるんですよ。

ーよくモータースポーツは機械が闘っている、人間が見えにくいので分からないと言われますが。

北川 確かにそういう側面はありますね。でも一方、人の感情が物に反映されていくんですよ。機械は機械なんだけど、そこには必ず人の手が入っている。機械を生かすも殺すも、その手前で人間がどういうふうに、どんな思い入れを込めて物を作っているかなんです。

ースーパーGT500クラスのタイヤ戦争は、作っている側の気持ちが見えてくるようです。一昨年の「鈴鹿1000㎞」で、連続してタイヤがバーストしたのも、ライバルメーカーに対する焦りが現れていた気がします。

北川 まさに闘いの場ですから、技術者の方も、ここまでなら攻められるとギリギリのところでタイヤを作っていた。それが時に限界を超えてしまう。

ー機械と機械の競争の中で、人間ドラマを垣間みるとモータースポーツにハマりますよね。

北川 女優の伊藤麻衣子さんはものすごいF1のファンなんです。今はそれが高じてスーパーGTもスーパー・フォーミュラもサーキットへ足を運ぶほど。きっかけはホンダの第3期にジェンソン・バトンが優勝を飾ったハンガリーGPの中継だったそうです。でも彼女を惹き付けたのはバトンではなく、表彰台の下で号泣していたホンダの中本修平さんです。大の大人がここまで号泣できるスポーツって何なんだろうと、のめりこんだそうです。

ーマシンやドライバーだけではなく、そこに関わる人たちに、もっとスポットを当てるべきかも知れませんね。

北川 今年小学校に上がる僕の長男は、レースを見始めたとき、「1」という数字が大好きで、レースでもゼッケン1番ばかりを追っていました。でもだんだん、1番を軸に、それを抜いたクルマとか、周りの状
況が見えるようになっていったんです。子どもの目線まで下げれば、自分のラッキーカラーの黄色のクルマを応援しようとか、スポンサーのキャラクターがカワイイからあの何番にしようとか、自分が応援するクルマを決めるという入り方もあるんだと思います。

ーそれまでレースに興味を持てなかった人に、いきなりレース全体を見てくれというのはレースファンのエゴなのでしょう。伊藤麻衣子さんのように、大人の女性ならではの視点で見てもらえれば嬉しいですが、まずは自分の応援する対象を持ってもらえると今後ファンになる可能性が高まりますね。最初は少し我慢強さが必要かも知れませんが。

北川 しかし一度ハマるとモータースポーツの世界からは抜けられなくなりますよ。それは、道具を使うスポーツの中ではモータースポーツが究極だからです。少なくとも僕はそう思っています。

ーF1やモトGPは、世界中で何十億もの人が観戦しているほど人気のあるスポーツですから。

北川 クルマやバイクは複雑な部品の集合体です。何か1つ欠けても、何か1つ不具合があっても動かなくなることがある。そのくらい繊細。黎明期の人たちは知恵を絞って、壊れそうになるクルマを壊さないように工夫したり、壊さない乗り方を試行錯誤したり、時には命を掛けてまでゴールを目指した。そこがはっきり見えていた時代だったから、多くの人を惹き付けた。今はそれが見え難くなっているのと、機械も壊れる前にシャットダウンするなど保護するようになって、人間らしさが感じ難い。でも、ずっと見ていると、そういう人間くささが垣間見えてくるんですよ。必ず。

ー基本はスポーツという闘いなんです。だから何かを超えようとするときには、人間ドラマが見える。今年はF1もスーパーGTも大きな変化の年ですから、これからモータースポーツを見てみようという人にはチャンスの年ですよね。

北川 そうです。入り方は何でもいいです。少しでも多くの方にモータースポーツを見てほしいのです。

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text:世良耕太/Kota Sera
F1ジャーナリスト/ライター&エディター。出版社勤務後、独立。F1やWEC(世界耐久選手権)を中心としたモータースポーツ、および量産車の技術面を中心に取材・編集・執筆活動を行う。近編著に『F1機械工学大全』『モータースポーツのテクノロジー2016-2017』(ともに三栄書房)、『図解自動車エンジンの技術』(ナツメ社)など。http://serakota.blog.so-net.ne.jp/

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