夜ドラ
更新日:2024.09.09
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夜は昼とはまったく違う時間が流れる。どこかで聞いた話だけれど、夜を見方につければ、人は人生をより豊かに彩ることができるという。夜を見方につけるには、クルマに乗るのが一番いい。終電も終わりに近づき、人影もまばらになったころ、もう一つの物語りが始まる。好きな人と、好きな場所へ。夜のドライブは、多くのドラマを生み出していく。
text:まるも亜希子、
[aheadアーカイブス vol.146 2015年1月号]
text:まるも亜希子、
[aheadアーカイブス vol.146 2015年1月号]
- Chapter
- 缶コーヒーとサザンと私
- 暖色の夜空に向かって
- シフトする、夜
缶コーヒーとサザンと私
text:まるも亜希子
なにも見えないのが夜だなんて嘘だ。そう教えてくれたのが、数えきれないほどの夜ドライブだった。
大きな月の灯に映し出されて、グレーのスクリーンに流れていく雲がこんなにも幻想的だということ。その灯が山並みに隠れた瞬間、うわっといっせいに輝きだす星たち。人の姿なんてないのに、その存在を伝えてくれるのが家々の明かりなのだということを知ったのも、いつもはふざけあっている友だちが、ふと見せる淋しげな横顔に動揺したのも夜のドライブだった。
たいていは、目的地なんて決めずになんとなく走り出す。お金はなくても時間だけはたっぷりある大学生だったから、高速のインターチェンジをくぐることもなく、のんびりと一般道をいくことが多かった。スタバなんてまだなくて、ドリンクホルダーにはコンビニで買った缶コーヒーが定番だ。運転席の後ろのほうからバタバタとエンジン音が響いてくる、自分と同い年くらいのVWビートルは、太陽の下でドライブするのとは違って、街灯りのおかげでちょっとビンテージっぽく艶めいている。CDをかけると、開け放した窓から飛び込んでくる街の喧噪と混ざりあって、ひとりの時も、誰かと一緒の時も、それだけで特別な空間にしてくれるのだった。
街を抜け出して、窓の外に灯が少なくなってくると、だんだんと心の中に溜め込んだものたちが、流れでていくようだった。誰ともなくポツリポツリと、そんな心の中を語りだす。地元でよく出かけた場所のこと。出会った人たち、サヨナラした人たちのこと。あの時の選択が、正しかったのかどうか。そしてこれから、自分はどこへ向かっていくのか。みんな、前だったり横だったり思い思いの方を向いて、音楽を口ずさんだり目を閉じたり、好きなことをしている。でもそれが、話す方も聞く方も、重くなりすぎずにちょうどいい心地よさだ。
時には、たまたま通りかかった土手の小道をおりていって河原でひと休みしたり、誰かが「お腹すいた」とファミレスに入ったり。ラジオからサザンオールスターズが流れてきて、「今から江の島行こう!」と盛り上がって日の出を見て帰ってきたこともあったっけ。そんな夜ドライブをひとつ終えるごとに、私たちはちょっとだけ相手の心に近づいて、寄り添えるようになっていった。昼間、学校やバイト先で顔を合わせているだけでは見えなかった、人としての内側の部分や覆われていた部分を、夜がじんわりとあぶり出してくれたのかもしれない。そのおかげなのか、今は長いこと会っていなくても、どこかでみんなと通じ合っている気がする。
ひとりで出かける夜のドライブは、ちょっと疲れた心を抱えている時だ。こういう時は、迷わず高速道路に向かう。誰にも話せない、どうにもならない気持ちがアクセルを踏みつける。スピードメーターの針があがって、一定の位置に落ち着くと、心の波もだんだんと穏やかになっていく。
規則正しくコツンコツンと繰り返される路面の継ぎ目や、窓にひと筋の線をにじませながら、一定間隔で飛び去っていく街灯。そうしたものたちが、幼い頃、寝る間際にトントンと背中を叩いてくれた母の手のように、心のざわめきを鎮めていってくれるようだ。ふいに光がぼやけて見えて、自分が泣いていることに気づく。そのまま涙があふれたって、誰もが前を向いて走り過ぎるこの場所なら、なにも都合の悪いことはない。気の済むまで走って走って、心の水面が平均値に戻るまで、夜とクルマと高速道路はいつでも私を受け入れてくれた。
思えば人生の大きな決断はいつも、こうした夜のドライブで決めてきたような気がする。太陽が隠れた世界は、決してなにも見えない闇じゃない。見よう見ようとじっと目を凝らしても普段は見ることのできない、いろいろなものを夜は五感で感じさせてくれるのだ。
私はこれからも、大切な人ともっと深く寄り添うために、そして自分自身の心を見つめるために、夜な夜なステアリングを握ることだろう。
なにも見えないのが夜だなんて嘘だ。そう教えてくれたのが、数えきれないほどの夜ドライブだった。
大きな月の灯に映し出されて、グレーのスクリーンに流れていく雲がこんなにも幻想的だということ。その灯が山並みに隠れた瞬間、うわっといっせいに輝きだす星たち。人の姿なんてないのに、その存在を伝えてくれるのが家々の明かりなのだということを知ったのも、いつもはふざけあっている友だちが、ふと見せる淋しげな横顔に動揺したのも夜のドライブだった。
たいていは、目的地なんて決めずになんとなく走り出す。お金はなくても時間だけはたっぷりある大学生だったから、高速のインターチェンジをくぐることもなく、のんびりと一般道をいくことが多かった。スタバなんてまだなくて、ドリンクホルダーにはコンビニで買った缶コーヒーが定番だ。運転席の後ろのほうからバタバタとエンジン音が響いてくる、自分と同い年くらいのVWビートルは、太陽の下でドライブするのとは違って、街灯りのおかげでちょっとビンテージっぽく艶めいている。CDをかけると、開け放した窓から飛び込んでくる街の喧噪と混ざりあって、ひとりの時も、誰かと一緒の時も、それだけで特別な空間にしてくれるのだった。
街を抜け出して、窓の外に灯が少なくなってくると、だんだんと心の中に溜め込んだものたちが、流れでていくようだった。誰ともなくポツリポツリと、そんな心の中を語りだす。地元でよく出かけた場所のこと。出会った人たち、サヨナラした人たちのこと。あの時の選択が、正しかったのかどうか。そしてこれから、自分はどこへ向かっていくのか。みんな、前だったり横だったり思い思いの方を向いて、音楽を口ずさんだり目を閉じたり、好きなことをしている。でもそれが、話す方も聞く方も、重くなりすぎずにちょうどいい心地よさだ。
時には、たまたま通りかかった土手の小道をおりていって河原でひと休みしたり、誰かが「お腹すいた」とファミレスに入ったり。ラジオからサザンオールスターズが流れてきて、「今から江の島行こう!」と盛り上がって日の出を見て帰ってきたこともあったっけ。そんな夜ドライブをひとつ終えるごとに、私たちはちょっとだけ相手の心に近づいて、寄り添えるようになっていった。昼間、学校やバイト先で顔を合わせているだけでは見えなかった、人としての内側の部分や覆われていた部分を、夜がじんわりとあぶり出してくれたのかもしれない。そのおかげなのか、今は長いこと会っていなくても、どこかでみんなと通じ合っている気がする。
ひとりで出かける夜のドライブは、ちょっと疲れた心を抱えている時だ。こういう時は、迷わず高速道路に向かう。誰にも話せない、どうにもならない気持ちがアクセルを踏みつける。スピードメーターの針があがって、一定の位置に落ち着くと、心の波もだんだんと穏やかになっていく。
規則正しくコツンコツンと繰り返される路面の継ぎ目や、窓にひと筋の線をにじませながら、一定間隔で飛び去っていく街灯。そうしたものたちが、幼い頃、寝る間際にトントンと背中を叩いてくれた母の手のように、心のざわめきを鎮めていってくれるようだ。ふいに光がぼやけて見えて、自分が泣いていることに気づく。そのまま涙があふれたって、誰もが前を向いて走り過ぎるこの場所なら、なにも都合の悪いことはない。気の済むまで走って走って、心の水面が平均値に戻るまで、夜とクルマと高速道路はいつでも私を受け入れてくれた。
思えば人生の大きな決断はいつも、こうした夜のドライブで決めてきたような気がする。太陽が隠れた世界は、決してなにも見えない闇じゃない。見よう見ようとじっと目を凝らしても普段は見ることのできない、いろいろなものを夜は五感で感じさせてくれるのだ。
私はこれからも、大切な人ともっと深く寄り添うために、そして自分自身の心を見つめるために、夜な夜なステアリングを握ることだろう。
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text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。
ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。
text:まるも亜希子/Akiko Marumo
エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集者を経て、カーライフジャーナリストとして独立。
ファミリーや女性に対するクルマの魅力解説には定評があり、雑誌やWeb、トークショーなど幅広い分野で活躍中。国際ラリーや国内耐久レースなどモータースポーツにも参戦している。
暖色の夜空に向かって
text:竹岡圭
大嫌いだけど、大好き。私にとって「夜」とは、まったく不思議な時間帯だ。
小さい頃から基本的に私は朝型で、夜になるとパワーがなくなるというか、すぐ眠くなってしまうタイプ。陽の光を浴びている方が、元気いっぱい過ごせる性質なのだ。それに、夜は妖のみなさんが活動しやすい時間帯でもあるからして、丑三つ時にひとりなんていうのは、なんとなく怖い。オマケにいまの季節の夜は寒い。もう言うまでもなく、寒いのは大の苦手である…。
と、ノッケから夜なんて大嫌~い的な、夜否定派のごとき羅列をさせていただいたが、これがひと度ハンドルを握ると話は一転。夜って大好き~! になってしまうのだから、なんとも不思議なものだ。
心と時間に余裕がある時は、わざわざ夜ドライブに出掛けなくとも、もう少し遠回りして帰ろうかなぁ~なんて具合に、クルマを走らせてみたくなるし、寒さだってクルマの中に居れば関係ないどころか、逆に寒いから降りたくなくなるくらい。まぁ、丑三つ時はやっぱり怖いけれど、そんな時はいわゆる危険地帯を避けて走ればいいだけのこと。つまり、夜+ドライブとなると、夜が大嫌いな理由が瞬間的にぶっ飛んでしまうかのごとく、怪しげな魅力に絡めとられてしまうのだ。
机の前に座っている今も「春は桜のトンネルアーチ、夏は潮騒が聞こえる海辺、秋は魅入られそうな月の下、冬は煌びやかに輝く街中…。ゆっくりと走り抜けたら、さぞかしキレイだろうなぁ~」なんていう具合で、ホンのちょっと思いを巡らせたぶんだけ、まざまざと、とっておきの風景が浮かんでくる。
特に今の季節は澄み渡った空気の中、そこかしこにイルミネーションが施され、まるで街中がエレクトリカルパレード! 頭の中にお馴染みのあのメロディーが駆け巡り始めるくらい美しい時だ。若い頃と違って、わざわざ夜を待ってドライブに出掛けることは少なくなってしまったけれど、ちょっと遠回りしての夜ドライブに繰り出すのは、昼間は平凡な風景が、夜は特別な景色に姿を変えるこの季節が多い。
というのも、そんな景色を眺めていると、なんだか心がスッと軽くなるのだ。特に用事がなくても、なんとなく世間がせわしない師走のひととき、イルミネーション輝く街を眺めているだけで、フッと心が解放される。解放されるにもいろいろあって、心がウキウキと弾むときもあれば、わけもなく切なくて、瞳がウルウルし始めることもある。時には堪え切れなくなって、涙が堰を超えてしまうことも…。そんな時も、クルマの中なら恥ずかしがることは何もない。思うがままに涙を流してしまえば、ほぼ間違いなく心がスッキリ軽くなる。
言ってみれば、これもストレス解消法のひとつなのかもしれない。だって、こうして改めて思い返してみると、切ない、悲しい、寂しい…、とまぁ、内容は漠然とはしているのだけれど、ものの見事にマイナス方向に浸りながら夜景を見つめているシーンばかりがフラッシュバックし始めるのだ。私ってこんなに暗かったかしら?
これじゃぁ、いけない。う~む、ウキウキしていた夜景の思い出はどんな時だったっけ…? と考えてみたら(と、考えなきゃいけない時点でだいぶ暗いのだが)、大抵の場合誰かと一緒に見た夜景だったことに思い至った。他愛もない話をしながら友達と見た夜景、彼氏とラブラブ腕を組みながら見たロマンティックな夜景。こちらはもう当たり前のように、暖色系の想いで溢れかえっている。
よし! こうなったら今シーズンの冬は、ステキな恋人と~なんて贅沢は言わない。せめて誰かと一緒の、ポカポカと暖かい夜景の夜ドライブでいっぱいにしたいと思う。そうすれば、大嫌いの付かない大好きなだけの夜が、もっともっと増えるに違いないから。
大嫌いだけど、大好き。私にとって「夜」とは、まったく不思議な時間帯だ。
小さい頃から基本的に私は朝型で、夜になるとパワーがなくなるというか、すぐ眠くなってしまうタイプ。陽の光を浴びている方が、元気いっぱい過ごせる性質なのだ。それに、夜は妖のみなさんが活動しやすい時間帯でもあるからして、丑三つ時にひとりなんていうのは、なんとなく怖い。オマケにいまの季節の夜は寒い。もう言うまでもなく、寒いのは大の苦手である…。
と、ノッケから夜なんて大嫌~い的な、夜否定派のごとき羅列をさせていただいたが、これがひと度ハンドルを握ると話は一転。夜って大好き~! になってしまうのだから、なんとも不思議なものだ。
心と時間に余裕がある時は、わざわざ夜ドライブに出掛けなくとも、もう少し遠回りして帰ろうかなぁ~なんて具合に、クルマを走らせてみたくなるし、寒さだってクルマの中に居れば関係ないどころか、逆に寒いから降りたくなくなるくらい。まぁ、丑三つ時はやっぱり怖いけれど、そんな時はいわゆる危険地帯を避けて走ればいいだけのこと。つまり、夜+ドライブとなると、夜が大嫌いな理由が瞬間的にぶっ飛んでしまうかのごとく、怪しげな魅力に絡めとられてしまうのだ。
机の前に座っている今も「春は桜のトンネルアーチ、夏は潮騒が聞こえる海辺、秋は魅入られそうな月の下、冬は煌びやかに輝く街中…。ゆっくりと走り抜けたら、さぞかしキレイだろうなぁ~」なんていう具合で、ホンのちょっと思いを巡らせたぶんだけ、まざまざと、とっておきの風景が浮かんでくる。
特に今の季節は澄み渡った空気の中、そこかしこにイルミネーションが施され、まるで街中がエレクトリカルパレード! 頭の中にお馴染みのあのメロディーが駆け巡り始めるくらい美しい時だ。若い頃と違って、わざわざ夜を待ってドライブに出掛けることは少なくなってしまったけれど、ちょっと遠回りしての夜ドライブに繰り出すのは、昼間は平凡な風景が、夜は特別な景色に姿を変えるこの季節が多い。
というのも、そんな景色を眺めていると、なんだか心がスッと軽くなるのだ。特に用事がなくても、なんとなく世間がせわしない師走のひととき、イルミネーション輝く街を眺めているだけで、フッと心が解放される。解放されるにもいろいろあって、心がウキウキと弾むときもあれば、わけもなく切なくて、瞳がウルウルし始めることもある。時には堪え切れなくなって、涙が堰を超えてしまうことも…。そんな時も、クルマの中なら恥ずかしがることは何もない。思うがままに涙を流してしまえば、ほぼ間違いなく心がスッキリ軽くなる。
言ってみれば、これもストレス解消法のひとつなのかもしれない。だって、こうして改めて思い返してみると、切ない、悲しい、寂しい…、とまぁ、内容は漠然とはしているのだけれど、ものの見事にマイナス方向に浸りながら夜景を見つめているシーンばかりがフラッシュバックし始めるのだ。私ってこんなに暗かったかしら?
これじゃぁ、いけない。う~む、ウキウキしていた夜景の思い出はどんな時だったっけ…? と考えてみたら(と、考えなきゃいけない時点でだいぶ暗いのだが)、大抵の場合誰かと一緒に見た夜景だったことに思い至った。他愛もない話をしながら友達と見た夜景、彼氏とラブラブ腕を組みながら見たロマンティックな夜景。こちらはもう当たり前のように、暖色系の想いで溢れかえっている。
よし! こうなったら今シーズンの冬は、ステキな恋人と~なんて贅沢は言わない。せめて誰かと一緒の、ポカポカと暖かい夜景の夜ドライブでいっぱいにしたいと思う。そうすれば、大嫌いの付かない大好きなだけの夜が、もっともっと増えるに違いないから。
シフトする、夜
text:今井優杏
第三京浜を抜けて横浜に、もしくはそのままもうちょっと足を伸ばして湘南のほうにっていうのは、私のとっておきのドライブルート、自分を取り戻すための再生の特効薬だ。
ものの本に依れば、なにか落ち込んだときや怒りを感じたとき、いちばん心に傷をつけてしまうのは、ネガティブな感情をひきずってしまうことだという。すばやく気持ちを切り替えるには、呪文のようなワードや手に取るだけでハッピーになれるようなグッズを用意しておくのが効果的なのだそうだ。そういう気持ちを切り替えるためのものを、マインドシフターという。
もちろんわたしにとってはどうしたってドライブがマインドシフターになるわけで、とりわけ夜のそれは、心がしんと鎮まる感じ、ステアリングと自分の掌、そしてアクセルペダルを踏み込むつま先に気持ちが集中していく感じがとびきり上質な気分転換に思えて、とくに落ち込んでいないときでもフラっと出かけてしまうことたびたびだ。
夜のドライブに目覚めたきっかけを、今でも私ははっきりと思い出すことができる。だって、女には、どうしたってひとりにならなくちゃいけないときがあるんだもの。煩雑な仕事、無神経なクライアント、どこまでも追いかけてくるSNS。普段はむしろそれらを深く愛しているのに、ないと淋しくて、狂おしく求めてしまう日もあるのに、ある瞬間に急に水をかけられたかのように、シュン!と心の火が消えてしまう。誰の声も聴きたくないし誰にも逢いたくない。そうなったら、もう自分でもどうすることも出来ない。また心に灯が燈るのを、ただひたすら待つしかなくなってしまうのだ。
今はすっかり図太くなってしまったけれど、あのとき私はとても疲れていた。人生というものが、とてつもなく果てしなく茫漠たるモノだと感じていた。それは昼寝の力士みたくドテッと横たわっている、でくのぼうのようだった。永久に終わることのない試練。自分で終わりにすることの出来ないゲーム。はじめてしまったから、最後まで続けなければいけない。そのことに、心から落胆していたのだ。
そう、単純すぎてお恥ずかしいことこの上ないのだが、私はそのとき恋をしていたのだった。どうしても、どうしても実ることのない想い。好きで好きで逢いたくてたまらないのに、逢ってももらえない人のことを。後にも先にも、あんなに人を好きになったことはない。第一、悲恋だからこそそこまで焦がれてしまったのだ。実を結んでいたら、きっとそこまでのめり込むことはなかった。
今ならわかる。自分を追い込んでいたのは自分だということを。相手を神格化してしまうくらいに強く自分の心に刷り込んでしまった。迂闊だった。
当時私が住んでいたのは世田谷のはずれにある狭い1DKのマンションで、そんなキュウキュウの空間で彼のことを考え始めると、息が詰まって涙が出た。恋する相手に受け入れてもらえないことで、世界中から否定されたような気がしていた。…アホである。でも恋する乙女っていうのは、そんなモノなのだ。
そんなとき、救ってくれたのはそう、クルマだった。自動車評論家として初めて買った真っ赤なイタリア製のスポーツカーは、ポンコツで雨漏りするようなシロモノだったけど、それでどこにでも行った。冬でも手動の重ったるいルーフを自力で開けて、でっかい声で歌を歌って海に向かった。夜の闇が外界から私を遮断してくれた。いくら大声で歌っていても、私の顔を夜が隠してくれた。たどり着いた先では、クルマを降りて散歩することも、一切降りないでただひたすらその辺をグルグル走り回って帰ってくることもあった。海の見える駐車場で、ダッシュボードに足を投げ出して、音楽を聴くこともあった。音楽は夜のなかにゆるゆると流れ出て、凝り固まった私の気持ちを溶いてくれるような気がした。またあるいは音楽を消して、屋根を叩く雨の音をただ、聴いていることもあった。どんなときでも、家でひたすら毒にも薬にもならないような思考にふけっているよりは淋しくなかった。そう、クルマに乗ってさえいれば、孤独じゃなかったのだ。
今でもそのときの気持ちを思い出すと、キュンと切なくなる。あれだけ好きだったあの人の顔なんて本気で忘れてしまったのに、あのクルマとあの風景のことだけは、まるで昨日のことみたいに鮮明なのだ。
第三京浜を抜けて横浜に、もしくはそのままもうちょっと足を伸ばして湘南のほうにっていうのは、私のとっておきのドライブルート、自分を取り戻すための再生の特効薬だ。
ものの本に依れば、なにか落ち込んだときや怒りを感じたとき、いちばん心に傷をつけてしまうのは、ネガティブな感情をひきずってしまうことだという。すばやく気持ちを切り替えるには、呪文のようなワードや手に取るだけでハッピーになれるようなグッズを用意しておくのが効果的なのだそうだ。そういう気持ちを切り替えるためのものを、マインドシフターという。
もちろんわたしにとってはどうしたってドライブがマインドシフターになるわけで、とりわけ夜のそれは、心がしんと鎮まる感じ、ステアリングと自分の掌、そしてアクセルペダルを踏み込むつま先に気持ちが集中していく感じがとびきり上質な気分転換に思えて、とくに落ち込んでいないときでもフラっと出かけてしまうことたびたびだ。
夜のドライブに目覚めたきっかけを、今でも私ははっきりと思い出すことができる。だって、女には、どうしたってひとりにならなくちゃいけないときがあるんだもの。煩雑な仕事、無神経なクライアント、どこまでも追いかけてくるSNS。普段はむしろそれらを深く愛しているのに、ないと淋しくて、狂おしく求めてしまう日もあるのに、ある瞬間に急に水をかけられたかのように、シュン!と心の火が消えてしまう。誰の声も聴きたくないし誰にも逢いたくない。そうなったら、もう自分でもどうすることも出来ない。また心に灯が燈るのを、ただひたすら待つしかなくなってしまうのだ。
今はすっかり図太くなってしまったけれど、あのとき私はとても疲れていた。人生というものが、とてつもなく果てしなく茫漠たるモノだと感じていた。それは昼寝の力士みたくドテッと横たわっている、でくのぼうのようだった。永久に終わることのない試練。自分で終わりにすることの出来ないゲーム。はじめてしまったから、最後まで続けなければいけない。そのことに、心から落胆していたのだ。
そう、単純すぎてお恥ずかしいことこの上ないのだが、私はそのとき恋をしていたのだった。どうしても、どうしても実ることのない想い。好きで好きで逢いたくてたまらないのに、逢ってももらえない人のことを。後にも先にも、あんなに人を好きになったことはない。第一、悲恋だからこそそこまで焦がれてしまったのだ。実を結んでいたら、きっとそこまでのめり込むことはなかった。
今ならわかる。自分を追い込んでいたのは自分だということを。相手を神格化してしまうくらいに強く自分の心に刷り込んでしまった。迂闊だった。
当時私が住んでいたのは世田谷のはずれにある狭い1DKのマンションで、そんなキュウキュウの空間で彼のことを考え始めると、息が詰まって涙が出た。恋する相手に受け入れてもらえないことで、世界中から否定されたような気がしていた。…アホである。でも恋する乙女っていうのは、そんなモノなのだ。
そんなとき、救ってくれたのはそう、クルマだった。自動車評論家として初めて買った真っ赤なイタリア製のスポーツカーは、ポンコツで雨漏りするようなシロモノだったけど、それでどこにでも行った。冬でも手動の重ったるいルーフを自力で開けて、でっかい声で歌を歌って海に向かった。夜の闇が外界から私を遮断してくれた。いくら大声で歌っていても、私の顔を夜が隠してくれた。たどり着いた先では、クルマを降りて散歩することも、一切降りないでただひたすらその辺をグルグル走り回って帰ってくることもあった。海の見える駐車場で、ダッシュボードに足を投げ出して、音楽を聴くこともあった。音楽は夜のなかにゆるゆると流れ出て、凝り固まった私の気持ちを溶いてくれるような気がした。またあるいは音楽を消して、屋根を叩く雨の音をただ、聴いていることもあった。どんなときでも、家でひたすら毒にも薬にもならないような思考にふけっているよりは淋しくなかった。そう、クルマに乗ってさえいれば、孤独じゃなかったのだ。
今でもそのときの気持ちを思い出すと、キュンと切なくなる。あれだけ好きだったあの人の顔なんて本気で忘れてしまったのに、あのクルマとあの風景のことだけは、まるで昨日のことみたいに鮮明なのだ。
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text:今井優杏/Yuki Imai
レースクィーン、広告代理店勤務を経て自動車ジャーナリスト。WEB、自動車専門誌に寄稿する傍らモータースポーツMCとしての肩書も持ち、サーキットや各種レース、自動車イベント等で活躍している。バイク乗りでもあり、最近はオートバイ誌にも活動の場を広げている。
text:今井優杏/Yuki Imai
レースクィーン、広告代理店勤務を経て自動車ジャーナリスト。WEB、自動車専門誌に寄稿する傍らモータースポーツMCとしての肩書も持ち、サーキットや各種レース、自動車イベント等で活躍している。バイク乗りでもあり、最近はオートバイ誌にも活動の場を広げている。