'90年代、なぜ日本人は強かったのか。自分であり続けるための闘い ~坂田和人氏~

アヘッド 坂田和人

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連載第三回目となる今月は、世界GP 125ccクラスで2度の世界チャンピオンを獲得した坂田和人氏。その冷静な走り、圧倒的な強さの秘密はどこにあったのか…。

text:ahead編集長・若林葉子 写真協力・アライヘルメット/TSR [aheadアーカイブス vol.112 2012年3月号]
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'90年代、なぜ日本人は強かったのか。自分であり続けるための闘い ~坂田和人氏~

'90年代、なぜ日本人は強かったのか。自分であり続けるための闘い ~坂田和人氏~

‘90年代、世界GP125㏄クラスで2度のタイトルを手にした坂田和人氏は、このページには外せない人だと思っていた。ノビーこと上田 昇氏が、「今度オレが編集部に連れて行くよ」と言ってくれていたのだが、ヨーロッパやアジアを飛び回るノビーのこと。実現するのはずっと先だろうと思っていた。

そんなときにチャンスが巡ってきた。前号に登場していただいたテクニカルスポーツレーシング(TSR)の松山弘之さんが間に入ってくれたのだ。早速、本人にメールで連絡をすると、すぐに返信が来た。文章も明確で分かりやすい。レスポンスの早さ、やりとりの正確さが際立っている。背筋がピンと伸びるような思いがした。

現役時代の坂田和人氏の物事に対する厳しさや完全主義は今も語り草だと聞いていたので、緊張して当日を迎えた。しかしインタビューする私よりも心配していたのが、坂田氏と今でも仲の良いノビーだ。当日の朝も、話のネタにと“さんちゃん”(坂田氏のニックネーム)情報を教えてくれたのはおかしかった。

坂田氏が指定したファミレスに待ち合わせの30分程前に到着。まだお昼の混雑が残る店内でとりあえず空いている席に座った。ほどなくして現れた坂田氏は、挨拶が終わるとすぐに、「ココ、人が行き来して落ち着かないですよね」と他の席を探して少し奥まった席に移動した。「まだうるさいですけど、もうちょっとしたら落ち着きますから」。

なるほど、そうか、と思う。責任感の強い人なのだ。自分が指定した場所ゆえに、少しでも環境を整えなくてはと、自ら前に出る人なのだ。
ライダーとしての坂田和人氏の非凡さは今さら紹介するまでもない。1991年~1999年の間に2度の世界チャンピオン、2度のランキング2位を獲得。その華々しい活躍は当時を知る日本人の記憶に深く刻まれている。

しかし決して恵まれた環境で世界一を勝ち得たわけではない。むしろ逆。ワークスライダーのようにメーカーの後ろ盾もない。ヨーロッパになんのバックボーンもない。そんな不利な条件の中でいかに勝つか。それを考え、実行し、闘い続けた9年間だった。

TSR在籍中の93年、自分の乗り方に合わなかったため、シーズン途中でタイヤメーカーを変更した。プロレースの常識から考えれば「あり得ないこと」と分かったうえで、それでもチームに変更を要求した。「変えてくれるとは思わなかった」が、チームはそれを受け入れる。

しかし、変更したタイヤメーカーの契約ライダーではない坂田氏には、他のライダーが使わない余ったタイヤしか供給されなかった。だが、自分が良いと信じたタイヤで走り、ポールから2位。次レースではポールから優勝という結果を出した。

危険なレースで闘う以上、怪我をして後悔をしたくない。自分の考えたやり方で納得して闘いたい。それが一貫した坂田氏のレース哲学だ。

‘94 年以降、イタリア製のアプリリアで走るようになった理由もそこにある。当時、日本製のマシンはアプリリアに比べて圧倒的な性能を誇っていた。マシンの耐久性はもちろん、パーツの供給も安定していた。マシン的には大きな冒険だったのだ。

「日本メーカーのチームにいるより縛られなくていいかなと。ヨーロッパのメーカーの方が煩わしさは少ないだろう、多少無理な要求をしても、しっかりと結果を残していれば評価されるだろうと思ったからです」。

全日本時代から、どこかのチームに入ってレースをするという考えはなかった。何かあったときに後悔しない。ミスをしたときに誰かのせいにしたくない。自分のやり方で結果を出す。それが全てのベースだった。

「レースで借金はしない」、それも坂田氏のポリシーのひとつだ。レースを始めた20歳の頃から、稼いだお金だけでレースをしてきた。もともと得意だったトラックの運転手で稼いだ。朝から夕方まで働き、また夜から朝まで働いた。アパートには荷物を取りに行くだけという毎日。使えるお金はすべてレースに注ぎ込んだ。それでも、ヨーロッパに渡ることになった24歳のとき、自活し、レースをし、実家にも送金しながら貯めたお金は約600万円になっていた。

借金をすると結局それによって自分自身が縛られる。坂田氏にとって自分が納得してレースをするために、お金は必要なものだったのだ。イタリアのチームと契約しながらも、メカニックは最後まで1つ年下の弟を始めとする日本人を起用した。それも“自分のレース”をするために譲れない条件だったからだ。

メカニックが安心して仕事ができるように、契約は坂田氏とメカニックが直接結んだ。チームからの支払いが滞っても、弟への分も含め、彼らには自分のポケットマネーから遅滞なく支払った。それはメカニックの生活を守ることであると同時に、結果として自身の環境を守ることでもあったはずだ。

プロとしての契約にこだわる一方、いくらスポンサードしてくれると言われても、ヘルメットならアライ、レザースーツならステージというふうに、信頼するメーカーのものしか身に付けなかった。そのことが、坂田氏の姿勢をよく表している。しかし、実は1度だけ、スポンサードの話があって、別のメーカーのレザースーツを着たことがあった。その時、鎖骨を折ってしまう。「やっぱり、ぶれてはダメだと改めて思いましたね」。
坂田和人という人は、大事なものがはっきりしている。彼にとって一番大事なことは、自分が自分らしくあることだ。レースができればそれでいい、レースに勝てればそれでいいのではなく、自分のやり方でレースに勝つこと。

レースで勝ちながらも、常に自分らしくあること。そのためには、言いたいことははっきり言う。言った以上は、必ず結果を出す。その繰り返しが2度の世界チャンピオンにつながった。

彼の世界グランプリでの9年間の闘いは、自分が自分であり続けるための、プライドを賭けた闘いであったと思う。坂田氏に会って初めて、世界チャンピオンとは何かが少し分かった気がしている。

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
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