Rolling 40's vol.47 第三京浜―「異界」への入り口

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第三京浜を初めて横浜に向かって自らの運転で走ったのは18歳の初夏だった。免許取りたて、それも発行されてから2時間も経たないうちだったと記憶している。

text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.117 2012年8月号]
Chapter
vol.47 第三京浜―「異界」への入り口

vol.47 第三京浜―「異界」への入り口

東京生れの東京育ちの私たちが第三京浜を横浜に向かう意味は一つだけだった。

「異界」

横浜で育った人たちは、自分たちのことを神奈川県民とは言いたがらない。それは横浜というものが神奈川県という単なる東京都下の一エリアではないというプライドを持っている証だ。

確かに横浜は歴史的にも日本有数の外国人居留地であったことから、いまだに外国文化との接合部的役割を持っている。その始まりを調べると面白い話があった。

1858年(安政5年) 神奈川湊の沖のアメリカ船上で、日米修好通商条約を締結した。そしてこのときに「神奈川」を開港地と定め、米国側は東海道・神奈川宿の開港を求めた。だが幕府は外国人と多くの住民が直接に交流するのを恐れ、寒村だった横浜村に専用の港を建設することになる。

これは面白い。つまり横浜というものは元々「先進的」な場所ではなかったのだ。反対に幕府としては物流と文化の大動脈である東海道を避けるために、わざと寒村である横浜村を押し付けたということなのだ。だが、そこからの歴史の展開は言うに及ばず、幕府が押し付けた寒村は外国の勢いと共に、日本有数の外国文化と貿易の拠点となっていく。

そして明治から昭和と横浜はさらに外国文化代理店としての役割を色濃くし、第二次世界大戦後は横浜のほとんどの港や市街地は米軍に接収され、米軍基地や関連施設ができた。そんな歴史を深く刻み続けてきた横浜というエリアは、私たちが18歳だった昭和末期でも特別な「異界」であった。

最初にその存在を意識したのは、当時の男の子たちのほとんどが読み漁った漫画だった。その漫画は横浜が舞台で、横浜生まれの横浜育ちの主人公の少年が恋、バイク、ケンカにと大らかな青春を楽しむような話だ。その漫画に出てくる英語が飛び交うバーや戦後から続いているアメリカンダイナー。

今となれば大して珍しくもないものだが、当時の私たちをドキドキさせるには十分過ぎるものだった。また中華街、外人墓地などというキーワードが気持ちを躍らせ、港の見える丘公園から見る夜景に憧れた。

漫画の夢想のままバイクで訪れた横浜は、漫画の世界以上に漫画のままだった。主人公のようには自由に闊歩できないものの、その雰囲気を生で感じるだけで十分だった。

東京の真横にこんなにも輝くものが溢れているという事実に、訪れる度に横浜という響きが特別なものになっていく。知るほどに単なる海沿いの観光地とも違い、自分たちが到底たどり着けない歴史的深みも兼ね備え、東京に全く媚びることもない。

またそんな魅惑的な場所は大抵、駅などからは大きく離れた港湾地区の外れなどにあるのが定石で、それはバイクやクルマがなくては訪れることもできないことを意味した。

20代になりテレビや映画の仕事を始めた頃、ちょうど横浜をロケ地にする物語が多かった。否応なしにドラマチックな雰囲気にさせてくれる「異界」として重宝されたのだろう。私たちにとっても、横浜ロケという響きは、仕事だと分かっていてもどこかワクワクするものがあった。東京のすぐ隣の町だと分かっていても、どこか果てしなく遠くの街にいるような錯覚を見せてくれる。

近いようで、自分たちの生まれ育った東京都とは何から何まで違う横浜という存在。夜の環八から、第三京浜を横浜に向かって走り出す瞬間、一気に三車線に広がる滑走路のような風景に否応なしに心が躍る。 仲間や恋人が一緒ならより一層。

わずか15分もない特別な時間であるが、それは普通の高速道路で親戚の家に向かうのとは全く違う意味があった。まるで「異界」へのワープだ。

この思いは東京に生まれ育った側だけが持つものなのだろうか。反対に横浜で生まれ育った側からすると、それはいざ東京へというような、別の意味を持つのかもしれない。

第三京浜は自動車で走ってしまえば渋滞も少ない故に、直線が多くて、あっという間の時間だ。そのワープ感覚が、都市と都市をつなぐ交通という意味以上に、特別な思いを私たちの心に何かを印象付けているのだろう。単なる移動というよりは、その先の世界への想いに溢れている。そんな不思議な道のりだ。

同時に帰り道の第三京浜は、自分の暮らすホームタウンへと気持ちを切り替えてもくれる。そこを通り過ぎたのなら、「異界」から元の世界に。
私の中で第三京浜はただの移動に使う高速道路ではない。東京のど真ん中に開いている「異界」入り口だ。

もしかすると東京と横浜という二つの世界をつなげているのではなく、反対に意図的に隔てているのかもしれない。だからこそ、今でも横浜は東京にとって魅力的な「異界」として在り続けることができるのかもしれない。

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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968
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