ポルシェ959、メルセデス190Eなど。バブル期にカーマニアを熱くさせた輸入車6選
更新日:2024.09.09
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バブル期とは様々な意味で刺激的でした。日本車はハイパワー、ハイテク化の進歩・発展がいちじるしく、日を追うごとに高性能化。また同時に豊かになった生活感を反映する贅沢なしつらえ。そして円高レートによる輸入車の著しい台頭も忘れることができません。今回は6台、当時を思い起こさせる輸入車を取り上げて、ちょっと懐かしんでみましょう。
①憧れのハイテクマシーン「ポルシェ959」
1986年に登場したポルシェ959。このクルマは、911と同じリアエンジンでありながら、前方へプロペラシャフトを伸ばしたフルタイム4WD。「全天候型」スポーツカーというスタンスは、まさに新しい時代のポルシェの到来を印象づけました。
洗練された空力ボディ、総革張りの豪奢なインテリア。レーシングカーであるポルシェ962Cのデチューン版といわれる、シリンダーヘッドのみを水冷化したフラットシックスの450ps/51Kgmという途方もないパワー&トルク。いまでこそ500馬力クラスのクルマはいくらでもありますが、当時としては超ド級のスーパーカーだったわけです。
ポルシェはこのクルマのプロトタイプをパリダカで走らせ、優勝も経験しています。ロードカーのイメージが強かったポルシェ。のちにカイエンが登場してSUVジャンルにも参入するわけですが、一方でかなり以前からレンジローバーなどを大量に買い込んで4輪駆動とオフロードへの研究も地道におこなっていたと聞きます。
生産台数は283台と言われ、数少ない日本の地を踏んだ959のオーナーの1人にビートたけしさんがいたことはあまりにも有名。
筆者は当時、959が登場する映画を、渋谷東急まで友達と見に行った記憶があります。またタミヤ模型が発売したプラモデルはそれこそ何台も(!)作りました。一体式リアウイングの処理が難しくてなかなか納得できなかったのです。同じくタミヤ模型からグループB仕様のRCカーも発売されていましたが、こちらは高くて買えなかった…。
いろんな意味で高嶺の花、というポルシェ959でした。
洗練された空力ボディ、総革張りの豪奢なインテリア。レーシングカーであるポルシェ962Cのデチューン版といわれる、シリンダーヘッドのみを水冷化したフラットシックスの450ps/51Kgmという途方もないパワー&トルク。いまでこそ500馬力クラスのクルマはいくらでもありますが、当時としては超ド級のスーパーカーだったわけです。
ポルシェはこのクルマのプロトタイプをパリダカで走らせ、優勝も経験しています。ロードカーのイメージが強かったポルシェ。のちにカイエンが登場してSUVジャンルにも参入するわけですが、一方でかなり以前からレンジローバーなどを大量に買い込んで4輪駆動とオフロードへの研究も地道におこなっていたと聞きます。
生産台数は283台と言われ、数少ない日本の地を踏んだ959のオーナーの1人にビートたけしさんがいたことはあまりにも有名。
筆者は当時、959が登場する映画を、渋谷東急まで友達と見に行った記憶があります。またタミヤ模型が発売したプラモデルはそれこそ何台も(!)作りました。一体式リアウイングの処理が難しくてなかなか納得できなかったのです。同じくタミヤ模型からグループB仕様のRCカーも発売されていましたが、こちらは高くて買えなかった…。
いろんな意味で高嶺の花、というポルシェ959でした。
②走る不動産!? 2億5千万円の究極のフェラーリ「F40」
ポルシェ959があくまでも日常性を備えたスーパーカーであったことに対し、フェラーリF40はとことんスピードを追求し、そのままレースに出場できることを念頭において作られたクルマ。レースやサーキットの匂いがどことなく漂ってくるような、そんなスパルタンな、しかしフェラーリの理念を凝縮した1台と言えるでしょう。
1987年、フェラーリの創業40周年を記念してリリースされたことは、その名前にも示されていますが、フェラーリとはレースの歴史、レースに出られる市販車を作って販売することを旨としてやってきた会社です。それが時代とともに市場の要求に応える形で、ラインナップはどんどんレースから遠ざかる傾向にありました。
その意味で、このF40はコンペディションユースを前提とした、本来の姿に立ち戻らせるような、レーシングカーそのものといった設計。インテリアもカーボンなどの素材がむき出しで、シートはリクライニングなど備えないフルバケットが2脚。たった1,100kgの車体に、478ps/58.8KgmのV8ツインターボを搭載し、パワーウェイトレシオは、2.3kgという途方もないものでした。
世の中見渡しても、ここまでストイックな市販車はほかになく、死と隣り合わせであるレースに向かうためのクルマ、それゆえに”死の香りのするクルマ”などという表現も当時にはありました。それはこのクルマへの最大の賛辞です。
またバブル景気に沸く日本国内では、その希少性から販売価格が一時、2億5千万円にまでが跳ね上がるという始末(ディーラー価格4,650万円)。大変な人気が沸き起こりました。
当時、筆者の世代のクルマ好き少年の間では、959とF40、どちらが上かという議論が盛んに行われていましたが、いまになってみると微笑ましい思い出です。
そもそもポルシェ959の車重は1,700kg以上もあって、互いに住む世界がちがうということは見ればわかります。ただただスペックやタイムデータを比較するだけではない、それぞれの世界観があるということくらいは筆者は知っていましたが、それでも話し出すとなかなか止まらなかったものです。
1987年、フェラーリの創業40周年を記念してリリースされたことは、その名前にも示されていますが、フェラーリとはレースの歴史、レースに出られる市販車を作って販売することを旨としてやってきた会社です。それが時代とともに市場の要求に応える形で、ラインナップはどんどんレースから遠ざかる傾向にありました。
その意味で、このF40はコンペディションユースを前提とした、本来の姿に立ち戻らせるような、レーシングカーそのものといった設計。インテリアもカーボンなどの素材がむき出しで、シートはリクライニングなど備えないフルバケットが2脚。たった1,100kgの車体に、478ps/58.8KgmのV8ツインターボを搭載し、パワーウェイトレシオは、2.3kgという途方もないものでした。
世の中見渡しても、ここまでストイックな市販車はほかになく、死と隣り合わせであるレースに向かうためのクルマ、それゆえに”死の香りのするクルマ”などという表現も当時にはありました。それはこのクルマへの最大の賛辞です。
またバブル景気に沸く日本国内では、その希少性から販売価格が一時、2億5千万円にまでが跳ね上がるという始末(ディーラー価格4,650万円)。大変な人気が沸き起こりました。
当時、筆者の世代のクルマ好き少年の間では、959とF40、どちらが上かという議論が盛んに行われていましたが、いまになってみると微笑ましい思い出です。
そもそもポルシェ959の車重は1,700kg以上もあって、互いに住む世界がちがうということは見ればわかります。ただただスペックやタイムデータを比較するだけではない、それぞれの世界観があるということくらいは筆者は知っていましたが、それでも話し出すとなかなか止まらなかったものです。
③誰もが手にできるメルセデスクオリティ「190E」
メルセデス・ベンツはその崇高な思想、また価格帯が高く、おいそれと手を出せるタイプのクルマではありませんでした。ましてや日本において「ベンツに乗ることができる…アイツは、どんな仕事してるんだ」という、やっかみのような目で見られていたことも事実です。自動車としては正しくても、周囲の目が気になって手が出せない、そんな人がいたことを筆者は実際に知っています。
そんなムードに一矢報いたのが、190E。5ナンバーに収まるコンパクトなサイズに、メルセデスの哲学をぎっしり詰め込んだ小さな高級車です。SクラスやEクラスより、どことなく控えめであまり目立たないところも、日本人のマインドにジャストフィット。一時は大変な品薄状態だったこともあります。
それほどに人気を博し、またこの190Eの人気が起爆剤となり、折からの好景気により他のメルセデスの人気も高まり、日本での地位を確かなものとしました。
小さくても巌の安心感。なめらかにストロークする懐の深いアシに、いま乗ってみるとまたなんと運転視界の優れていることか。確かな操縦性や安心感、十全に整備された運転環境はなによりドライバーのストレスを軽減し、正しく危険を認識させ、積極的に運転に臨むことのできる、きわめて優れたツールであることを強く印象づけました。
そんなムードに一矢報いたのが、190E。5ナンバーに収まるコンパクトなサイズに、メルセデスの哲学をぎっしり詰め込んだ小さな高級車です。SクラスやEクラスより、どことなく控えめであまり目立たないところも、日本人のマインドにジャストフィット。一時は大変な品薄状態だったこともあります。
それほどに人気を博し、またこの190Eの人気が起爆剤となり、折からの好景気により他のメルセデスの人気も高まり、日本での地位を確かなものとしました。
小さくても巌の安心感。なめらかにストロークする懐の深いアシに、いま乗ってみるとまたなんと運転視界の優れていることか。確かな操縦性や安心感、十全に整備された運転環境はなによりドライバーのストレスを軽減し、正しく危険を認識させ、積極的に運転に臨むことのできる、きわめて優れたツールであることを強く印象づけました。
④六本木のカローラ。シルキーシックスに酔いしれた「BMW3シリーズ」
メルセデスに比べると、ちょっと瀟洒な印象で、どちらかというと「カタカナ職業」を連想させるようなところのあったBMW。実際に筆者の個人的に知り合いだったカメラマンが、これに乗っていました。なにを隠そう、筆者の初めての輸入車体験がこのクルマでした。
1987年モデルの325i。5年で10万キロは走行していたその個体。しかし適切にメンテナンスされたBMWというのはまったく衰えのようなものを感じさせることがなく、シャキっとしたボディ、なめらかに回るシルキーシックス、しなやかでいてしたたかな乗り心地とハンドリング。
すべて見事なバランスで調律された楽器を演奏したときのような、背筋の伸びるような思いがしたことを覚えています。
サイズは、当時のカローラよりほんの少し大きいくらい。”六本木カローラ”という異名は、そうした意味でも的外れではなかったということになりますね。そしてもちろんその小ささがドライバーとの一体感を、とても高めてくれるわけです。人馬一体、この言葉を最近もよく聞きますが、まずこのクルマに乗ってからにして欲しい。個人的な思いです。
メルセデス190Eとは、当時双璧を成す人気輸入車だった3シリーズ。しかしメルセデスにもBMWにもそれぞれに魅力やこだわり、また味わいがあって、あらためて接しても十分に魅力的。あの頃の日本人がこぞって欲しがったのは、なにもお金があったから、それだけの理由ではないように思えるのは筆者だけでしょうか。
1987年モデルの325i。5年で10万キロは走行していたその個体。しかし適切にメンテナンスされたBMWというのはまったく衰えのようなものを感じさせることがなく、シャキっとしたボディ、なめらかに回るシルキーシックス、しなやかでいてしたたかな乗り心地とハンドリング。
すべて見事なバランスで調律された楽器を演奏したときのような、背筋の伸びるような思いがしたことを覚えています。
サイズは、当時のカローラよりほんの少し大きいくらい。”六本木カローラ”という異名は、そうした意味でも的外れではなかったということになりますね。そしてもちろんその小ささがドライバーとの一体感を、とても高めてくれるわけです。人馬一体、この言葉を最近もよく聞きますが、まずこのクルマに乗ってからにして欲しい。個人的な思いです。
メルセデス190Eとは、当時双璧を成す人気輸入車だった3シリーズ。しかしメルセデスにもBMWにもそれぞれに魅力やこだわり、また味わいがあって、あらためて接しても十分に魅力的。あの頃の日本人がこぞって欲しがったのは、なにもお金があったから、それだけの理由ではないように思えるのは筆者だけでしょうか。
⑤"腕が太くなっちゃう"を口癖にさせた「プジョー205」
外車というとドイツ車やデカいアメ車、という固定イメージが抜けなかった日本ですが、その感覚を打破するのにひと役買ったのが、フランスのプジョー205だったように思います。
手頃な値段で、しかもフランス人の普段着感覚をそのまま味わえる、ちょっとおしゃれで可愛らしいデザインのハッチバックカーは、たちまち女性人気を獲得します。
デザインは、ピニンファリーナとプジョーの合作。引き締まったキュートなスタイルに、ヨーロッパを強く感じるイエロービーム。黄色い光を放つヘッドライトが、このクルマをまた異質なキャラクターにしているようなところがありましたよね。
205GTIのエンジンは、当初1.6リッター。これが排ガス規制対応などのために、排気量アップされて1.9リッターに。おかげで扱いやすさも増して、さらにファン層を広げます。
販売はまだプジョージャポンが存在せず、オースチンローバージャパンが受け持ったり、スズキが受け持ったり、日商岩井だったりと転々としているかに見えて、モデルライフを通じて確実に顧客を掴んでいたのは、やはりクルマ本体の魅力の賜物でしょう。
ただ、スタイリッシュなところに惹かれて購入した女性オーナーの多くは、そのハンドルの重さに「腕が太くなっちゃう」と愚痴をこぼしていたものです。なにせパワーステアリングなしのFF車。男の腕でも充分重いわけです。いま思うと当時の女性たちは強かったんですね!
しかし、それも後期モデルとなる1991年からは、パワーステアリングが加わるなどして、プジョーは適切に対策を施していました。
手頃な値段で、しかもフランス人の普段着感覚をそのまま味わえる、ちょっとおしゃれで可愛らしいデザインのハッチバックカーは、たちまち女性人気を獲得します。
デザインは、ピニンファリーナとプジョーの合作。引き締まったキュートなスタイルに、ヨーロッパを強く感じるイエロービーム。黄色い光を放つヘッドライトが、このクルマをまた異質なキャラクターにしているようなところがありましたよね。
205GTIのエンジンは、当初1.6リッター。これが排ガス規制対応などのために、排気量アップされて1.9リッターに。おかげで扱いやすさも増して、さらにファン層を広げます。
販売はまだプジョージャポンが存在せず、オースチンローバージャパンが受け持ったり、スズキが受け持ったり、日商岩井だったりと転々としているかに見えて、モデルライフを通じて確実に顧客を掴んでいたのは、やはりクルマ本体の魅力の賜物でしょう。
ただ、スタイリッシュなところに惹かれて購入した女性オーナーの多くは、そのハンドルの重さに「腕が太くなっちゃう」と愚痴をこぼしていたものです。なにせパワーステアリングなしのFF車。男の腕でも充分重いわけです。いま思うと当時の女性たちは強かったんですね!
しかし、それも後期モデルとなる1991年からは、パワーステアリングが加わるなどして、プジョーは適切に対策を施していました。
⑥カンクネン、ビアシオン、サインツ…鉄壁の強さを誇ったラリーチャンプ「デルタ・インテグラーレ」
当時、F1に次いで人気だったのが、WRC(世界ラリー選手権)。某自動車番組でダイジェストが放送されていただけにも関わらず、やはりクルマ好きの間で噂が広まるのは早く、細々とランチアの輸入を行っていたディーラー(ガレーヂ伊太利屋)にあった、デルタ HF インテグラーレの在庫はあっという間に捌けてしまったのだとか。
元来、デルタはゴルフⅠと同じジウジアーロがデザインした、ゴルフと同じ1.6Lクラスのコンパクトな実用車として誕生したモデルでした。
ところが、ラリーのレギュレーションが変更され、市販車をベースとしたGr.Aで戦われることに決まると、ランチアは上級モデル テーマ用の2リッターターボを押し込み、従来から研究を続けていた4WDシステムとドッキングさせ、デルタ HF 4WDを完成。その後、デルタはHFインテグラーレ、HFインテグラーレ16Vと年々進化を遂げていくことになります。
走りは、やはりと言うべきか、大きなエンジンを乗せたことによるフロントの重さを感じさせるもので、それを無理やり荷重移動させて曲がっていくという、ややテクニックを要するタイプ。
ただ、ランチア特有のストロークの長いサスペンションはしなやかでありながら路面を捉えて離さず、腕の立つドライバーには、堪えられない楽しさをもたらす、というややハイレベルな仕立てになっていました。
しかし、コンパクトなボディに不釣り合いなエンジンを搭載したことで、エンジンルームには熱がこもる問題が発生。ボンネットにルーバーを切ったり、バンパーに穴を開けたりと涙ぐましい努力も、ここ日本では明らかに冷却性能不足で、夏の都内では水温計と睨めっこ状態というのはオヤクソクでした。
しかも、そんな状態なのにデルタには、タイミングベルトのコマ飛びによるバルブクラッシュの問題がありました。原因は、ベルトテンショナーにあったようですが、なにしろ予知予見が難しく、タイミングベルトの交換サイクルは1万5千キロとか1万キロとか言われるほどでした。
しかし、その代償さえもが、マニアを惹きつける要素になっていた、そんな気もします。
さて、今回は値段もクラスもまったく異なる6台を取り上げてみました。他にも魅力ある輸入車はありますが、本日はここまで。
いま振り返ってみても、あのころはお金に余裕があったからというだけではなく、やはりクルマそのものにも大きな魅力、人を惹きつける力があったのだと再認識させられます。さらには日本人にとって、輸入車とはそれまで近寄りがたいものがあり、それがさまざまな理由から手を伸ばせる、手の届くところにやってきて、ようやく輸入車による「異文化交流」が始まった、そんなようにも見えます。
いまでこそ、輸入車は特別な意識や思い入れを持たずに当たり前のように乗れる存在となっていますが、あの頃はまだ多くの人にとって未体験領域であり、とても強く好奇心を掻き立てられる、それが輸入車の魅力そのものだったわけですよね。
クルマは国際商品です。ゆえに、お国柄のようなものが年々希薄になっている。そんな思いがするのもあの頃を知ればこそ、なのかもしれません。
元来、デルタはゴルフⅠと同じジウジアーロがデザインした、ゴルフと同じ1.6Lクラスのコンパクトな実用車として誕生したモデルでした。
ところが、ラリーのレギュレーションが変更され、市販車をベースとしたGr.Aで戦われることに決まると、ランチアは上級モデル テーマ用の2リッターターボを押し込み、従来から研究を続けていた4WDシステムとドッキングさせ、デルタ HF 4WDを完成。その後、デルタはHFインテグラーレ、HFインテグラーレ16Vと年々進化を遂げていくことになります。
走りは、やはりと言うべきか、大きなエンジンを乗せたことによるフロントの重さを感じさせるもので、それを無理やり荷重移動させて曲がっていくという、ややテクニックを要するタイプ。
ただ、ランチア特有のストロークの長いサスペンションはしなやかでありながら路面を捉えて離さず、腕の立つドライバーには、堪えられない楽しさをもたらす、というややハイレベルな仕立てになっていました。
しかし、コンパクトなボディに不釣り合いなエンジンを搭載したことで、エンジンルームには熱がこもる問題が発生。ボンネットにルーバーを切ったり、バンパーに穴を開けたりと涙ぐましい努力も、ここ日本では明らかに冷却性能不足で、夏の都内では水温計と睨めっこ状態というのはオヤクソクでした。
しかも、そんな状態なのにデルタには、タイミングベルトのコマ飛びによるバルブクラッシュの問題がありました。原因は、ベルトテンショナーにあったようですが、なにしろ予知予見が難しく、タイミングベルトの交換サイクルは1万5千キロとか1万キロとか言われるほどでした。
しかし、その代償さえもが、マニアを惹きつける要素になっていた、そんな気もします。
さて、今回は値段もクラスもまったく異なる6台を取り上げてみました。他にも魅力ある輸入車はありますが、本日はここまで。
いま振り返ってみても、あのころはお金に余裕があったからというだけではなく、やはりクルマそのものにも大きな魅力、人を惹きつける力があったのだと再認識させられます。さらには日本人にとって、輸入車とはそれまで近寄りがたいものがあり、それがさまざまな理由から手を伸ばせる、手の届くところにやってきて、ようやく輸入車による「異文化交流」が始まった、そんなようにも見えます。
いまでこそ、輸入車は特別な意識や思い入れを持たずに当たり前のように乗れる存在となっていますが、あの頃はまだ多くの人にとって未体験領域であり、とても強く好奇心を掻き立てられる、それが輸入車の魅力そのものだったわけですよね。
クルマは国際商品です。ゆえに、お国柄のようなものが年々希薄になっている。そんな思いがするのもあの頃を知ればこそ、なのかもしれません。