東京エスプリ倶楽部 vol.5 死者に捧げるフェラーリ

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新型フェラーリの発表会ほどワクワクするものはない。まして、それがどんなカタチをしているのか、まったく知らないとなれば、なおさらだ。2016年の年末に開かれた“Ferrari 50 Anniversary in Japan Finale”の席に私はいた。フェラーリ日本正式上陸50周年を記念する特別限定車、J50が発表された場である。

text:今尾直樹 [aheadアーカイブス vol.170 2017年1月号]
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vol.5 死者に捧げるフェラーリ

vol.5 死者に捧げるフェラーリ

記者発表会が始まると、冒頭にビデオ・レターが披露された。ピエロ・フェラーリが出てきて、「父はいつも日本のことを気にかけていた」と語った。

私はマラネロのエンツォの執務室でピエロ・フェラーリにインタビューしたことがある。観客13人が亡くなった1957年のミッレ・ミリアの大事故の時、エンツォは苦悩し、もうやめたいと言っていたという。

それでも結局やめなかった。自動車をもっとよいものにすることが自分の使命だと父は考えたからだ、というようなことを息子は語った(と記憶する)。

と書いて思ったのだけれど、ピエロ・フェラーリは1945年生まれだから、あの事故の時、12歳だったことになる。12歳の少年にとっても衝撃だったに違いない。

レース史上最大の惨事とされるのは1955年のル・マン24時間で、観客席に飛び込んだメルセデス・ベンツ300SLRがドライバーと81名の観客の命を奪った。この事故によりメルセデスはサーキットから撤退する。

余談の余談ながら、この'55年の事故時のタイヤのゴム片をシュトゥットガルトのメルセデスの資料室で見たことがある。彼らは歴史を忘れることなく、大切に保管しているのだ。たとえ負の遺産であっても……。

ともかくエンツォは鉄の意志でもってレースをやめなかった。やめられなかった。そのことがフェラーリを偉大にした。ホンダやルノーは経営が悪化すると撤退してしまうけれど、エンツォはフィアットの総帥アニェッリに身売りしてでもレースを続けた。

かつて徳大寺有恒さんが、「大鵬が相撲をとらなくてどうする。長嶋茂雄がバットを振らないでどうする」というような表現でアルファ・ロメオのレース活動を語った。そのアルファの戦前のレース活動を担ったのがエンツォ率いるスクーデリア・フェラーリだった。エンツォがレースをやらないでどうする。

J50に話を戻すと、スモークの中から姿を現したその真紅のスペシャルは、ベースの488スパイダーよりも低くてトンガっていて、超カッコよかった。来日したデザイン部門の責任者が語ったように未来的で宇宙船のようだった。これぞフェラーリ! エロスとタナトスの化身といってもよかった。

グループ・インタビューの席で、デザインのコンセプトを説明するパワーポイントの中に、なぜか312T3の写真が入っていた。1977年のF1日本グランプリでジル・ヴィルヌーヴが乗り、富士スピードウェイのフェンスをなぎ倒して観客を巻き添えにしたマシンである。

これぞ日本とフェラーリの絆を象徴する1台とも言える。もちろん事故はあってはならない。でも、死者は弔われるべきである。そう、フェラーリのロード・カーは死者に捧げられる供物なのだ。

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text:今尾直樹/Naoki Imao
1960年生まれ。雑誌『NAVI』『ENGINE』を経て、現在はフリーランスのエディター、自動車ジャーナリストとして活動。現在の愛車は60万円で購入した2002年式ルーテシアR.S.。

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