Rolling 40's VOL.101 青春の終焉

アヘッド ROLLING 40's

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スポーツカーが売れなくなったと言われ始めて久しい。しかしそんな時代になったことに対して私は違和感を感じることはない。時代の流行廃りは、必然と偶然の巨大な方程式が生み出すものだろうし、答えの数値だけではなく、その答えが計算された大きな背景を考えるべきだと思う。

text:大鶴義丹 [aheadアーカイブス vol.171 2017年2月号]
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VOL.101 青春の終焉

VOL.101 青春の終焉

私たちの世代の男子は、子供時代から大人になるまで大抵の者がスポーツカーに憧れたものだ。将来カウンタックを買えることは無理だと思っても、フェアレディZくらいは、いつかは買ってやると思ったはずだ。また実際にその程度の夢を20歳そこそこで叶えた輩も沢山いた。

私の周りでは、高校を中退してしまい若くして職人やガテン系などの道を歩み始めたような仲間が、18歳になるやとんでもない長期ローンを組んで300万くらいのスポーツカーを平気で買っていた。

大学受験で予備校に通っている私からすると、当時でいうところの2.8ℓソアラやZ31、セリカXXなどを乗り回している、中退組の生活は羨ましい限りであった。もちろん大抵はローンが払いきれなくなり、途中で売り払い借金だけが残るというような結末がほとんどなのだが、それでも輝く青春の1ページをそれら名車が彩ったのだから「御の字」であろう。

彼らとは今でも飲み友達で、今となっては子沢山のミニバン族といった落ち着きを見せているが、それでもやはりスポーツカーとすれ違う度に、あの時代のスポーツカーへの熱狂が心の奥でざわつくと言う。

かくいう私もSUVに乗り続けて20年くらいになる。最後のスポーツカーはフルチューンのロータリーエンジンで、大気解放のウェストゲートを「ボゲー」っと開いて、アクセル全開からオフにすると、マフラーから炎が一メートルくらい出るような「アウト」であった。

もうやるだけやったし、今の時代はそんなのは恥ずかしいだけと分かっているのだが、たまにウェブで中古売買のページと睨めっこしてしまうことがある。またロータリーのフルチューンに乗りたいなあと妄想してしまうのだが、当時の現実を思い出すと、馬鹿みたいにブーストを掛けるから、数千キロでアペックスシールを痛めて、圧縮比が落ちてしまうようなシロモノであった。

正直、今の年齢のまともなセンスでは、絶対に乗ることは無理である。

要するにあの時代の熱狂と若きクレイジーさがなければ成立しないものであり、そんなものが今の時代にも、自分の中にも残っているはずもない。その証拠に、もし金が余っていたとするなら、ポルシェのGT3とかを欲しいと言うはずである。

しかしGT3は究極のスポーツカーではあるが、ポルシェという会社が大金持ちのために仕立て上げた正式な「玩具」でもある。そんなものを買おうとすること自体、ウェストゲートを大気解放にしていた若きクレイジーさが一粒も残っていない証明だろう。

今年20歳になろうとする娘が、春から教習所に入ると言い出している。8割くらい出してくれというので甘々な私はすぐに応じてしまった。

本当は彼女は去年、突然バイクの免許を取ると言い出したのだが、私は絶対にダメだと言った。理由は、バイクは一人で乗り出すものではなく、多くの仲間と共に上手くなっていくものだからだ。

それが「三ナイ運動」の時代に、多くの仲間と、峠のヒザすりから林道レースの毎日を過ごしていた私の出した答えであった。もちろん、その時代の中で死んでしまった知り合いもいた。反対に小さな怪我で済んだ仲間もいた。

そういう集団の中で、自ら気が付き、リアルに悟ってきた時間があるかないかが、バイクというものにとってどれだけ大事かを知っているからこその結論である。

だが、それでも勝手に免許を取って乗ると言うのならば、安全のためにも、私が本格的にオフロードを仕込もうかとも思ったが、そこまでの情熱という訳ではなかったようだ。安心したような、反面さびしいような複雑な気持であった。だがバイクってものは、何が何でも乗りたいくらいの情熱がないと危ないだけである。

そんな娘たちの世代の自動車での遊び方を見ていると、同年代の仲間と一番安いタイプのレンタカーを借りて海に行ったりはしているが、どんなクルマがどうだとかという会話はしていないようだ。

30年前、私の仲間たちが不可能なローンで身分不相応のスポーツカーを手に入れたようなことは昭和の夢物語。そういう男子の心意気に応えてくれる女子もいないようである。

実際に、街をオープンカーで走っているのは、ダスティンホフマンの「卒業」のワンシーンが今でも忘れられない年寄りばかり。

娘に聞いても、オープンカーというのは中高年の趣向のイメージであるらしく、痛い存在だそうだ。また大きなバイクなどはさらに年寄り臭くて恥ずかしいらしく、コンパクトなバイクがお洒落に感じるらしい。

私たちと娘たちの世代。わざと見ないようにしているだけで、本当は想像以上に大きな分断があるということだ。

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text:大鶴義丹/Gitan Ohtsuru
1968年生まれ。俳優・監督・作家。知る人ぞ知る“熱き”バイク乗りである。本人によるブログ「不思議の毎日」はameblo.jp/gitan1968


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