チャンピオンという人格
更新日:2024.09.09
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四輪のレースであれ二輪のレースであれ、
最高峰の舞台での実力はみな互角。
誰が勝ってもおかしくはない。
しかし実際にシリーズチャンピオンを手にできるのはほんの一握りだ。
チャンピオンと、それ以外の人間を隔てる壁は大きい。
チャンピオンとはいったい何なのだろうか。
text:伊丹孝裕、若林葉子 [aheadアーカイブス vol.133 2013年12月号]
最高峰の舞台での実力はみな互角。
誰が勝ってもおかしくはない。
しかし実際にシリーズチャンピオンを手にできるのはほんの一握りだ。
チャンピオンと、それ以外の人間を隔てる壁は大きい。
チャンピオンとはいったい何なのだろうか。
text:伊丹孝裕、若林葉子 [aheadアーカイブス vol.133 2013年12月号]
生き残るためのチャンピオン獲得 平手晃平
1986年愛知県小牧市生まれ。1999年に13歳でカートを始め、全日本ジュニアカート選手権初代チャンピオンを獲得。2002年フォーミュラ・トヨタに参戦し、2005年からはF3ユーロシリーズに参戦。2008年からは舞台を日本に移し、スーパー・フォーミュラ、スーパーGTで活躍する。2013年度のスーパーGT(ZENT CERMO SC430)で自身初の四輪タイトルを手にした。
SUPER GT Round6 FUJI
2013年11月3日、「スーパーGT」の最終戦が「ツインリンクもてぎ」で開催されていた。5番ピットに陣取っていた「ゼント・セルモ」の面々の目線の先にあったのは、コース上のレース状況を知らせるいくつかのモニターだ。その画面には刻々と変化するタイムと順位、そして周回数が映し出されていた。
予選4番手からスタートした「ゼント・セルモ」の平手晃平は、レース序盤で2位へ浮上。そのまま「レクサスSC430」のステアリングを立川祐路へと繋いだ。中盤、立川はひとつポジションを落として3位となり、代わって2位へ浮上したのは、最も警戒すべきライバルの1台、塚越広大がドライブする「ケーヒン」のホンダHSV-010だった。この最終戦を迎えた時点でのポイントリーダーは、「ゼント・セルモ」の立川、平手組である。タイトルを優先するなら、前の「ケーヒン」を深追いする必要はなかった。
「前を追いたい。でも守らなければならない」
GT500クラスで過去に2度チャンピオンに輝いた経験を持つ立川祐路は、単独走行の中で自分が果たすべき仕事の締め括り方を考えていたことだろう。
そんな戦局に緊張感をもたらしたのが、後方から立川との差を急速に詰めてきた2台のSC430だ。脇坂寿一(デンソー・サード)と中嶋一貴(ペトロナス・トムス)のペースは、明らかに立川のSC430より速く、もつれあうように4位と5位を走行。それどころか、立川をのみ込み、3台による3位グループを形成しようとしていたのだ。
この時の局面を整理しておこう。
立川、平手組の「ゼント・セルモ」がタイトルを獲得するには、「ケーヒン」が2位でゴールしても4位までに入ればいい。しかし、5位では逆転でタイトルを失うのだ。言わば、その明と暗の境界線とも言うべき2台が、立川の背後にピタリとつけ、いつそのポジションが奪われても不思議ではない状況だった。
この明と暗は、5位走行の中嶋一貴にとっても同じだ。なぜなら、中嶋とその僚友であるジェームス・ロシターは、このレースをポイントランキング2位で迎えていた。つまり、この3位グループのトップに立ち、上位にトラブルでもあれば、今度はそのタイトルが彼らのもとに転がり込んでくることになるからだ。
レースはみずものである。
どれだけ速いラップタイムを刻もうとも、どれだけライバルをリードしていようとも、結果はチェッカーを受けるまで分からない。そこにいる誰もがそのことを痛いほど分かっており、だからこそ誰もが押し黙ったままだった。
自分の役割を終え、立川の走りをただ見守るしかない平手は、心の中で「早くチェッカーを出してくれ」と念じていただろう。しかし、それを口にはしない。
そうでなくても平手のレース人生はいつもギリギリだった。これまでも掴みかけていたチャンスが、その目前で手中からこぼれ落ちたことなど一度や二度ではなかった。だからこそ、安易なことは言えなかったのだ。そして、そのことを誰よりも知る父、平手敏雄もまた同様だった。自分の息子がチャンピオンの座を手繰り寄せていくその様を、ただ祈るように見つめていた。
.レーシングドライバー、平手晃平27歳。日本のトップカテゴリーであるスーパーフォーミュラとスーパーGT500にフル参戦するトヨタ生え抜きのワークスドライバーだ。
'99年、13歳で全日本ジュニアカートの初代チャンピオンに輝いた後、'02年には史上最年少の16歳という若さでフォーミュラトヨタに参戦。その翌年にはヨーロッパへ渡り、フォーミュラルノーやF3、GP2で活躍しながらトヨタのF1マシンのテストもこなすなど、その経歴はあまりにも輝かしい。
しかし、平手晃平はいつも崖っぷちに立っていた。
レースにおける崖っぷち。それは多くの場合、〝お金〟を意味する。
マシン代はもとより、タイヤ代、メンテナンス代、ガソリン代に遠征費と、それが例えカートでもあっても、トップチームになれば年間1000万円単位のお金が動く。
もちろん、本格的な四輪レースになれば、個人のレベルはとうに越え、政治力すら介在してくる。才能だけではなく、ここぞという時にお金を注げるかどうか。そこは良くも悪くも社会の縮図であり、あらゆる意味で力のあるなしを見せつけられる振るい落としの場でもあるのだ。
そういう世界があることすら知らなかった平手が、スピードに魅了されたのは小学校5年生の時だ。父、敏雄が趣味で楽しんでいたカートに乗せられたのがきっかけとなった。
その日以来、野球少年だった平手の手にはバットではなくステアリングが握られるようになり、その才能を開花させていったのだ。
そんな平手の天性のスピードが、地方選手権に収まらなくなった頃、どんどん先鋭化する全日本選手権との間を埋めるため、ワンランク下の全日本ジュニアカート選手権が開催されることになった。馴染みのカートショップの勧めで、これに参戦した平手は、いきなりその初代チャンピオンを獲得。平手が中学一年生の時のことである。
しかし、その頃はまだレースにおけるお金のことをよく分かっていなかった。アマチュアのカートレースとはいえ、毎週末のように練習か、またはレースに出ていれば、その出費はかなりのものになる。
ボロボロのバンに、最低限の工具とパーツ。家族全員が、その中で寝泊まりしながらの転戦だったが、その負担はやがて一歳しか違わない弟に波及。カートを続けるために必要な環境を兄に集中させるため、弟はカートから遠ざかることになった。酷な言い方をすれば、レース界における振るい落としという現実を、最初に兄弟同士で味わうことになったのである。
同時に、このことは平手家の資金が限界を迎えつつあったことも意味していた。息子が望むなら、その未来を切り開いてやりたい。しかし、その覚悟がどれほどのものかを計りかねた父の敏雄は、ある日、息子の机に手紙を残した。
〝パパの仕事はいますごく暇でお金がありません……〟そうやって始まる文面には、会社の景気がよくないこと、いつまでサポートできるか分からないこと、しかし、我が子の成功を信じ、全力で応援したいと思っていることが率直に綴られていた。
「もう遊びではない」 平手が真にレーシングドライバーを志したのは、この瞬間からだったという。
祖父に至っては、土地を売却してまでレース活動を支援してくれた。それでも資金という名の崖っぷちは容赦なく次から次へとやってきた。
「次が最後かもしれない」
平手のいないところで、両親は何度もそんな話し合いを重ねたという。しかし、本当にもうギリギリという局面に陥った時に、次のステップのキーになる人物が平手親子の前に現れ、いくつかのチャンスをもたらしては去っていく。そんな不思議な巡り合わせを幾度も経験することにもなったのだ。
その下地にあったのは、絶対にあきらめない強い意志に他ならないが、それを持ち続けられるかどうかもまた、レースの世界で生き残るための資質なのである。
なぜなら、メカニックやエンジニアは言うにおよばず、レースを左右する重要な要素は結局のところ人なのだ。サーキットには、有形無形のパワーが溢れている。それをいかに「このドライバーに勝たせたい」と思わせるパワーに変えていくかが重要になるのだ。言い換えれば、それができる者だけが、チャンピオンの可能性を持つと言ってもいい。いつの頃からは、平手はその資質を知らず知らずのうちに磨いていたのかもしれない。
例えば15歳の時、アマチュアのまま終わるか、プロへの足掛かりを掴めるかという大きな岐路に平手は立っていた。しかし、平手家には自力で4輪レースの門を開くような経済力は無く、親にこれ以上の負担はかけられないと感じていた平手は、アルバイトで10万円を捻出。FTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール)と呼ばれる若手レーサー育成プログラムの受講料に賭けたのだ。
「これでダメならあきらめもつく」。親も子も、そう思えるほど、あがきにあがいた上での最後の挑戦だったのだ。とはいえ、これは無謀な挑戦でもあった。なぜなら、年齢的に平手は運転免許を持っておらず、当然、一般的なマニュアル操作の経験もなかったため、スクール初日はクルマに乗せてもらえなかったほど。本来なら振るい落としのステージにすら上がれないはずだった。
ところが、平手はその場に居られただけに留まらず、その未知なる伸びしろが評価されてスカラシップまで勝ち取ってみせたのだ。そこにいた誰もが才能のきらめきに触れ、平手晃平というドライバーの行く末を見たくなったのだろう。ほどなく、16歳のフォーミュラドライバーが誕生。17歳で高校を退学して渡欧、イタリア、イギリス、ドイツのチームで活動するという目まぐるしさで、レースシーンを駆け抜けてきた。それから10年。浮き沈みの中で、幾度もの挫折を経験した。しかし、平手はレースの世界で根を張り、生き残ってきた。そして今、スーパーGT500クラスのチャンピオンというひとつの頂点へと登り詰めようとしているのだ。
レース終盤、3位を死守しようとする立川と、それに続く脇坂と中嶋。
それを見守る平手の脳裏には、前戦の第7戦オートポリスの一件が思い起こされていたに違いない。このレースで「ゼント・セルモ」はレース終盤までトップを快走していた。第6戦の富士スピードウェイに続く2連勝は、誰の目にも明らかだったが、立川はタイヤにダメージを負って急激にペースダウン。結果、ラスト2周半というまさかのタイミングで、逆転を許した苦々しいレースだ。
しかし、今回はそうはならなかった。
53周目にチェッカーが出た時点で「ゼント・セルモ」のSC430は3位を守り切り、「ケーヒン」は2位のままだった。脇坂と中嶋は1秒後方にまで迫っていたが、それをしのぎ、抑え切った。
その瞬間、チームのピットは歓喜よりも安堵の空気に満たされた。長く、苦しいレース後半の重圧から解放され、なによりもシーズン途中では3戦連続ノーポイント、しかもポイントランキングは一時11位にまで下がるという絶対絶命のピンチをひっくり返した逆転劇に誰もが信じられないという面持ちだった。
絶対にあきらめない。
平手は今までそうしてきたように、今回もまた崖っぷちから這い上がってみせたのだ。
両親、兄弟、妻、娘、友人……。平手にとって大切なすべての人々が、この日サーキットに集い、初めてのタイトル獲得に湧いた。
思えば、初めてカートに乗って走った最初のワンラップこそが、この日のためのスタートだったと言えるのではないだろうか。
息子が駆け抜けてきたラップのほぼ全てを見てきた父の敏雄は、言葉こそ少なかったが、ピットレーンで息子の肩を抱き、託した夢が結実したことに目をうるませていた。
「晃平も結婚して子供が出来ましたが、まだ一人前とは思っていませんでした。でも、こうして仕事でもひとつの結果を残せたんですから、そろそろ認めてやってもいいのかも知れませんね」
それは、あくまでも親子だった関係が、親同士、あるいは男同士のそれへと静かに移り変わった瞬間だった。
これまで家族の夢を乗せて走ってきた平手晃平。
しかし、チャンピオンになった今、今度はより多くの人々の思いや期待を背負い、その立ち居振る舞いを次の世代に見せつけ、あるいは伝承していかなければならない立場になった。
その肩書きは重い。しかし、それこそがチャンピオンに求められる資質であり、人格でもあるのだ。
-----------------------------------------
text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。
予選4番手からスタートした「ゼント・セルモ」の平手晃平は、レース序盤で2位へ浮上。そのまま「レクサスSC430」のステアリングを立川祐路へと繋いだ。中盤、立川はひとつポジションを落として3位となり、代わって2位へ浮上したのは、最も警戒すべきライバルの1台、塚越広大がドライブする「ケーヒン」のホンダHSV-010だった。この最終戦を迎えた時点でのポイントリーダーは、「ゼント・セルモ」の立川、平手組である。タイトルを優先するなら、前の「ケーヒン」を深追いする必要はなかった。
「前を追いたい。でも守らなければならない」
GT500クラスで過去に2度チャンピオンに輝いた経験を持つ立川祐路は、単独走行の中で自分が果たすべき仕事の締め括り方を考えていたことだろう。
そんな戦局に緊張感をもたらしたのが、後方から立川との差を急速に詰めてきた2台のSC430だ。脇坂寿一(デンソー・サード)と中嶋一貴(ペトロナス・トムス)のペースは、明らかに立川のSC430より速く、もつれあうように4位と5位を走行。それどころか、立川をのみ込み、3台による3位グループを形成しようとしていたのだ。
この時の局面を整理しておこう。
立川、平手組の「ゼント・セルモ」がタイトルを獲得するには、「ケーヒン」が2位でゴールしても4位までに入ればいい。しかし、5位では逆転でタイトルを失うのだ。言わば、その明と暗の境界線とも言うべき2台が、立川の背後にピタリとつけ、いつそのポジションが奪われても不思議ではない状況だった。
この明と暗は、5位走行の中嶋一貴にとっても同じだ。なぜなら、中嶋とその僚友であるジェームス・ロシターは、このレースをポイントランキング2位で迎えていた。つまり、この3位グループのトップに立ち、上位にトラブルでもあれば、今度はそのタイトルが彼らのもとに転がり込んでくることになるからだ。
レースはみずものである。
どれだけ速いラップタイムを刻もうとも、どれだけライバルをリードしていようとも、結果はチェッカーを受けるまで分からない。そこにいる誰もがそのことを痛いほど分かっており、だからこそ誰もが押し黙ったままだった。
自分の役割を終え、立川の走りをただ見守るしかない平手は、心の中で「早くチェッカーを出してくれ」と念じていただろう。しかし、それを口にはしない。
そうでなくても平手のレース人生はいつもギリギリだった。これまでも掴みかけていたチャンスが、その目前で手中からこぼれ落ちたことなど一度や二度ではなかった。だからこそ、安易なことは言えなかったのだ。そして、そのことを誰よりも知る父、平手敏雄もまた同様だった。自分の息子がチャンピオンの座を手繰り寄せていくその様を、ただ祈るように見つめていた。
.レーシングドライバー、平手晃平27歳。日本のトップカテゴリーであるスーパーフォーミュラとスーパーGT500にフル参戦するトヨタ生え抜きのワークスドライバーだ。
'99年、13歳で全日本ジュニアカートの初代チャンピオンに輝いた後、'02年には史上最年少の16歳という若さでフォーミュラトヨタに参戦。その翌年にはヨーロッパへ渡り、フォーミュラルノーやF3、GP2で活躍しながらトヨタのF1マシンのテストもこなすなど、その経歴はあまりにも輝かしい。
しかし、平手晃平はいつも崖っぷちに立っていた。
レースにおける崖っぷち。それは多くの場合、〝お金〟を意味する。
マシン代はもとより、タイヤ代、メンテナンス代、ガソリン代に遠征費と、それが例えカートでもあっても、トップチームになれば年間1000万円単位のお金が動く。
もちろん、本格的な四輪レースになれば、個人のレベルはとうに越え、政治力すら介在してくる。才能だけではなく、ここぞという時にお金を注げるかどうか。そこは良くも悪くも社会の縮図であり、あらゆる意味で力のあるなしを見せつけられる振るい落としの場でもあるのだ。
そういう世界があることすら知らなかった平手が、スピードに魅了されたのは小学校5年生の時だ。父、敏雄が趣味で楽しんでいたカートに乗せられたのがきっかけとなった。
その日以来、野球少年だった平手の手にはバットではなくステアリングが握られるようになり、その才能を開花させていったのだ。
そんな平手の天性のスピードが、地方選手権に収まらなくなった頃、どんどん先鋭化する全日本選手権との間を埋めるため、ワンランク下の全日本ジュニアカート選手権が開催されることになった。馴染みのカートショップの勧めで、これに参戦した平手は、いきなりその初代チャンピオンを獲得。平手が中学一年生の時のことである。
しかし、その頃はまだレースにおけるお金のことをよく分かっていなかった。アマチュアのカートレースとはいえ、毎週末のように練習か、またはレースに出ていれば、その出費はかなりのものになる。
ボロボロのバンに、最低限の工具とパーツ。家族全員が、その中で寝泊まりしながらの転戦だったが、その負担はやがて一歳しか違わない弟に波及。カートを続けるために必要な環境を兄に集中させるため、弟はカートから遠ざかることになった。酷な言い方をすれば、レース界における振るい落としという現実を、最初に兄弟同士で味わうことになったのである。
同時に、このことは平手家の資金が限界を迎えつつあったことも意味していた。息子が望むなら、その未来を切り開いてやりたい。しかし、その覚悟がどれほどのものかを計りかねた父の敏雄は、ある日、息子の机に手紙を残した。
〝パパの仕事はいますごく暇でお金がありません……〟そうやって始まる文面には、会社の景気がよくないこと、いつまでサポートできるか分からないこと、しかし、我が子の成功を信じ、全力で応援したいと思っていることが率直に綴られていた。
「もう遊びではない」 平手が真にレーシングドライバーを志したのは、この瞬間からだったという。
祖父に至っては、土地を売却してまでレース活動を支援してくれた。それでも資金という名の崖っぷちは容赦なく次から次へとやってきた。
「次が最後かもしれない」
平手のいないところで、両親は何度もそんな話し合いを重ねたという。しかし、本当にもうギリギリという局面に陥った時に、次のステップのキーになる人物が平手親子の前に現れ、いくつかのチャンスをもたらしては去っていく。そんな不思議な巡り合わせを幾度も経験することにもなったのだ。
その下地にあったのは、絶対にあきらめない強い意志に他ならないが、それを持ち続けられるかどうかもまた、レースの世界で生き残るための資質なのである。
なぜなら、メカニックやエンジニアは言うにおよばず、レースを左右する重要な要素は結局のところ人なのだ。サーキットには、有形無形のパワーが溢れている。それをいかに「このドライバーに勝たせたい」と思わせるパワーに変えていくかが重要になるのだ。言い換えれば、それができる者だけが、チャンピオンの可能性を持つと言ってもいい。いつの頃からは、平手はその資質を知らず知らずのうちに磨いていたのかもしれない。
例えば15歳の時、アマチュアのまま終わるか、プロへの足掛かりを掴めるかという大きな岐路に平手は立っていた。しかし、平手家には自力で4輪レースの門を開くような経済力は無く、親にこれ以上の負担はかけられないと感じていた平手は、アルバイトで10万円を捻出。FTRS(フォーミュラ・トヨタ・レーシング・スクール)と呼ばれる若手レーサー育成プログラムの受講料に賭けたのだ。
「これでダメならあきらめもつく」。親も子も、そう思えるほど、あがきにあがいた上での最後の挑戦だったのだ。とはいえ、これは無謀な挑戦でもあった。なぜなら、年齢的に平手は運転免許を持っておらず、当然、一般的なマニュアル操作の経験もなかったため、スクール初日はクルマに乗せてもらえなかったほど。本来なら振るい落としのステージにすら上がれないはずだった。
ところが、平手はその場に居られただけに留まらず、その未知なる伸びしろが評価されてスカラシップまで勝ち取ってみせたのだ。そこにいた誰もが才能のきらめきに触れ、平手晃平というドライバーの行く末を見たくなったのだろう。ほどなく、16歳のフォーミュラドライバーが誕生。17歳で高校を退学して渡欧、イタリア、イギリス、ドイツのチームで活動するという目まぐるしさで、レースシーンを駆け抜けてきた。それから10年。浮き沈みの中で、幾度もの挫折を経験した。しかし、平手はレースの世界で根を張り、生き残ってきた。そして今、スーパーGT500クラスのチャンピオンというひとつの頂点へと登り詰めようとしているのだ。
レース終盤、3位を死守しようとする立川と、それに続く脇坂と中嶋。
それを見守る平手の脳裏には、前戦の第7戦オートポリスの一件が思い起こされていたに違いない。このレースで「ゼント・セルモ」はレース終盤までトップを快走していた。第6戦の富士スピードウェイに続く2連勝は、誰の目にも明らかだったが、立川はタイヤにダメージを負って急激にペースダウン。結果、ラスト2周半というまさかのタイミングで、逆転を許した苦々しいレースだ。
しかし、今回はそうはならなかった。
53周目にチェッカーが出た時点で「ゼント・セルモ」のSC430は3位を守り切り、「ケーヒン」は2位のままだった。脇坂と中嶋は1秒後方にまで迫っていたが、それをしのぎ、抑え切った。
その瞬間、チームのピットは歓喜よりも安堵の空気に満たされた。長く、苦しいレース後半の重圧から解放され、なによりもシーズン途中では3戦連続ノーポイント、しかもポイントランキングは一時11位にまで下がるという絶対絶命のピンチをひっくり返した逆転劇に誰もが信じられないという面持ちだった。
絶対にあきらめない。
平手は今までそうしてきたように、今回もまた崖っぷちから這い上がってみせたのだ。
両親、兄弟、妻、娘、友人……。平手にとって大切なすべての人々が、この日サーキットに集い、初めてのタイトル獲得に湧いた。
思えば、初めてカートに乗って走った最初のワンラップこそが、この日のためのスタートだったと言えるのではないだろうか。
息子が駆け抜けてきたラップのほぼ全てを見てきた父の敏雄は、言葉こそ少なかったが、ピットレーンで息子の肩を抱き、託した夢が結実したことに目をうるませていた。
「晃平も結婚して子供が出来ましたが、まだ一人前とは思っていませんでした。でも、こうして仕事でもひとつの結果を残せたんですから、そろそろ認めてやってもいいのかも知れませんね」
それは、あくまでも親子だった関係が、親同士、あるいは男同士のそれへと静かに移り変わった瞬間だった。
これまで家族の夢を乗せて走ってきた平手晃平。
しかし、チャンピオンになった今、今度はより多くの人々の思いや期待を背負い、その立ち居振る舞いを次の世代に見せつけ、あるいは伝承していかなければならない立場になった。
その肩書きは重い。しかし、それこそがチャンピオンに求められる資質であり、人格でもあるのだ。
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text:伊丹孝裕/Takahiro Itami
1971年生まれ。二輪専門誌『クラブマン』の編集長を務めた後にフリーランスのモーターサイクルジャーナリストへ転向。レーシングライダーとしても活動し、これまでマン島TTやパイクスピーク、鈴鹿八耐を始めとする国内外のレースに参戦してきた。国際A級ライダー。
独自の方程式で世界を獲った男 坂田和人
1966年東京生まれ。自分で稼いだ600万円の貯金を手に世界グランプリに挑戦。1991年から1999年まで125ccクラスで活躍し、94年、98年と2度の世界チャンピオンを獲得した。ポールポジション獲得回数29回は歴代2位、(日本人最多)。その他にもレース中のファーステストラップ獲得回数19回(日本人最多)、連続出場回数127回(歴代1位)の記録を持つ。時に不利な条件でも圧倒的な速さを見せつけた。記憶と記録に残る堂々たる日本人のチャンピオンである。
11月10日。この日、2013年ロードレース世界選手権(モトGP)の最終戦がスペインのバレンシアで開催された。モトGPクラスでは、タイトルに大手をかける「マルク・マルケス」、逆転チャンピオンにわずかな望みを託す「ホルヘ・ロレンソ」、そして2人の後を追う「ダニ・ペドロサ」が激しい闘いを繰り広げていた。周りがどうあれ4位以内ならチャンピオンになれると分かっていたマルケスは、ロレンソとペドロサの接近戦には一歩距離を置き、最後まで冷静な走りを見せ、3位でフィニッシュ。若干20歳のマルケスがモトGP初年度にして、見事タイトルを手にした。これにより、マルケスは3クラスを制覇、'83年に「フレディー・スペンサー」が21歳で樹立した最高峰クラスの最年少記録も塗り替えたのである。
.久しぶりに会った坂田和人氏に、今年のマルケスはすごかったですね、と話を向けると、意外な答えが返ってきた。「シーズンが始まる前に、テレビ(日テレG+)の解説でも、マルケスは6勝してチャンピオンを獲得するだろうと予想していました。マルケスにはアルサモラが付いてますから」
アルサモラとは、現在、マルケスのチームマネージャーをしている「エミリオ・アルサモラ」のことである。
'99年、アルサモラは125㏄クラスのタイトルを獲得した。しかしながら、アルサモラはこのシーズン、1度も優勝することなくチャンピオンを獲得したのだった。この年のアルサモラは、転倒ノーポイントが多く発生する125㏄クラスの中で、確実にポイントを加算することに集中した。しかしシーズン終盤の第13戦フィリップアイランドで転倒、レースに復帰するもののポイント圏外の16位まで順位を落としてしまった。そのとき1つ前を走っていたのはチームメイトの「アンヘル・ニエトJr.」である。監督である父の「アンヘル・ニエト」はサインボードを振り回し、ゴール手前のフィニッシュラインぎりぎりで息子を停め、アルサモラは15位でゴール、1ポイントを獲得した。この1ポイントが最終的にチャンピオンとランキング2位とを分けたのである。
「マルケスは、モトGPの1年目でチャンピオンを獲るためにはどうしたら良いかということについて、チームから指導を受けていたはずです。チャンピオンの取り方、1ポイントの重さをよく知っているアルサモラが付いていたからこそ、今のマルケスがいる。そう思っています」
逆転チャンピオンを狙うロレンソは、故意にペースを落とし、自分とペドロサのバトルにマルケスを誘い入れようとしていた。後続のロッシ率いる第2集団がこのバトルに加わって、マルケスの順位が5位以下になることを狙ったのだ。実際、ロレンソはレース後のインタビューでそれを認めていた。しかし第2集団はついにはトップグループに追い着けず、マルケスもロレンソの誘いに乗ることはなかった。レース後、マルケスは「できれば自分もトップ争いに加わりたかった」と本音を吐露している。
1度も優勝していないチャンピオン。トップ争いに加われるのに加わらないチャンピオン。チャンピオンっていったい何だ、とそんな疑問が頭をよぎる。ひとつひとつのレースを全力で闘い、1戦の勝ちにこだわる。その積み重ねの先にチャンピオンがあるのではないのか。それが正しいチャンピオンのあり方ではないのか。
しかし、坂田和人の答えはこうだ。「レースは逆算です」 またしても予想外。「僕の場合、1年を考えるとき、1戦は自分のミスか他車にぶつけられてノーポイント。1戦はマシントラブルでノーポイント。それ以外の残りのレースで過去のチャンピオンが年間で何ポイント取っているかなどを細かく分析して予測を立て、ポイントを振り分けます。だから5位なら上出来と思っているレースで4位になれたら嬉しいですね」
まるで、万引き率や捨てる食材まで計算して売り上げ予測を立てる経営者のようだ。しかし2度も世界チャンピオンを獲得した人がそう言うのだから、この言葉には何ほどかの真実があると考えるべきだろう。
そう言えば、以前のインタビューで、坂田はこうも言っている。「実力がなければもちろんチャンピオンにはなれませんが、実力だけでもダメなのです。実力プラスの何か。それは運かも知れないし、別の何かかも知れない」 世界GPで闘うライダーなら、皆、才能や実力は持っている。でも才能や実力だけではチャンピオンという称号を手に入れることは出来ない、ということだ。
「'98年の(原田)哲也とカピロッシを思い出して下さい。二人ともノーポイントならカピロッシのチャンピオンが決定するという最終戦です。カピロッシは強引とも思える走りで哲也にぶつかって、哲也を転倒させた。決して哲也が甘かった訳ではない。大きなリスクを背負ってまで、チャンピオンを獲りにいくライダーもいる。それが現実。結果としてカピロッシはチャンピオンとなりましたが、翌年チームを解雇された。けれど、チャンピオンはチャンピオン。時間が経てばその経緯は忘れられるかも知れない。でもチャンピオンという事実だけは、はっきりと歴史に刻み込まれます」
原田哲也と「ロリス・カピロッシ」だけではない。「アレックス・クリビーレ」VS「ミック・ドゥーハン」、「バレンティーノ・ロッシ」VS「セテ・ジベルナウ」……。
賛否を語る事はたやすい。だが、それほどまでしても取りたい、それほどまでしなければ手に入れられないのがチャンピオンという〝タイトル〟なのだろう。
「ランキング2位を2年連続で取ったライダーはチャンピオンにはなれないんです」 坂田の厳しい言葉は続く。
「現役時代は長くて10年。でもチャンピオンを取れるチャンスはめったに巡って来ない。それが2度もあったのに、2度ともそのチャンスをものにできなかったら、3度目はありません。過去のデータからもGPの世界でランキング2位を連続して取った後にチャンピオンになったライダーはいないはずです。マルケスはモト2時代の失敗から学んでいたのです」
ランキングで2位を取れるということは実力は申し分ないということだ。しかしそのこととチャンピオンになれるかはまた別のこと。1位と2位を隔てる大きな何か。それを飛び越える方法が坂田にとっては「逆算」ということであったのかも知れない。
逆算で導いた自分自身の計画。それをより確実なものにするために坂田が見せた武勇伝は今も語り継がれている。最も有名なのは、契約していたタイヤメーカーをシーズン途中で変更したことだ。そんなことをしたのは昨今のGPの歴史の中では坂田だけではないだろうか。
'93年。この年の坂田は初優勝も果たし、コンスタントに表彰台にも昇り、GPライダーとして著しく成長していた。
「タイヤメーカーを変更すれば、必ずもっと良くなるという確信があったんです。もっと良くならなければ次に繋がらない。次に繋がらなければ、その先はもうない。タイヤを変えるしかなかった」 そしてタイヤメーカーを変えてすぐに、坂田は優勝という結果を出した。
当時のビデオを見ていると、坂田はいつも不機嫌そうな顔をしている。口を開けば出てくる言葉は不安や不満。言えば言うほど、自分が追い込まれませんか、と聞いてみる。
「全部言っちゃうんですよね。黙ってられない。でも、とにかく後悔するのが嫌なんです。自分で決めたことが間違っていれば、そこで引けばいいし、謝ればいいし、止めればいい。いつもそう思ってやってきました」
子どものとき。父親の運転する自転車の後ろに乗っていて、上り坂でタイヤに足を挟まれたことがあった。ペダルを踏んでも進まないことを怪訝に思った父親が振り返ったときには、かかとが骨までざっくりと切れていたそうだ。しかし幼い坂田は泣かなかった。ようやく涙を見せたのは病院で麻酔をしたとき。自転車に乗るときに父親から「足を広げて乗ってろよ」と言われたのにそうしなかった自分が悪い。だから泣かなかった、という。坂田らしいエピソードだ。
坂田は周囲にかわいがられて状況が整っていくタイプの人間ではない。全ての状況を自分で把握し、不安要素にはあらかじめ対策を立てておく。ライダーであるとともに、ライダーである自分を常に外から見る目を持っている。
「当時、周囲からは『坂田は、シーズン序盤は調子がいい。中盤で少し悪くなって、後半でまた調子を取り戻していく』と言われていましたが、でも実はそう見えていただけで、自分自分の走りに大きな波はないんです。シーズンの初めに出遅れるライダーが多くいて、中盤でみんな調子を上げてくる。そのとき、どう我慢するかで後半戦が違ってきます。そして後半戦になると、中盤で調子の良かったライダーのうちの何人かが脱落して行くんです」
自分のことをここまで冷静に分析できるものだろうか。恐らく坂田の中に、〝奇跡〟は存在しない。いや、ひょっとしたら1度だけなら、幸運や奇跡がタイトルをもたらしてくれることがあるかも知れない。しかしそれも2度はないはず。
だからこそ、幸運や奇跡ではなく、不運やミステイクを計算に入れて尚、ポイントを重ねる道を追求すること。ひとつの勝ちにこだわり過ぎないこと、全体感を持つこと、ときには我慢してあえてリスクを回避すること。途中は表彰台に立てない4位であっても5位であっても、1年が終わったそのとき、頂点に立つことだけを考えて走る。
「レースとは逆算である」
チャンピオンとは徹底したリアリストでなければないのだ。
.久しぶりに会った坂田和人氏に、今年のマルケスはすごかったですね、と話を向けると、意外な答えが返ってきた。「シーズンが始まる前に、テレビ(日テレG+)の解説でも、マルケスは6勝してチャンピオンを獲得するだろうと予想していました。マルケスにはアルサモラが付いてますから」
アルサモラとは、現在、マルケスのチームマネージャーをしている「エミリオ・アルサモラ」のことである。
'99年、アルサモラは125㏄クラスのタイトルを獲得した。しかしながら、アルサモラはこのシーズン、1度も優勝することなくチャンピオンを獲得したのだった。この年のアルサモラは、転倒ノーポイントが多く発生する125㏄クラスの中で、確実にポイントを加算することに集中した。しかしシーズン終盤の第13戦フィリップアイランドで転倒、レースに復帰するもののポイント圏外の16位まで順位を落としてしまった。そのとき1つ前を走っていたのはチームメイトの「アンヘル・ニエトJr.」である。監督である父の「アンヘル・ニエト」はサインボードを振り回し、ゴール手前のフィニッシュラインぎりぎりで息子を停め、アルサモラは15位でゴール、1ポイントを獲得した。この1ポイントが最終的にチャンピオンとランキング2位とを分けたのである。
「マルケスは、モトGPの1年目でチャンピオンを獲るためにはどうしたら良いかということについて、チームから指導を受けていたはずです。チャンピオンの取り方、1ポイントの重さをよく知っているアルサモラが付いていたからこそ、今のマルケスがいる。そう思っています」
逆転チャンピオンを狙うロレンソは、故意にペースを落とし、自分とペドロサのバトルにマルケスを誘い入れようとしていた。後続のロッシ率いる第2集団がこのバトルに加わって、マルケスの順位が5位以下になることを狙ったのだ。実際、ロレンソはレース後のインタビューでそれを認めていた。しかし第2集団はついにはトップグループに追い着けず、マルケスもロレンソの誘いに乗ることはなかった。レース後、マルケスは「できれば自分もトップ争いに加わりたかった」と本音を吐露している。
1度も優勝していないチャンピオン。トップ争いに加われるのに加わらないチャンピオン。チャンピオンっていったい何だ、とそんな疑問が頭をよぎる。ひとつひとつのレースを全力で闘い、1戦の勝ちにこだわる。その積み重ねの先にチャンピオンがあるのではないのか。それが正しいチャンピオンのあり方ではないのか。
しかし、坂田和人の答えはこうだ。「レースは逆算です」 またしても予想外。「僕の場合、1年を考えるとき、1戦は自分のミスか他車にぶつけられてノーポイント。1戦はマシントラブルでノーポイント。それ以外の残りのレースで過去のチャンピオンが年間で何ポイント取っているかなどを細かく分析して予測を立て、ポイントを振り分けます。だから5位なら上出来と思っているレースで4位になれたら嬉しいですね」
まるで、万引き率や捨てる食材まで計算して売り上げ予測を立てる経営者のようだ。しかし2度も世界チャンピオンを獲得した人がそう言うのだから、この言葉には何ほどかの真実があると考えるべきだろう。
そう言えば、以前のインタビューで、坂田はこうも言っている。「実力がなければもちろんチャンピオンにはなれませんが、実力だけでもダメなのです。実力プラスの何か。それは運かも知れないし、別の何かかも知れない」 世界GPで闘うライダーなら、皆、才能や実力は持っている。でも才能や実力だけではチャンピオンという称号を手に入れることは出来ない、ということだ。
「'98年の(原田)哲也とカピロッシを思い出して下さい。二人ともノーポイントならカピロッシのチャンピオンが決定するという最終戦です。カピロッシは強引とも思える走りで哲也にぶつかって、哲也を転倒させた。決して哲也が甘かった訳ではない。大きなリスクを背負ってまで、チャンピオンを獲りにいくライダーもいる。それが現実。結果としてカピロッシはチャンピオンとなりましたが、翌年チームを解雇された。けれど、チャンピオンはチャンピオン。時間が経てばその経緯は忘れられるかも知れない。でもチャンピオンという事実だけは、はっきりと歴史に刻み込まれます」
原田哲也と「ロリス・カピロッシ」だけではない。「アレックス・クリビーレ」VS「ミック・ドゥーハン」、「バレンティーノ・ロッシ」VS「セテ・ジベルナウ」……。
賛否を語る事はたやすい。だが、それほどまでしても取りたい、それほどまでしなければ手に入れられないのがチャンピオンという〝タイトル〟なのだろう。
「ランキング2位を2年連続で取ったライダーはチャンピオンにはなれないんです」 坂田の厳しい言葉は続く。
「現役時代は長くて10年。でもチャンピオンを取れるチャンスはめったに巡って来ない。それが2度もあったのに、2度ともそのチャンスをものにできなかったら、3度目はありません。過去のデータからもGPの世界でランキング2位を連続して取った後にチャンピオンになったライダーはいないはずです。マルケスはモト2時代の失敗から学んでいたのです」
ランキングで2位を取れるということは実力は申し分ないということだ。しかしそのこととチャンピオンになれるかはまた別のこと。1位と2位を隔てる大きな何か。それを飛び越える方法が坂田にとっては「逆算」ということであったのかも知れない。
逆算で導いた自分自身の計画。それをより確実なものにするために坂田が見せた武勇伝は今も語り継がれている。最も有名なのは、契約していたタイヤメーカーをシーズン途中で変更したことだ。そんなことをしたのは昨今のGPの歴史の中では坂田だけではないだろうか。
'93年。この年の坂田は初優勝も果たし、コンスタントに表彰台にも昇り、GPライダーとして著しく成長していた。
「タイヤメーカーを変更すれば、必ずもっと良くなるという確信があったんです。もっと良くならなければ次に繋がらない。次に繋がらなければ、その先はもうない。タイヤを変えるしかなかった」 そしてタイヤメーカーを変えてすぐに、坂田は優勝という結果を出した。
当時のビデオを見ていると、坂田はいつも不機嫌そうな顔をしている。口を開けば出てくる言葉は不安や不満。言えば言うほど、自分が追い込まれませんか、と聞いてみる。
「全部言っちゃうんですよね。黙ってられない。でも、とにかく後悔するのが嫌なんです。自分で決めたことが間違っていれば、そこで引けばいいし、謝ればいいし、止めればいい。いつもそう思ってやってきました」
子どものとき。父親の運転する自転車の後ろに乗っていて、上り坂でタイヤに足を挟まれたことがあった。ペダルを踏んでも進まないことを怪訝に思った父親が振り返ったときには、かかとが骨までざっくりと切れていたそうだ。しかし幼い坂田は泣かなかった。ようやく涙を見せたのは病院で麻酔をしたとき。自転車に乗るときに父親から「足を広げて乗ってろよ」と言われたのにそうしなかった自分が悪い。だから泣かなかった、という。坂田らしいエピソードだ。
坂田は周囲にかわいがられて状況が整っていくタイプの人間ではない。全ての状況を自分で把握し、不安要素にはあらかじめ対策を立てておく。ライダーであるとともに、ライダーである自分を常に外から見る目を持っている。
「当時、周囲からは『坂田は、シーズン序盤は調子がいい。中盤で少し悪くなって、後半でまた調子を取り戻していく』と言われていましたが、でも実はそう見えていただけで、自分自分の走りに大きな波はないんです。シーズンの初めに出遅れるライダーが多くいて、中盤でみんな調子を上げてくる。そのとき、どう我慢するかで後半戦が違ってきます。そして後半戦になると、中盤で調子の良かったライダーのうちの何人かが脱落して行くんです」
自分のことをここまで冷静に分析できるものだろうか。恐らく坂田の中に、〝奇跡〟は存在しない。いや、ひょっとしたら1度だけなら、幸運や奇跡がタイトルをもたらしてくれることがあるかも知れない。しかしそれも2度はないはず。
だからこそ、幸運や奇跡ではなく、不運やミステイクを計算に入れて尚、ポイントを重ねる道を追求すること。ひとつの勝ちにこだわり過ぎないこと、全体感を持つこと、ときには我慢してあえてリスクを回避すること。途中は表彰台に立てない4位であっても5位であっても、1年が終わったそのとき、頂点に立つことだけを考えて走る。
「レースとは逆算である」
チャンピオンとは徹底したリアリストでなければないのだ。
年間の世界グランプリキャリアの収録に加え、新たに本人のインタビューを加えたDVD。
『坂田和人GPドキュメンタリー』
価格:¥2,940 発売:ウィック・ビジュアル・ビューロウ
坂田和人 世界GP125㏄戦績
1991年 ランキング13位(ホンダ)
1992年 ランキング11位(ホンダ)
1993年 ランキング2位(ホンダ)
1994年 シリーズチャンピオン(アプリリア)
1995年 ランキング2位(アプリリア)
1996年 ランキング8位(アプリリア)
1997年 ランキング4位(アプリリア)
1998年 シリーズチャンピオン(アプリリア)
1999年 ランキング14位(ホンダ)
『坂田和人GPドキュメンタリー』
価格:¥2,940 発売:ウィック・ビジュアル・ビューロウ
坂田和人 世界GP125㏄戦績
1991年 ランキング13位(ホンダ)
1992年 ランキング11位(ホンダ)
1993年 ランキング2位(ホンダ)
1994年 シリーズチャンピオン(アプリリア)
1995年 ランキング2位(アプリリア)
1996年 ランキング8位(アプリリア)
1997年 ランキング4位(アプリリア)
1998年 シリーズチャンピオン(アプリリア)
1999年 ランキング14位(ホンダ)
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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。