真ん中の世代 BORN IN 1964

遡ること50年前の昭和39年、西暦1964年は、平和とスポーツの祭典である東京オリンピックが開催され、新幹線が開通するなど、日本にとって大きな転換の年となった。戦後からの復興、メイド・イン・ジャパンの技術力、高度経済成長等々。日本のクルマ産業の発展は、この年からの歩みによって作られたとも言えるのだ。そして1964年に生まれたひとたちは、日本のクルマ文化と共に成長してきたのだった。

text:嶋田智之、後藤 武、若林葉子、岡崎宏司 photo:長谷川徹 
[aheadアーカイブス vol.144 2014年11月号]

Chapter
1964年について
振り返るとクルマもバイクも「真ん中」にいた
16歳の夏に発売されたRZ250
50歳を前に癌を克服した 丸山 浩
1964年の「あの時」に立ち会えたことは私の宝物です─岡崎宏司

1964年について

東京が焼け野原となった終戦からわずか19年。昭和39年(西暦1964年)の最大のイベントと言えばアジア初開催となる「東京オリンピック」だ。開催決定以降、国を挙げて、様々な計画が推し進められてきたが、中でもこの時代を象徴するものと言えば、「夢の超特急」と謳われた「新幹線」だろう。その注目度の高さは、愛称公募に全国から約56万通もの応募ハガキが寄せられたことからも窺える。新幹線は、当時としては世界最速である時速210キロを誇り、東京〜大阪間をそれまでの約6時間半から4時間(開業当時。翌年には3時間10分)で結び、大幅に移動時間を短縮させた。

東京オリンピック開幕9日前というギリギリのタイミングで開業にこぎつけたのだ。この新幹線の圧倒的なスピードと、それを正確に運行できる高度な技術力は、東京オリンピックの開催で世界中の注目が日本に集まる中、日本の戦後復興と今後の発展を世界に印象づけることになった。新幹線の向こうに、日本の明るい未来を重ねた人も多かったに違いない。

またこの年は、新幹線以外にも数々の交通インフラが整備されるようになった。首都高速では「1号羽田線」が開通し、「東京モノレール」も建設された。これにより、海外から来日する選手団や観光客らが羽田空港から都心へのアクセスがしやすくなった。東京以外でも道路整備が進められ、関西では、関西地域初の都市高速道路となる「阪神高速」が開通。また、九州のドライブやツーリングで人気の「やまなみハイウェイ」(別府〜阿蘇)も同年に誕生している。

さらに交通のインフラだけではなく、日本武道館の開館や海外渡航の自由化、平凡パンチの創刊といった動きもあり、新しい時代の到来を感じさせた。

昭和39年、西暦1964年を境に、日本は国際社会への復帰を果たす新しい一歩を踏み出すことになった。折しもこの年、ダグラス・マッカーサーが84年の生涯を閉じている。偶然とはいえ、戦後という歴史の終焉と現在につながる時代の幕開けであったことを、意識せずにはいられない。

振り返るとクルマもバイクも「真ん中」にいた

text:嶋田智之

いわゆる世代論ってヤツが、あまり得意じゃない。例えば友人達と飲んでいて「だから〝ゆとり〟はダメなんだ」なんて話が出たりすると、妙に反発を感じたりする。カタにハメたりハメられたりするのが好きじゃないのだと思う。おまけに、ハズレてるらしい。これまた仲間達と一杯やっていて、ひとりの友人の右腕的スタッフである30代の女性のお悩み話に「10代だろうと30代だろうと50代だろうと、恋する気持ちに違いなんてないと思うぞ。ただ恋しちゃった後にすることの愚かさのカタチが違うだけで」と言い放ち、ふと我ながら良いことを言ってあげられたと密かに自分を賞賛してたのに、友人達は〝おまえ、まだ恋愛するつもりなわけ?〟と呆れ顔をしていた。……いけないのか?

最近になって、もしかしたら自分はちょっとばかり偏屈だったり変わり者だったりするのかも知れない、と思うようになった。…遅いか。でもまぁヒトは十人十色。同じ1964年生まれであっても、皆、それぞれの愛すべき人生を別々の〝自分〟として歩いている。違っていていいじゃないか。

けれど、同い年であるということは、同じ時代を眺めてきたということでもある。地域だとか環境だとかで伝わってくる速度に少し差はあったかも知れないが、同じ空気に触れてきたということだ。

小学校1年生のときに〝仮面ライダー〟が放映されて、強くてカッコいいモノに惹かれる子供心に「ヒーローはオートバイに乗るもの」という概念が擦り込まれた。

小学校5〜6年生の頃、突如としてスーパーカー・ブームが巻き起こり、多感な時期に差し掛かり始めた男の子の気持ちをクラクラさせた。見たことのなかったあり得ないほどカッコいいスタイルに悶絶し、時速300キロという数字に興奮し、文字どおり夢中になった。これでその後の人生が変わっちゃったヤツがたくさんいる。

オートバイの免許を意識しはじめる中学3年生のときにカワサキZ400FXとCB750Fが、免許の取れる高校1年生になるとヤマハRZ250がデビューした。徐々に加速していくバイク・ブームの中で、手が届きそうな夢にグイグイと引き寄せられていった。

クルマの免許が取れる18歳のときにはホンダ・シティ・ターボが生まれ、高校を卒業した直後にトヨタ・カローラ・レビン&スプリンター・トレノがAE86型に生まれ変わった。それまであまり元気がなかった日本車がどんどん面白さを増して、必死でバイトをすれば買える〝俺達のスポーツカー〟の選択肢がグングンと増えた。

ハタチを過ぎてしばらくして社会に出るようになると、ふと気づけば世の中がバブル景気に突入していて、輸入車がどんどん身近なモノになってきた。〝コクサン〟と〝ガイシャ〟の間で気持ちがどんどん揺れ動くようになる。

25歳になった年にはユーノス・ロードスターや新世代のスカイラインGT-Rなどが発売され、ホンダNSXが発表され、クルマの夢がどんどん広がっていく。

──ほら、人生のちょうど半分を、それも好きなクルマとオートバイの話に限って並べても、同じ時期に触れた〝すごい出来事〟というのがこんなにもたくさんある。思えばちょうどいい年頃のときに、その年頃にガチンとマッチするエポックメイキングな出来事が、よくもこう立て続けに巻き起こったものだ。今にしてもそうだろう。ただただECOばかり追いかけてきた風潮から、それを当然の前提としながらもクルマの楽しさを追求して開発された国内外の様々なモデルが並び始め、不変の魂と新しいアプローチから生まれてくる新しいマツダ・ロードスターもお披露目され、新型ホンダ・ビートやNSXの発表を待つばかり。オートバイの分野でも日本のメーカーは活気づき、輸入車を楽しむ環境も完全に整った。

ちょうど子供が手離れするというヒトも少なくないようなタイミングで、クルマとオートバイにもう一度いい夢を見られる状況がそこにあるのだ。まるで僕達の世代に合わせてくれたかのように。なるほど、〝真ん中の世代〟と呼ばれて不思議はないのかも知れない。

──だから? いや、だからも何もない。ただ、僕達はそういう中で生きてきて、今、ここにいる、ということだ。50歳になって、ヒトそれぞれのまま、ここにいる、というだけのことだ。そして旧いエンジンが圧縮漏れを起こしてヘナヘナになるみたいに老け込んでいくか、1万回転まで回すつもりでスロットルペダルを踏み、7000回転、8000回転、まだまだパワーを振り絞るぜ! というところでブツンとリミッターが入るか、そのターニングポイントにいるというわけだ。そのチョイスだって、ヒトそれぞれである。

僕はまだ恋だってするつもりだし、好きなクルマにもオートバイにも乗り続ける。節目といわれたって、たかが50年。人生のまとめに入る気なんてサラサラない。だって、そっちの方が楽しそうだもん。だからさ──スロットルを踏み込んでいこうよ、御同輩。

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text:嶋田智之/Tomoyuki Shimada
1964年生まれ。エンスー系自動車雑誌『Tipo』の編集長を長年にわたって務め、総編集長として『ROSSO』のフルリニューアルを果たした後、独立。現在は自動車ライター&エディターとして活躍。

16歳の夏に発売されたRZ250

text:後藤 武

1964年生まれが二輪免許を取得できる年齢になった1980年、バイク史に残るエポックなモデルが発売された。『ヤマハRZ250』である。峠の駐車場はRZだらけとなり、石を投げればRZに当たると言っても過言ではなかった。元祖レーサーレプリカと呼ばれ、その後のスポーツバイクに多大な影響を与えたRZ250とは、どのようなバイクだったのだろうか。

日本が二輪で世界に君臨することが出来たのは2ストロークがあったからである。ところが'70年代中盤、アメリカで始まったマスキー法など世界的な排気ガス規制で2ストロークが突然やり玉に挙がった。ポップヨシムラの「2ストロークはエンジンじゃない」発言もこれに拍車をかけた。「2ストロークはそろそろなくなるだろう」 '70年代後半あたりになると誰もがこんな風に考えるようになっていたのである。

この流れに立ち向かったのが、最後まで2ストロークの可能性を追求していたヤマハだった。「どうせ無くなるのなら4ストロークの真似をするのではなく本当に2ストロークらしいロードスポーツにしてやろう」 そんな開き直りも似た考えが元で生み出されたのが「RZ250」というマシンなのである。しかし、だからこそ、それまでにない思い切った設計が可能になった。

それまでのオートバイはオーソドックスなスタイルから大きく外れることがなかった。どのバイクもそこそこの乗り心地や走りやすさを考えていたのである。しかしRZは徹底して速く走ることだけを追求した。その結果生まれたのは、今までのマシンとは異次元の走りだった。

速さばかりが取りざたされるRZだが、実は当時のライダーを夢中にさせたのはそのフィーリングだった。それまでの2ストロークというのは振動が酷いことに加え、ピストンやリングといったメカノイズが騒々しく、熱の問題もあって性能も安定していなかった。ところがRZのラバーマウントされた水冷エンジンはメカノイズと振動がほとんど皆無。全開で走り続けても熱ダレすることがない。RZに試乗したライダー達は、まるで未来のマシンであるかのようにその魅力を吹聴し、その評判が爆発的に広がった。

折しもこの頃は第一次の峠ブームだった。各地の峠を走るライダー達はこぞってRZに乗り換え、日本中でバトルを繰り広げた。結果、事故も激増。しばらくして二輪の通行禁止が各地で始まるほどの社会問題に発展してしまうのだが……。

RZの出現はレースにも革命をもたらすことになった。各地のサーキットで行われていたプロダクションレースは90%のマシンがRZになった。35万円でマシンを購入すればそのままレースに出場できるとあってレースに参加するライダーが激増した。

同じ頃、イギリスではちょっと変わったRZのワンメイクレースが行われていた。主催者がマシンを用意し、参加者はクジ引きでどれに乗るか決める。このレースは有名ライダーとアマチュアが入り乱れて毎回デッドヒートが繰り広げられるため人気となりテレビ中継されるまでになった。ニール・マッケンジー等の有名ライダーが育ったのもこのレースである。

RZ以降、各メーカーのスポーツバイクは一気に過激になっていった。フルカウルのレプリカが発生し、現在のスーパースポーツへと進化していく。つまりスーパースポーツという概念はRZが原点なのである。

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text:後藤 武/Takeshi Goto
1962生まれ。オートバイ雑誌『CLUBMAN』の編集長を経て、現在は世界を股にかけるオートバイ、クルマ、飛行機のライター&ジャーナリスト。2ストと言えばこの人、と言われるほど、2ストを愛し、世界の2スト事情に精通している。

50歳を前に癌を克服した 丸山 浩

●Hiroshi Maruyama
1985年にレースデビュー。国際A級ライダーとして全日本ロードレース、鈴鹿8時間耐久レースなどに参戦。4輪においても、スーパー耐久シリーズに自らのチームを率いて出場するなど、2輪4輪の両方で活躍している。株式会社ウィズミーの経営権を癌をきっかけに社員に譲る。(現在は会長職)

text:若林葉子

今から数年前、二輪ジャーナリストの丸山 浩は、誰にも告げずに癌と闘っていた。いつもの明るく前向きな生き方をいっさい変えずに癌と正面から向き合っていたのだ。癌を克服して今年無事に50歳を迎えた丸山 浩の半生を振り返ってみたい。

丸山 浩の身体に癌が見つかったのは2010年の11月、46歳のときだ。それは偶然だった。がん保険が満期を迎えるという連絡を受けて、とりあえず検査だけでもという軽い気持ちで向かった病院で精密検査が必要という結果が出たのだ。精密検査を受けると悪性の腫瘍だった。転移の早いタイプの癌だから、早く取り除く必要があると告げられた。

「それを聞いた瞬間に、これまでの人生を振り返ることになったんです。否応なくでした」

1964年、東京生まれの丸山は、「16歳になったら、興味は無くてもバイクの免許は全員取りに行かないといけないんですよ」と冗談をいうほど誰もが普通にバイクに乗る時代に育った。そんな時代性もあり、丸山は21歳の頃にレースを始める。

「自分で言うのもなんだけど、一番良い時代を過ごして来たなと感じています。あの時は良かった、とは言わないけれど、とても良い時代を見ることができたと思っています」

バブルは全盛期へと向かい、芸能人が鈴鹿8時間耐久レースで監督としてチームを持ったり、有名人がバイクのレースに挑戦するといった企画があったりと、レースを取り巻く環境は明るかった。企業はお金を使いたがっていたし、レースにはお金が必要だった。レースに関わった人たちにとってバブルは恩恵以外の何ものでもなかった。

しかし丸山が言う「良い時代」とは、単に経済的に豊かだったという意味ではない。

「当時、レースをするというのは『正当』なことでした。どんな企業もレースをすることを前向きに捉えてくれてましたから」 それはスポンサーを獲得するために自ら営業活動をしていた丸山の実感なのだろう。

一方で、丸山はバブルに浮かれることは無かった。「レースの厳しさの中にいたからでしょうね。徹夜でマシンの整備をしたり、働いたりしてましたし、成績は残さないといけないし。それに、頭の片隅でこんな状況がいつまでも続くのはおかしいって思ってたんです。だからバブル全盛期にお金を貯めてましたよ」

丸山の勘は当たった。バブルが崩壊する少し前に、不動産関係のスポンサーから全くお金が入って来ない事態に陥った。「大きな船に乗って、ワークスマシンを手に入れるという夢に近づいたなと思ったら、船が沈没して海に放り出された」という感じだったらしい。

その後、多少の曲折はあるが、二輪業界で「丸山 浩」が有名になるのは、それから数年後のことである。スポンサーからの資金の受け取り先として作った会社、「ウィズミー」の名前でエントリーした「テイスト・オブ・フリーランス」で優勝したことがきっかけだった。「初めてレースで表彰台の中央に立てた。勝つと良いことがあるんだなって実感しました」  丸山がそう言うのには訳がある。自分がレースで使用するマフラーを製作するのに、ロットで10本からしかマフラーが作れなかったので、残った9本を売りに出したら注文が殺到したのだ。追加オーダーを受けているうちにあっという間に何百本もマフラーが売れたという。「スポンサーからお金をもらっているときより、ものすごいプロ意識が芽生えましたよ。走って、勝って、お金にするっていうね。それはもう、ものすごいリアルな実感です」

バブル全盛期の良い時代を見て、しかし浮かれることはなく、バブル崩壊後は地に足をつけて、自分のやれる範囲でのレース活動に集中した。そして人の何倍も働いて会社を発展させた。結果、ウィズミーの主催する走行会は毎回定員を上回るほどの人気となり、丸山自身も二輪ジャーナリストとしての確固たる地位を築いていったのだ。

「癌と診断されて入院して、もしあと1年の命だとしたら、自分は何をやりたいのかを考えました。それを書き出してみたら、すでにほとんどのことをやっていたんです。気がかりだったのは会社の存続でした」

もし自分がいなくなったら会社はどうなるんだろうか。丸山はすぐに、社員の一人に会社を譲る決心をする。「今から努力してくれ」 とその決断を告げられたのは、当時、23歳の現社長、神永 暁だった。

丸山は言う。経営者として最も必要とされる資質は、計算ができるとか、仕事をこなせるとかではなく、勝負強さだと。これから先、時代はどんなふうに変わるか分からないし、災害が起こるかも知れない。決して順風満帆には行かないだろう。そういう時に最後に必要なのは勝負強さだ。計算は教えられるが、勝負のカンは教えられない。レースの世界で生きて来た丸山は、神永のレースでの勝負強さに賭けたのだ。

「健康には絶対的な自信があったとしても、こんなことが起こるんだなと思いましたね。癌ってそういうものなんだなと理解しました」

癌の宣告を受けてからは癌に関する本を読み漁った。死に対しては不思議と自然に受け止められたが、残りの時間を癌とうまく共存していくにはどうしたらいいのか、もし余命が少ないならどう生きるのが良いことなのか、余命が少ないと言われた人はどうやって生きていくのが良いのか。出来る努力をしよう。自分にとって一番と信じた道を全開で行ってみようと誓ったのだ。

手術は丸一日掛かり、術後も辛かった。骨折の手術は何度も経験しているが、今思えば大したことはないと思えた。痛みには強いはずだったが、「頼むからもう一回痛み止めを打ってくれ」と夜中に何度か頼んだのは丸山自身が意外だったと振り返るほど。あれから約4年。今のところ転移はない。

「幸い僕は命を取りとめた。でも、人生、そんな余裕な時間はないんだってことに気付けた。無駄に過ごす時間の勿体なさに気付いたんです。1年間生き延びたら、もっと色々なことができる。そういうふうに考えると、同じ1年でも、すごく価値のある時間を過ごせると思いました。僕は良い時代を生きて来た。でも、昔は良かったとは思わずに、この先を生きていきたい。立ち止まっている時間は勿体ないから」

結局、丸山 浩は丸山 浩なのだ。彼はよく冗談で、「元気、前向き、楽天的」の代名詞のような人と評されるが、命に関わる病気を経験しても、彼の生き方が変わったわけではない。これまでもこれからもバイクに乗り、クルマに乗り、二輪でも四輪でもレースをして、走行会を主催し、ジャーナリストとしての活動もしながら生きて行くのだろう。

何があろうと、人生は、その人がそれまでにやって来たことの延長線上にある。1964年生まれの人たちは、クルマもバイクもど真ん中の時代を生きて来た。いつもそばにはクルマがありバイクがあったはずだ。振り返ればきっと、これまでの歩みの中にこれからを生きて行くヒントがあるに違いない。

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。

1964年の「あの時」に立ち会えたことは私の宝物です─岡崎宏司

text:岡崎宏司

1964年5月2日、スズカは快晴。空気はカラッとしていて「すべてが清々しかった」…そんな記憶が皮膚感覚的に残っている。あまりの興奮と高揚が、私の身体にそう擦り込んだだけなのかもしれないが。

とはいえ、一日中興奮していたわけではない。「とんでもないピーク!」がきたのは、GT|Ⅱクラス(1000㏄~2000㏄)の戦い。当時のGT|Ⅱクラス最強といわれていたポルシェ904(以下904)と、4 ドア・ファミリーセダンを「ヤッツケ改造!」したスカイラインGTの戦いである。

予選でクラッシュしたフロント部分に応急処置し、ガムテープをベタベタ張った904の姿は痛々しかった。  そして、他車がスタートグリッドに付いても、904はピットから出てこない。スタート時間が迫るにつれて観客席のざわめきも大きくなっていった。ざわめきが一瞬静寂に変わり、そして、叫ぶような大歓声に変わった時…904がグリッドに付いた時は、もう、スタートまで数分しか残っていなかったと思う。

傷を負った904とスカイラインGTの戦いは、予想以上、期待以上に接近したものだった。904はオン・ザ・レールでコーナーを回り、スカイラインGTはドリフトで回った。「ドリフトに憧れていた」当時の私は、トップ集団を形成するスカイラインGT勢の走りに惹きつけられた。

「曲がらないし、タイヤのグリップも弱いからドリフトしかなかったんだよ」と、後で生沢 徹から聞いたが、理由はどうあれ、スカイラインGTのドリフトは目に焼き付いた。

興奮と高揚が極限に達したのは7~8ラップ目。生沢 徹のスカイラインGTが式場荘吉の904の背後にピタリとつけ、ヘアピンで抜き去り、そのままグランドスタンド前を通過した「あの時!」である。

「ヘアピンで抜いた」ことは後で知ったのだが、遠くの雷鳴のように聞こえた歓声で「なにかが起きた」ことはわかった。雷鳴はどんどん大きくなり近づいてきた。

「生沢が式場を抜いた!!」誰もがそう思ったはずだ。904を後ろに従えたスカイライン2000GTが最終コーナーに姿を現す前、すでにメインスタンドのすべての人が立ち上がり、全身で叫び、スズカ全体が歓喜の爆発で覆われた。

もしも、同じような歓喜の爆発が起きるとすれば、日本でサッカー・ワールドカップが開催され、ベスト8辺りから日本代表が勝ち進んだ時…くらいしか考えられない。

「あの時」、私は「日本の自動車産業の大きな未来」を確信したが、それが形になるのも早かった。1966年のカローラ、サニー、スバル1000等々の誕生と共に、日本のモータリゼーションは一気に加速。トヨタ2000GTやマツダ・コスモスポーツ、フェアレディZといったスポーツカーも続いた。自動車生産台数も、1967年には西ドイツ(当時)を抜き世界第2位の座に就いた。
 
第2回日本GPと同じ年の1964年には東京オリンピック開催、東海道新幹線開通、首都高速の都心〜羽田線も開通している…1960年代は日本が前代未聞の躍進を遂げたのだが、私の中で、そんな時代の象徴になっているのが「あの時」なのだ。

私事になるが、学生時代の将来の目標は放送作家だった。そのため、アルバイトもTV局を選び、就職も内定していた。当時では最高ランクの就職先だった。しかし、1963年の第1回日本GPを見た私は「クルマ好き」の自分を抑えられず、当時としては最低ランクというか、ランク付けさえ不可能な「モータージャーナリスト」という職業を選んだ。

当初は自分自身でも半信半疑の選択だった。が、翌1964年の「あの時」に立ち会って、正しい選択だったと確信できた。そして「あの時」から50年経った今でも、私の選択は「最高だった!」と思っている。