'90年代、なぜ日本人は強かったのか。『nobbyからの手紙』連載を終えて

アヘッド 上田 昇氏

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前号(vol.109)で、1年9ヵ月に渡って上田 昇氏に書いていただいた連載、『nobbyからの手紙』をいったん終了した。上田昇と言えば、ロードレース・ファンなら知らない人はいない。時には3つの表彰台を独占するなど、日本人が華々しく活躍した’90年代のWGP(現MotoGP)で、その先頭を切ったのが上田であった。

text:ahead編集長・若林葉子 photo:菅原康太 [aheadアーカイブス vol.110 2012年1月号]
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'90年代、なぜ日本人は強かったのか。『nobbyからの手紙』連載を終えて

'90年代、なぜ日本人は強かったのか。『nobbyからの手紙』連載を終えて

が、恥ずかしながら、当時20代の私はロードレースとは無縁の世界で息をしており、WGPにおける日本人の活躍も上田のこともまったく知ることはなかった。

近年のMotoGPしか知らない者にとって、そもそも日本人が世界を席巻するほどに活躍したという事実を実感として掴むことはなかなか難しい。資料を読んだり、DVDを見たり、それ以外にはもっぱら編集長を初め、周囲の人たちからの話を聞くうち、ようやく立体的に分かるようになってきたというのが正直なところだ。

しかし、そんな私にも上田昇という人の凄さを少しは理解できる。メーカーやスポンサーの後ろ盾もなく、「一人の個人」として海を渡った最初の日本人。もちろんそれまでにも個人としてGPに出場した日本人が皆無というわけではないが、ヨーロッパで認められ、トップクラスのチームと契約し、成功を収めた初めての日本人。それが上田昇だ。

そして上田は23歳から35歳の12年間を現役ライダーとして闘い抜いた。戦績は表のとおり。タイトルこそとれなかったものの、年間ランキング2位が2度。通算160戦出場、1412ポイント獲得はいずれも125㏄クラス史上最多記録であり、その後も破られていない。

上田昇という人は、なぜたった一人で世界の扉を開けることができたのか。時代背景抜きに語れないことは当然だが…、私の興味はそこに集中する。
ノビーから届くメールは、たいてい「ボンジョールノ!」とか「ボナセッラ!」、ときには「ブエノス ディアス!」で始まったりする。彼がイタリア語やスペイン語を自在に操り、かの国で誰よりも受け入れられている日本人であることはよく知られている。

メールの挨拶も、いつも大らかで明るいノビーらしいのだが、そういうイメージとはうらはらに、実際のノビーはきわめて論理的思考をする人だ。話をしていると、「物理の先生と話してるみたい」と思うことがよくある。

それは機械としてのバイクについて語るときもそうだし、バイクの挙動について語るときもそうだ。ライディングについても実にロジカルに語る。図や絵を描いてみたり、ときには紐を使ってみたりして、丁寧に説明してくれる。
 
が、そもそも、ノビーがプロのライダーを目指すその道筋がなんとも論理的であった。本人も連載の中で語っているが、スーパーカーブームに湧く’70 年代後半、家の近所の自動車整備工場の片隅にあったレーシングバイクのTZに魅せられ、’80 年代の鈴鹿4耐を観戦したときには、体が震えるほど興奮したという。

レースのことが頭から離れず、親に「バイクのレースがしたい」と打ち明けるが反対され、サーキットの近くにある仙台の大学に進学。アルバイトとサーキット通いに明け暮れる大学生活を送る。ここまでならよくある青春物語だ。

しかしここから先がちょっと違う。大学にはただ籍を置いているだけ、バイト代だけでは本格的なレース活動などとても望めない。SUGOの地方戦でトップ争いをするショップの先輩が、生活のすべてを掛けて真剣にレースに打ち込んでいる姿を見るうち、彼は何もかも中途半端な自分を猛烈に反省する。

そして大学を休学し、「2年間で国際A級になる。最初の1年は資金作りのために働く。2年目で国際A級を目指す。ダメだったらきっぱり諦める」という計画を立て、両親を説得する。自分を追い込み、実際、計画どおり2年間で国際A級という目標を達成したのだった。

目標から逆算して、目標を達成するために何が必要かを見極め実行するところなど、論理的としか言いようがない。’91 年にワイルドカード枠で出場し、ポール・トゥ・ウィンを飾ったWGPの鮮烈なデビューも、本人には十分勝算があった。

ノビーがよく言うのは「僕らの世界にはラップタイムっていうはっきりとした基準があるんだよ」。だから目標を立てやすいし、自分の位置を知ることも容易である、と。

ノビーにとって練習とはやみくもに走ることではない。1回1回の練習に明確な目標を置き、集中してその目標に向かうこと。できうれば1回で目標を達成すること。そうでなければ1度しかない本番で結果を出せない。

そしてまた後進を育てる際に、「スタンダードのバイクで走る」ことにこだわるのにも同様の理由がある。マシンに頼らないライディングを身に付けるためということはもちろんだが、いつも同じ状態のマシンであれば、自分の中に基準を作りやすい。ライディングの組み立てとマシンコントロールの工夫で、速く走る方法が身に付くからだ。

論理的であるということは、まずは突き詰めて考え抜くことができるということ。ものごとの因果関係をつかめるということでもあるが、何より我慢強くなければならない。感情に打ち克つ意志があってこそ、論理を達成できるからだ。

自分の描いた夢や自分の打ち立てた目標のためなら、どんな我慢もどんな試練もいとわない。それが上田昇という人の強さだったのだと思う。

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
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