久しぶりの軽井沢 軽井沢千住博美術館を訪ねて

アヘッド 軽井沢

横浜を出て、大渋滞の東名高速道路を行く。通勤時間帯を避けてこんなに朝早く出発したというのに、青葉から海老名まで2時間近くも掛かってしまった。やっとという感じで圏央道にたどり着くとようやく順調に流れ始めた。クルマはこうでなくては。

行く先は軽井沢。そう、久しぶりの軽井沢だ。

第三京浜で用賀を経由して環八をずっと行って素直に関越道に乗るか、あるいは圏央道を使うか、出掛ける前に迷ったのだ。結局、事故渋滞に巻き込まれてしまったのだが、考えてみれば学生時代にこの選択肢は無かった。そんなことにも時の経過を感じる。

学生時代、と言ったのは、私たちが学生の頃は軽井沢は夏の定番だったから。部活にもサークルにさえ興味のなかった私でさえ、学部の友だちと何度か軽井沢へ足を運んだ。別荘地の木立の中や旧軽井沢などの町の中を散歩して、お土産にジャムを買ったことくらいしか思い出せないのが我ながらお粗末だけれど。

あれ以来、仕事で1度行ったきり。なのに軽井沢を目指したのは、 『軽井沢千住博美術館』 にぜひ行ってみたかったからだ。

美術や芸術のことは分からない。千住 博さんのこともよく知らなかった。妹さんであるバイオリニストの千住真理子さんに少しばかり興味があって、お母様が書かれた『千住家の教育白書』(千住文子著・新潮文庫)を読み、興味は千住 博さんにまで及んだ。いったん興味を持つと、関連書籍に手を出すのがいつもの癖で、博さんの著作も何冊か読んだ。


著作の中で千住 博さんは芸術とは何かについてはっきりとした答えを出している。そしてそれはとても分かりやすい。普通、人は誤解や反発を恐れて、大きな概念を定義してしまうことを避けるものだ。そこからこぼれ落ちてしまうさまざまなものを拾おうとして、たくさんの注書きを付けたり、カッコの中にたくさんのエクスキューズを入れたりして。そうでなければ、難しい言葉を使うか、禅問答のような文章を展開するか。

千住さんはそういうこととは無縁。その勇気、その潔さに惹かれた。そういう人が、自分の理想とする美術館をつくったというなら行ってみたい。そう思ったのだ。

アヘッド 軽井沢

美術館は分かりやすい場所にあった。どんな目を引く建物だろうと思っていたけれど、外から見るかぎり目立ったところはない。入り口までは木々や草花が植えられた細いアプローチを抜けて行く。ごく普通の自動ドア。ドアが左右に開くと、明るくて大きな空間が広がった。

あらかじめ取材の申し入れをしていたので、受付で挨拶をする。何か留意すべきことはありますか、と訪ねると、事務局長の田代方彦さんが「ありません。かっこ良く撮ってくださいね」と一言。美術館の撮影では、三脚やらストロボやら、またそれ以上に著作権の問題などでいろいろと難しいことがあるのが普通だから、何だかうれしくなってしまった。

その心持ちのまま、さてじゃあ作品を見てみようかと全体を見渡すが、えっと、と戸惑う。普通の美術館にあるべきものがないのだ。「順路」がない。どうぞご自由に、ということらしい。では、ということで心の向くまま歩いてみる。そしてまた戸惑う。床がまっすぐじゃない。確かに「軽井沢の自然の地形を活かした床」というふうに聞いてはいたが、本当に土地の起伏をなぞったような床で、直線で結ばれていないのだ。すごく不思議な感じ。

「一番高いところと低いところで約3・5mの高低差があります。車椅子や足の不自由な方もお出でになりますから、比較的平なところを2本のガイドレールで示しています。また観賞用の椅子を、車椅子が動き出してしまいそうな場所に配置しています」と、学芸員の鈴木陽子さんが説明してくださった。優しい美術館だ。しかもそういう配慮が、全体の空間を少しも邪魔しておらず、説明を受けるまで気付かなかった。

 驚くことは他にもあって、絵にガラスがない。わずかに、絵の前に一本の細いワイヤーが張られているだけ。なのに「作品には手を触れないでください」の注意書きもない。絵については受付で渡される展示ガイドで分かるようになっており、鑑賞を妨げないよう、絵の横に長々とした解説はついていない。照明は自然光を基本としている。

「あまりに無造作な感じがするので、たまにレプリカですか? とお聞きになる方がおられます。ガラスがないので、お客様が凄く近くまで顔を近づけたりされると、はらはらするんです。でも、『人は本当に美しいものを傷つけたりはしない』というのが千住博の考えで、万が一何かあった時は自分の責任で何とかするという覚悟なんですね。幸い、そういうことはこれまで一度もありませんが」(鈴木さん)

この美術館は長く居ても疲れを感じない。絵以外に目に入るものと言えば樹々くらいだから、ゆっくりと絵を見ることができる。解説などが目に入ると、どうしても知識の力を借りようとして、絵を見るより説明を読む方に意識が行ってしまうものだ。

絵にガラスがないのも、それが自然なことだからなのだろう。

昔、博物館のガラスケースに収められている仏像を観たとき、一緒に行った方がこんな主旨のことをおっしゃった。「仏像というのはね、人から拝まれたり、手を合わせられたりしているから仏像でいられるんですよ」

本来いるべき場所にいる仏像の持つ迫力、あるいは仏様から感じとる慈悲の心。博物館の仏像からそういった生の感情が生まれにくいのは事実だ。ここに保存ということの難しさがある。

できうればなるべく自然に。見る側にストレスを与えず、作品と作品が互いに邪魔をせず。それを叶えるのは創意工夫と労力を厭わない管理と、そして勇気に違いない。素晴らしい建築(建築家・西沢立衛氏による)と、学芸員の方々の努力、作家の勇気。千住博美術館はそのすべてがあると感じられる。

本の中の写真で見たときには特に何も感じなかったのだが、実際に作品の前に立ってじっーと見ていると、ゆっくりと自分の中の何かが動き出す感じがする。その絵の前に立っていると、作品と(あるいは作者と)信頼関係で結ばれているようなそんな幸福な気持ちに満たされる。絵の意味を考えるのは、その後でいいのだ。

「人は美しいものは傷つけない」

千住 博さんのその信念は、根底に、人間というものに対する信頼があるのだろう。順路もない、注意書きもない。「自由でいいんですよ」 「注意事項はありませんよ。かっこよく撮ってくださいね」 そんな風に言われると、人は裏切れないものだ。

美術館で幸福な時間を過ごしたあと、また横浜に向かってクルマを走らせる道すがら、私は、勇気と信頼、そしてそこから生まれる人と人との関係性について深く考えさせられたのだった。

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。

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