クルマやバイクはストーリーを増幅させる

アヘッド 映画「ベラ・ヴィータ」

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使いこまれたトライアンフでイタリアへやって来た男。彼は少年時代を過ごしたこの土地で、ルーツを探す旅に出る。6月公開のサーフドキュメンタリー『ベラ・ヴィータ』の冒頭だ。

text:山下敦史 [aheadアーカイブス vol.150 2015年5月号]
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クルマやバイクはストーリーを増幅させる

クルマやバイクはストーリーを増幅させる

この映画は、波を追って世界を旅してきたアメリカ人プロサーファーのクリス・デルモロが、ふと立ち止まり、父の故郷でもあるイタリアを旅しながら人生を見つめ直す心の旅を綴ったものだ。イタリアのサーフ文化や土地の人々に触れ、彼は本当の豊かさとは何かを感じ取っていく。

と、長々書いておいて恐縮だが、本稿は映画紹介が主題ではなくて。映画に登場するバイク・クルマについてだ。例えば本作。大半はクルマでの旅なのだが、冒頭と結末、本編を挟む形でバイクが登場する。というかそこしかバイクは出ないのだが、それでも見終わった後、まるでずっとバイクで旅した気分にさせられるだろう。

それは、この映画が心の奥へと向かうパーソナルな旅を描いてもいるからだ。バイクは孤独な魂の象徴なのだ。そう考えると、車種がトライアンフというのも意味深い。米伊のハーフであるクリスが駆るのはそのどちらでもない英国車。

つまり、彼がどこにも属さない根無し草=旅人であることを示しているように思える。終盤イタリアを離れるとき、彼は「これは別れではなく、一時の空白だ」と述懐する。バイクにまたがり、再び旅人に戻るにしても、彼はもう孤独ではない。旅を通じて心の中に帰るべき場所、根を張る場所を見つけたからだ。

ストレートなクルマやバイク映画も嫌いじゃないけど、こんな風に一見本筋とは関係なさそうで、でもよく見ると作品に奥行きを与えるというのが、クルマとバイクが一番輝く映画での使われ方じゃないだろうか。

前にも本誌で書いた気がするけど、「ボーン・アイデンティティー」でヒロインが傷や凹みもそのままの旧ミニに乗っていて、「ああこの人は運転が下手な上、修理代もないんだな。でも案外大事に乗ってて、悪い人じゃない」と思わせたように、映画が始まる前のその人の暮らしまでが見えてくるような使われ方だ。

さらに後にはそのミニで主人公ボーンが超絶カーチェイスを展開し、彼がただ者ではないことを雄弁に語るなど、名脇役を演じて見せた。ただ、クルマやバイクにこだわった描写は欲しいんだけど、それは製作者ではなくて、あくまで登場人物のコダワリであって欲しい。

いかにも〝分かってるでしょ〟的なクルマのカットを挟まれたりなんかされると、〝作り手の主観〟というノイズで現実に引き戻されてしまう。最初は気付かれなくてもいいのだ。

作中人物に寄り添う脇役に徹しながら、画面の向こうに広がる世界を感じさせてくれるとき、映画の中の人とクルマやバイクの関係は上映時間を超えた物語を語り出す。それこそが映画の中のクルマやバイクの格好良さなのだ。
©2014 BELLA VITA MOVIE LLC

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