ミツビシの全車種を紹介!ミツビシ徹底解説!(1870年~1960年)

三菱A型

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三菱 デリカD:5をはじめ、過去にはパジェロやランサーエボリューションといった特徴的なエクステリア(外装)を持つクルマを送り出してきた三菱自動車ですが、その始まりは明治時代まで遡ります。三菱自動車の辿った歴史とはどのようなものだったのかを、当時の乗用車を中心に紹介します。

文・PBKK
Chapter
三菱A型(1917年)
PX33(1936年)
三菱 ジープ(1953年)
三菱 レオ(1959年)
三菱 500(1960年)

三菱自動車のはじまり

三菱自動車は言わずと知れた三菱グループ企業ですが、自動車会社として独立したのは戦後のことでした。

その起源は1980年に土佐藩出身の岩崎弥太郎が設立した九十九商会とされ、なんと当時は江戸時代でした。その後、明治維新を経て九十九商会は三菱商会へと改称。海運や造船などを中心に発展し、1917年に三菱造船が設立され、これがのちの三菱自動車のルーツとなります。

三菱A型(1917年)

三菱A型は、当時工業製品の生産技術があった三菱造船神戸造船所で製造された三菱最初の乗用車です。車体はほぼ手作りで、ドアなどの枠はハンマーで叩いて形状を出し、車内には木材も使用されています。

三菱A型は100年以上前につくられた、日本最古の部類に入るクルマの1つですが、残念ながら現存する車種はなく、資料で姿が確認できるのみとなっています。

PX33(1936年)

日本の工業力を支える中核企業でもあった三菱造船は1934年に三菱重工へと改称し、1935年に陸軍自動車学校から軍用車両の試作依頼を受けます。それに応えるべく開発されたクルマがPX33でした。

当時の乗用車にみられたふくらみのあるフェンダーや長方形のフロントウィンドが特徴的でしたが、量産されることはなく、4台の完成車が製造されるにとどまりました。

三菱重工は戦艦「大和」などをつくるも、太平洋戦争後に解体

九十九商会からはじまった三菱重工は、「大和」「零戦」などの軍艦や軍用機を手掛ける企業へと成長しましたが、太平戦争の終結に伴いGHQによって三井や住友など他の財閥と共に解体されてしまいます。

戦後は飛行機を製造していた名古屋の工場で、他メーカーのクルマのボディ製造がスタートします。飛行機づくりで培ったプレス技術などを活かしてトヨタやダットサンのクルマに関わることもあったと言われています。

1946年には屋根付き3輪自動車(オート三輪)「みずしま」や、国産スクーター「シルバービジョン」などを開発、そして1950年に三菱の自動車部門は中日本重工業と共に新たなスタートを切りました。

三菱 ジープ(1953年)

太平洋戦争後、当時発足したばかりの警察予備隊で使用するクルマとして、三菱が手掛けたクルマがジープでした。

三菱が製造したジープは、もともとアメリカのウィリス社が開発したものを日本で現地組立したノックダウン生産モデルでした。そのため構成部品はウィリス社のものであり、初期モデルには三菱の企業ロゴであるスリーダイヤがありませんでした。

三菱 レオ(1959年)

戦後間もない頃に三菱が開発した3輪自動車「みずしま」の技術を活かして開発された3輪自動車がレオです。

当時、貨物を中心に3輪自動車が人々の間で人気となり、レオは「三菱3輪ペット」という新たなジャンルで発売されました。広い足元や金属製のルーフを持ち、乗り心地に優れていたことから乗用車としても使われることがあったと言われています。

三菱 500(1960年)

三菱500は、戦後三菱が初めて製造した小型乗用車です。

戦後日本における大衆車構想を進めていた、当時の通商産業省の「国民車構想」を受けて開発されたクルマで、低価格で合理的な設計が特徴です。

結果として、ワイパーブレードは1本、方向指示器も前後ではなくBピラーに集約されるなど、コストを削減するつくりが見られました。
三菱自動車のルーツは江戸時代まで遡りますが、会社として独立することはなく、太平洋戦争中は三菱重工、戦後は中日本重工業という三菱グループの1部門に留まっています。

戦前の三菱グループは、造船や航空機製造をはじめ化学や電気などさまざまな事業と会社を持つ巨大財閥であり、三菱自動車はそうした巨大資本の中から誕生したという点も他の自動車メーカーと異なるポイントと言えるでしょう。
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