殿堂入りした、元祖ライトウェイトスポーツ

ahead ヨタハチ

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「ヨタハチが殿堂入りしたんだって」と聞いたのはつい先日のこと。「トヨタ スポーツ800」が殿堂入りしたのは、日本自動車殿堂(JAHFA)の2012年歴史者部門である。

text:ahead編集長・若林葉子 [aheadアーカイブス vol.124 2013年3月号]
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殿堂入りした、元祖ライトウェイトスポーツ

殿堂入りした、元祖ライトウェイトスポーツ

JAHFAとは聞き慣れないが、日本における自動車産業・学術・文化などの発展に寄与した人物やクルマなどを〝殿堂入り〟として顕彰し、後世に永く伝えてゆくことを主な活動としている特定非営利活動法人のこと。すでに日本において20年以上の歴史がある。
 
去る2月10日に、これを記念するイベントと講演会が、お台場のメガウェブとヒストリーガレージで開催された。イベントには全国からオーナーズクラブの方々が参集し、約50台ものヨタハチが勢揃いした。

講演会は、クルマ好きと見受けられる男性だけでなく、夫婦や親子、中にはオーナーであるおじいちゃんと孫といったまさに老若男女入り交じる方々で賑わい、改めてこのクルマの人気ぶりを実感した。
トヨタ スポーツ800の源とも言えるパブリカスポーツが全日本自動車ショウ(現東京モーターショー)で発表されたのは1962年(昭和37年)。イギリスでロータス・エランが発売されたのと同じ年に試作車が発表されたという事実は、驚くべきことだ。

そして3年後の1965年(昭和40年)4月にトヨタ スポーツ800として発売された。「スポーツカーをみんなのものに」というコンセプトであった。終戦からわずか20年後のことである。
 
トヨタ スポーツ800の開発主査である長谷川龍雄氏は、もともとは航空技術者であり、B29の迎撃機の開発に携わっていたこともあるという。飛行機を思わせるようなボディ形状や、飛び抜けて優れた空力性能などは長谷川氏の知識や経験によるところが大きいと言われている。
トヨタの最小大衆車、パブリカのエンジンとシャーシを流用したことなど、ライトウェイトスポーツの王道とも言える作り方を抑えた上に、このとき既に、ハードトップを外してトランクに収納する機構を編み出していたことも注目に値する。これは後にポルシェが採用し、タルガトップと名付けた。
 
一方、レース史上においては浮谷東次郎がトヨタ スポーツ800を一躍有名にした。1965年7月18日、雨の船橋サーキットにおける名勝負である。GT1レース序盤、浮谷東次郎のトヨタ スポーツ800は、生沢徹がドライブするホンダS600とデッドヒートを繰り広げ、接触によりいったんは16位にまで大きく後退。

しかしその後、驚異的な追い上げを見せ、ついには先頭の生沢徹を追い抜き、2位以下に19秒もの差を付けて優勝。今も伝説として語り継がれている。
 
イベントの帰り、次々と帰路につくトヨタ スポーツ800と行き会わせた。小さくて美しくて可愛くて愛おしい。人の手が感じられ、人の匂いがするのである。今再びヒストリックカーが注目されているのが分かる気がする。

▶︎1962年に発表されたパブリカスポーツは、航空機を思わせるスライド型のキャノピーを持ちドアは存在しない。当時の車両は現存していないため2007年7月にトヨタ自動車のOBが中心となり改めて製作を開始、2012年11月に完成した。半世紀ぶりに復活したこのパブリカスポーツは少ない資料と写真をもとに手探りで完成させたという。2月10日のイベントではデモ走行も披露された。今後は愛知県の「トヨタ博物館」で展示保存される予定。

TOYOTA SPORTS 800(1965年
全長 3,580mm
全幅 1,465mm
全高 1,175mm
車両重量 580kg
最高速度 155km/h
エンジン 空冷OHV水平対向2気筒
排気量 790cc
最高出力 45ps/5,400rpm
最大トルク 6.8kg・m/3,800rpm
燃料消費率 31km/ℓ
価格 ¥595,000(発売当時)

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text:若林葉子/Yoko Wakabayashi
1971年大阪生まれ。Car&Motorcycle誌編集長。
OL、フリーランスライター・エディターを経て、2005年よりahead編集部に在籍。2017年1月より現職。2009年からモンゴルラリーに参戦、ナビとして4度、ドライバーとして2度出場し全て完走。2015年のダカールラリーではHINO TEAM SUGAWARA1号車のナビゲーターも務めた。
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